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生きづらさの紐とき。第2考「過敏な心のアレルギー」

*空気を読むことと「いきづらさ」

会話のやりとりがズレているとき、なんとなく、重いしんどい空気が流れる。多かれ少なかれみんなが経験していること。
けどその原因が自分にあり、なんで空気を読めないのだろう、なんで会話や文章のニュアンスを汲み取れないのだろう、と感じていたら、なおさらつらい。

自分が悪いんだ、と、会話のたびに人への迷惑を気にするのも疲弊するし、自分は正しいんだ、と、会話のたびに相手と衝突するのも疲弊する。
それが日常的に繰り返される出来事になっていると「いきづらさ」を感じるだろう。

*鈍感じゃなく繊細

「空気が読めない」のは、話を聞かない、自分の話したいことしか話さない「鈍感」で「自分勝手」だという気がするけれど、僕はむしろ「敏感」で「繊細」だと思う。

「話を盛り上げなきゃ」「気の利いたことをいわなきゃ」「正解を答えなきゃ」と気をつかう人は、非常に繊細なのだ。
その繊細さのために、盛り上げようとして突拍子もないことを言ってしまったり、気を使いすぎて回りくどい言い方になったり、否定されるのが怖くて意見できなくなっていることがある。

しっかりと話を聞こうとして、神経を集中すると、周りの雑音や景色までが気になって頭の中を占領してしまう。
気になった言葉がずっと頭にのこってしまい、他に何も考えられない、聞こえない状態になっていたりする。
どれにしても、結果的に話をしっかり聞くどころではないのだ。

これはおそらく、元を掘り下げていけば、鈍感というよりも敏感すぎるために生じている。
「しっかり聞く」「しっかり話す」というイメージが脅迫的になってしまい、緊張を生み出す。緊張が敏感さをより刺激してしまい、余計な情報までとりいれてしまったり、思考の渦に囚われてしまうことがあるのだ。

ざっくり言えば「カラ回り」で片付くことかもしれない。でもカラ回りを起こす原因を特定し、人に説明するのはとても難しい。
自分の感受性のしくみをきれいに言語化できるくらいなら、だれだってコミュニケーションで悩んだりしないのだ。

*心のアレルギー反応

鬱や発達障害などの症状は、状況や環境をはじめとして、それらが心身に及ぼす影響まで含めると、かなり複数の要因によって左右されているはずだ。
人それぞれの原因まで特定できないが、次のように考えてみる。

私たちの皮膚が荒れていたり腫れていたりすると、感覚が過敏になり痛みを感じやすい。頭が熱っぽいときなど光や音など、目や耳への刺激も強くつらく感じたりする。
特に花粉症などのアレルギー性鼻炎や蕁麻疹などの皮膚症状は多くの人が経験しており、その辛さがわかるだろう。

アレルギーはもともと人間の持っている正常な機能で、それが過剰に反応することが原因だ。それは、その要因となる「アレルギー物質」によって症状がひきおされている。

では例えば、これが物質ではなく
「アレルギー関係」
「アレルギー雰囲気」
「アレルギー状況」
「アレルギーことば」など、
見たもの聞いたもの、そして感じたことに関係して、こころが過剰反応し、症状がでていると考えてみると、わかりやすいのではないだろうか。

もともと誰でも感じているような少しの違和感や、不安や、焦り。そこにアレルギーのような過剰な反応がおきる。
そして、熱をもったり、くしゃみが止まらない時のように、思考がまとまらず気持ちが落ち着かないから、細かなコミュニケーションのやりとりをする余裕がなくなってしまう。

これが「生きづらさ」の、またひとつの考え方だ。

あなたが花粉症や皮膚炎を経験していたなら「それがもし『心』でおきたら」と想像してみてほしい。なんとなくでもその辛さに近づくことができると思う。

*知っているのに、共感がないこと

大切なのは「誰でも持っている感覚が」過敏になっているということだ。

アレルギーは、同じものを食べて反応する人もいれば、平気な人もいる。あるとき過敏になってしまった人だけに、症状がおきる。

仮に、花粉症になったからといって、生活ができないわけではない。しかし、花粉症の辛さは、なった人にはその辛さがわかる。

それと同じように、こころのアレルギーも、それで生活ができないことはないけれど、なってしまった人は、常にその辛さの中にいるのだ。

似たような事に思えるのに、それが「こころ」のことだから、目に見えないから、共感を得られない。

「生きづらさ」の小さな要因は、誰しも経験ある身近な「つらさ」と似たようなものだ。
しかし、その要因を特定できず、伝えられず、理解されにくいということが「生きづらさ」の奥に深く根を張っているということを知ってほしい。

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