醜いということ

 長引くマスク生活で忘れかけていたが、先日フォトスポットに行ったので一瞬マスクを外して恋人に写真を撮ってもらったところ、じぶんの顔があまりにも醜くて、びっくりした。何枚も何枚も並んでいる自分の顔を見たら呼吸が苦しくなってきて、苦しそうにしているわたしに恋人が「アプリで加工すれば?」と言ってきたので「顔が醜いという現実が苦しいのに、現実はアプリじゃないから何も解決しないのに」と思って腹が立った。
腹が立ったら涙も出てきて、それに対して「かわいいよ」と言われて慰められても、こんな醜い顔をしているひとがいいだなんて、センスを疑う、気持ち悪い、変だ、理解できないと思ってしまった。
だんだん吐き気が止まらなくなって、一刻も早く誰もいないところに行きたくて恋人を置いて逃げ帰ってしまった。

 「現実は指先で加工できない。」って松永天馬あたりが既に言ってそう。

 母親は自分の顔を醜いと思っているようだったから、子どもなんて産まないで欲しかった。産んだならせめて「かわいい」と言って育てて欲しいし、わたしが容姿について揶揄されて落ち込んだり、鏡を見て悩んだりしているのに対して「わたしの子にしてはマシな方」「だから文句を言うな」なんて言わないで欲しかった。

 札幌に来てからは減ったけれど、小学生の頃から大人になるまですれ違いざまに暴言を吐かれることはよくあって、小学生の頃はクラスメイトに「顔面土砂崩れ」と言われていたし、中学生の頃に痴漢にあったときも警察のひとから「性犯罪は美人が狙われるというわけではないですからね」と言われた。醜い、と言いたいわけではなく、抵抗をしなさそうな容姿、という意味だと分かってはいたけれど、失礼だと思った。高校生の頃は親友だと思っていた相手から、もっと性的な言葉で揶揄されたこともある(書きたくないけれど)。
でもやっぱり他人を不愉快にするような醜い容姿をしているわたしの方に非があるんじゃないか、と思ってしまうときもある。

 年々、歳を重ねるごとに大嫌いな母親に似てくるのだ。容姿も、中身も。外面だけ良くて、親しい人に対しては汚い言葉で他人の欠点をあげつらねては笑うような、意地悪ブサイクおばさんになっていく。あと年々髪も薄くなっていく。髪質も母譲りだから。意地悪ブサイクハゲおばさんになってしまう。
母とわたしが決定的に違うところといえば「働き者ではない」「お風呂が嫌い」くらいだから、ぜんぶどうでもよくなったら最後、意地悪ブサイクくさくさ無職ハゲおばさんになってしまうぞ。
せめて容姿はともかくこころは美しく、いい匂いのおばさんになりたい。無職なのは別にいいや。「こころの整形手術、保険適用!」即、受ける。思考をやめたいとすら思う。

 定期的に精神科に通院をしているので「つらいのも、はやく治るといいね」と恋人が言うのだけれど、つらいのが障害のせいなら治らない。病気のせいなら治るかもしれないけれど、病気は障害が原因なのでとてもむつかしい。性格のせいなら、治すという言葉は不自然で、なんにせよ10代前半から通院をしていて、物心ついたときから既に自己肯定感が低く自己愛は強く、常に自分を中心としたディストピアを作り上げてはその中に住み、仮想敵と戦っていた気もするので、これはもう諦めてうまく付き合っていくしかないのではないか、と思っている。

 普段は「フェミニズム!女性の主体性!」とか言っているけれどわたし自身は完全に思想を排除されたロボットになりたい。
戸川純さんの『レーダーマン』という曲がわたしは大好きで、常々レーダーマンになりたいと思っているのに「自分を見つめる孤独な毎日」も「ベッドの上で治療を受ける壁を見つめる孤独な毎日」も過ごしているのに、一向になれやしない。泣き叫んだりしないし、悲しみにくれる家族もいないから、はやく連れ去ってロボトミーでも電気ショックでも受けさせてくれ!と思っている。

 もうほんとうに季節の変わり目のせいなのか、理由はわからないけれど、最近全部のことに落ち込むというか、ちょっとしたこと、あれこれ考えてしまう。
あのひとにはあれがたくさんあるんだ、わたしにはひとつもないうえに嫉妬までして醜いな〜とか、あれがこうなのってわたしがあれなせいかな〜とか(漠然!!!!!)。
わたしって誰の役にも立っていないのに、容姿や振る舞いで、存在しているだけで他人を不愉快にさせている、生きていてもマイナスでしかないじゃないか!とか。

 そういうことは季節の変わり目関係なく、幼い頃からずっと考えていて、調子のいいときはそれを事実と主観として切り離してうまく付き合っていけるけれど、調子が悪くなると「わたしはこう思っている」「相手はどう思っているかわからない」という事実を、頭ではそれはおかしい、と理解しているのに、「どう思っているかわからないけれど、よくは思っていないだろう」と飛躍させてしまい、何か証拠のようなものをわざわざ探し出しては集めてきて歪なパズルを作り出し「ほ〜ら、やっぱり自分はダメなんだ」という結論を出して安心しようとしてしまう。不幸に浸って安心したいなんて、とても傲慢だ。不健全だと分かっているけれど、グルグル思考がやめられない。

 たとえばどこかに行く、行った先で楽しく話す、家に帰る。お店のひとは接客業だから優しいだけで本当は嫌われていないかな、嫌いじゃなくても困らせてないかな、本当は嫌がられてたりするかな、ってすぐ心配になる。

 たとえば誰かと電話をする、LINEをする、会って話す。あぁ、あんなこと言って失望されてないだろうか?誤解される言い回しはしていないだろうか?貴重な時間をわたしに割いて、つまらなく過ごしたのではないか?そんなこと考えて、わたしを好きだと言って連絡を取り合ってくれている相手にも失礼なのでは、とまた心配になる。

 どこにも行かない、誰とも話さない、行動することをやめる。わたしは何も生み出さない、と落ち込む。何か書き物をするなり、行動を起こす。あぁ余計なことをして誰かを傷つけたかもしれない、と思い込む。八方塞がり。

わたしの承認欲求のコップは底が抜けているかのごとく、全く満たされません。一度得た評価を自信につなげることができず、その場では喜ぶものの、時が経てばアレはまぐれだった、相手が都合よく解釈してくれた、わたしを誤解している、ほんとうのわたしはすごくだめなのに、たまたま調子が良かっただけで褒められて良い気になって、ほら調子の悪い時の方が多いじゃないか、やっぱり何をしたってだめなんだ、わたしのやってることは全部ハッタリだ、と思い込んでは1人で落ち込みます。

 2019年の記事でもこんなこと言っている。成長が見られない。

 母親が気分によって態度を変えるひとだったから、相手に甘えて簡単に心の柔らかい部分を見せたらいけないんだ、と思ってしまって、すぐ人の顔色を読もうとしてしまうし、でもたぶん人並みより空気とか読めない方だし、だから親の地雷も何度も踏んでいた。ひとに面と向かって相談するのは苦手。こうやって書いているのは、少しラクになる。

 相手に心を開いたり、甘えた素振りを見せないと可愛げがないだの言われて好かれない(と思い込んでいる)し、こっちだって友だちのいない知らない土地に突然やってきたわけで、いろんなひとと仲良くなって居場所のようなものを作りたいから、じぶんなりに頑張ってはみるけれど、コミュニケーションが絶望的にヘタクソで距離感や接し方を頻繁に間違えたりする。

 母親にむかしからよく「本当のお前を知ったらみんな離れていく」と言われていて、"ほんとうのわたし"なんてあまりにも曖昧な概念というか、じぶんにすらよくわからないし、そもそも一面的な人間性なんてないし。
でもわたしはわたしが尊敬するひととばかり関わるようにしていて、もしかしたらそのなかの鋭いひとにはわたしの(隠したい、もしかしたら、わたしすらまだ気付いていない)汚いところを見抜かれていて、どこかでだれかには、すごく嫌われてるってわけでなくても『少年の日の思い出』のエーミールのように「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」と、軽蔑まではいかなくても、向こうからはあまり大切には思われていないかもしれないな…とか思ってしまったりする。

 ヒト対ヒトだから、信頼しなきゃ信頼なんてしてもらえないし、でも大人って喧嘩なんてしないでそっと離れていくものだし、たとえば接客業のひとはお金さえ払えば離れもしないし。こんなふうに疑心暗鬼な態度や考えは、とても失礼だし。

 自分もちょっとしたことで内心だれかをバカにしたりだとか、一線を引いてしまったりしてしまうから、聖人君子ではないわけで、人間関係は一方通行のことがままあるから難しいな〜ってよく思う。お互いに好感を持っていたとしても、その熱量が全く同じになることなんてあり得ないし。

思春の森、樹海より深い。出口が見えない。

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