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「やり方」と「あり方」

具体的なやり方ばっかり求める人が多いけど、「やり方」は自分の「あり方」が決まっていれば、自然とわかるはずなんだ。

「やり方」というのは、こういう時にはこうすればいいんだ、という方法論のことであり、または技術とか、テクニックとか、それを使うことで、みんながある程度同じように何かが達成できること。それは、さっと目の前の問題を解決するためには有効なのだと思う。

それを「自分らしくやりたい」とか「自分なりにやりたい」とかいう場合には、この「やり方」だけでは自分らしくはならないんだ。それは、みんなができる方法をつかっているわけだから、みんな似たり寄ったりになる。

多くのひとが、自分らしい何かを実現したくてハウツー本を読み「やり方」を知って安心するけれど、それは書店にならんでいる以上、一般論であり、ステレオタイプであるということに気づいたほうがいいと思うんだ。その本をてにとったひとたちは、みんな同じことをやるわけで、むしろ、どんどん無個性になる。

私がやるのだから、私らしいはずだ。と、そう思うかもしれないけど、では、その私らしさとは、なに?と問われてもなかなかそれをすぐに応えることはできないと思う。世の中には、その私らしさを探すためのハウツー本まである、といういたちごっこにハマっていることが多いように思う。

方法論が「やり方」だとしたら、それを使う自分らしさは「あり方」だ。

やり方ばかりみにつけても、ありかたは身につかない。

「ありかた」は、なぜそれをするのか、なんのためにするのか、という部分で、これは自分が決めることだから、何かを参考に答えが出るようなことではないと思うんだ。自分なりの試行錯誤や”生みの苦しみ”と言われるような、自分で考えるプロセスの中で育っていくものだから、そのプロセスを本を見てショートカットしようというのでは、当然身につかないと思う。

そう言っても、では「あり方」の身につけ方が書いてある本は、どこに売っているの?どうすればいいのか?という人もきっと多いんじゃないかと思う。それは危機感を感じるできごとだ。

それと同じようなことで、「この本には、結局なにをすればいいか書かれてない」という本にこそ、「あり方」について記されていることが多いと思う。それくらい、みんなが「自分のあり方」について、自分で考えることを放棄しているし、気づくことができないでいるんだ。

やり方が書かれていないということは、それは気持ちや考え方をみにつける本であり、それをうけいれることで、自分の「あり方」も成長することができる。誰かにアドバイスをもらったときなども、何も具体的に教えてくれないひとほど、「あり方」を提示してくれていることが多いと思うのだけど、それにきづけない人がいて、逆に文句を言ったりしている。

いま、この社会の中で、「やり方を」を後生大事にして、「あり方」など実用的でないものには目が向かないことが多いんだ。それなのに、自分らしくいたい、と願うことは多い。実用性のなかに、自分らしさはみつけられないんだ。「実用性」は単なる道具だから。「やり方」が丁寧に書かれている本は道具のカタログをみているようなもの。

自分はなにか、自分がどうなりたいかを考えるのなら、いちど、やり方からとおざかってみよう。自分がどのような存在としていたいのか、どんな生き方をしたいのかを考えて、それを日々という一日や一時間の自分の姿におとしこんだものが「あり方」なんだ。

自分のそのイメージは、その日そのとき、こんなときに、自分はきっとこんな行動をするだろう、と考える。いま自分が考えつく範囲で、見よう見まねでいいから、何かをやってみよう。それが「あり方」を成長させると同時に、自分らしい「やり方」に自然とおさまっていく。

商品として「綺麗にまとまったもの」が、価値が高いわけじゃない。それは「見劣りがしない」だけのものであり、無個性だと思うから、もちろん、そこから学ぶことは、たくさんあるけれど、それになろうとしても自分は膨らまない。

自分の「あり方」を決めて、そこから自然と出てくるものを認めてあげることが必要だ。それは難しくない。自分以外に答えを求めなければ、自分の「あり方」も自然とはっきり見えてくるんじゃないかな。

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