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生きづらさの紐とき。第4考「ゲームでいうしばりプレー」

*気分の良くない生活

毎朝4時から6時ごろに、みぞおちのあたりから不安感がこみ上げてくる。平衡感覚は鈍くなり、動悸が激しくなる。心拍があがっているわけではないのに「動悸感覚」がする。
サウナのように重たい空気抵抗を感じ、ムッとする。気分が悪い。
ところが10時、11時をすぎる頃には自然と治っていくことが多い。

これは僕の場合。だいたい15年間くらいこれが良くなったり悪くなったりしながら付き合ってきている。
魔王にかけられた、地味な呪いじゃないかと思う。

最近になって思いだすのは、小学5年生ごろから中学生の間もずっとこうだったかもな、ということ。
中学は毎朝お腹がいたかったし、吐き気があった。当時はそれが普通なのだと思っていたけど、たぶん「過敏性腸症候群」なのだろう。
毎日、無理やりご飯をかきこんで、そして正露丸を飲んで通学した。

「いきづらさ」とは直接関係しないかもしれないが、この年頃に「学校でお腹が痛い」ということは死活問題に発展するおそれがあり、非常にシビアなのだ。特に小学生男子が学校で大きい方のトイレにいく、ということがバレると人権に関わる。
お腹が弱い小中学生は、いきなりトイレにむかってはいけない。保健室というクッションを挟むことをお勧めする。教員用のトイレを使わせてもらえるから。保健室では腹痛は「正義」なのだから。

26歳のときと33歳のときには、一時期症状が悪化した。いいもいわれぬ不安感にまとわりつかれ、半日は布団から出れない、ソファーから立てないという日も多かった。
電車に乗ると冷や汗とも脂汗ともつかない、じっとりとした汗がふきでてくる。
忘れ物が多くなり、特に仕事で書類が手につかない。まるで、脳が重たい水に浮かんでいるような重圧で、それがあたま全体にのしかかり、目をあけるのがつらい。

一方、頭の中が空洞化しているような感覚で、脳がプカプカ水に浮いていて、いつひっくり返るかわからないようなスリルのある毎日だった。

*これはしばりプレーじゃないのか?

これではRPGなどのゲームでいう「しばりプレー」である。「魔法使わないしばり」「防具つけないしばり」のような、「自分にハンデを課して、より難易度の高い状態を楽しむ」遊び方だ。
しかしこれは、リアルの世界ではたいへんキツい、やめてほしい。

*気を遣わせてしまう罪悪感

職場なんかで「気分が悪くて」というのは、一般的には、まあ1日から3日くらいのもんで、風邪をこじらせても1週間くらいだ。

一般的にそうだろうから、それの不調がずっと続いていて治らない、ということは想像できないものだ。しかし、そうなってしまうと、今まで通りに生活できないこともちらほらとでてくる。

人混みにいけない、午前から出かけられない、途中で電車を降りてしまい、遅刻する。

「人混みにいけないとき」は、不調なら誰でも起きる。悪寒があり急に吐き気がしたら誰でも「電車を降りるとき」がある。
でも、それは1日から3日経てば治るから、「人混みにいけない人」「電車に乗れない人」にはならない。

その感覚の違いが、気を使いながら、気を使われながら過ごさなくてはならない。 腫れ物に触れるようになってしまったり、罪悪感でいっぱいになる。
それがまた「いきづらさ」になる。

自分の身体におきる「気持ち悪さ」「痛さ 」は、工夫で乗り切れるものもある。
でも自分の至らなさに気を使うことが続き、「気を使われているな」と気を使うこともずっと続く。すると体の不快感の積み重ねより、周りとの接点でおきる心苦しさの積み重ねのほうがかなりキツイ。

幸い、僕はいくつかの生活習慣の工夫や、環境の変化、考え方の変化とともに「毎日の気分の悪さ」とはうまく付き合いながら過ごしている。

しかし、まったくそれがなかったころ清々しい朝にはなかなか再会できる気がしないのも事実だ。

*過度に期待せず、支援のある場所へ

あまりにつらいときは、それを抱え込まずに、相談できる場所もある。
最初から相談ができるのなら苦労はしてないのも承知だけれど、行政やNPOには支援の場所も機会もたくさん用意されている。ぜひ頼ってほしい。制度を活用してほしい。
家からでられないなら、電話やメールでも充分。なにかに、どこかに頼ってみていいのだ。

一方で、家族や親友といえる人たちでさえ、そのつらさは、わからない人にはわからない。現場の支援者であってもシンプルに「寄り添い」ができる人は多くはない。
期待しすぎてもダメなのだ。

それは誰も信頼できない、という意味ではなく、ただ単に「いきづらさ」は、それくらい理解されにくいものだ、と考えていたほうがいいと思うんだ。

「支援」というマニュアルがある以上、それは「普通に当てはまらないものへの対処」と捉えられている。
だから、法が整っても、どれだけ啓発されていても「いきづらさ」というものは、まだまだ「よくわからない」で済まされている。

心の持ちようだ、という人はたくさんいるが。そこに正当性はない。
しかし、喝を入れられて治る人がいたらそれはそれでいい。

いきづらさはオリジナルだ。
いきづらさを抱えた人みんなが、これで治る、などという答え探しほど、その人に寄り添うことから遠ざかっていくのだ。

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