喫茶店にて

わたしはコーヒーのことがよくわからない。よい香りがして、美味しい。砂糖とミルクは入れないで、できれば苦味は抑え目であっさりした味の、どちらかといえば冷たい方が好き。それだけである。

苦味がどうとか酸味がどうとか、味だけならまだしも、浅煎り、深煎り、水出し、ペーパー、ネル、サイフォン…。ひとによっては淹れる機械のメーカーにもこだわっていたり、トルコでは砂糖と一緒に淹れるとか、どこかの国では紅茶のようにお湯で煮出して淹れるだとか、香港では紅茶と混ぜたりもする、ベトナムでは練乳と混ぜるのが一般的だとか、脂肪燃焼効果の為には焙煎しないで淹れたりもする、豆ではなく実を使うこともある、ある品種のネコが食べて排泄したものが特別に高級な品だなんて、などと色々ありすぎてとてもむつかしそう、と思っている。むつかしすぎて、ちゃんと調べてみようという気にもならない。そんな話をどこかでされるたび、ふむふむとおもしろく聞いたりするだけで特に役に立てることも、家で淹れてみようなんて思うこともなく、よく知っているひとがおいしく淹れてくれる店で、飲めばいいと思っている。餅は餅屋だ。
なんならもう所謂3in1の粉コーヒーでもいい。フィリピンで行った店は洒落た若者向きのカフェ1店舗を除いてほとんど全部がそうだった。白いカップにお湯が満たされ、粉コーヒーが添えられているのがスタンダードなのだ。まだ高校生くらいの時分、実家でインスタントコーヒーを飲もうとした父にフィリピン流にお湯を入れたカップを渡したら優しい声色ではあったけれど「先に粉を入れるんだよ」とかなり呆れたような顔で言われてこちらが驚いてしまった。それくらいコーヒーには色々な飲み方がある。
喫茶店は、時間がゆっくりながれる、あの雰囲気が好きなのだ。ひとりでいたらいつまでも考え事をしてしまうから。喫茶店に行けば、店主と話したり、本を読んだり、他のお客さんの楽しげな話し声が聞こえたりして、少しだけ孤独が紛れる。

隣のお客さんが「カフェ・オ・レを」という。紅茶を淹れるのがティーポットならコーヒーポットとでも呼べばよいのか、店主は大きなフラスコのようなものを出してきて、その上にまた透明の筒を載せる。挽いた豆であろう、茶色い何かをそこに入れ、熱い湯をすこし、注ぐ。しばらく経つとスプーンのようなもので掻き混ぜて、また湯を注ぐ。
するとだんだんとその大きなフラスコのなかに茶色い液体が溜まってゆく。
その間にまた店主が手際良く銀色の小さなポットに入った温かな(ふんわりと甘い香りがするのできっと温かいことがわかる)ミルクをハンドミキサーの小さいののようなものでふわふわに泡立てる。今これを書いている小さな箱で検索すればすぐに全ての道具の名前を調べることは出来るのだろうが、敢えてしない。知る楽しみと同じくらい、知らない楽しみもあるのだ。

厚みのある硝子のカップに茶色と白を同じくらいの量、注ぐ。どちらが先かは覚えていない。同時だったかもしれない。どうぞ、と供された薄茶色の液体。カフェ・オ・レとカフェ・ラテの違いもわからないし、それにわたしが口をつけることはないのだけれど、なんだかとてもしあわせな気分になる。
わたしは自分の頼んだアイスコーヒーの最後の一口を残して、持参した文庫本の続きを開く。ちょうど伯林のカフェの話。「飲み物のChocolateとCocoaは如何に違うのか」と森茉莉が力説する。父鷗外との思い出の味だからだろうか。こんなにも感情的になれる森茉莉のかわいらしさに、ふふふ、と心のなかで笑う。

なんて贅沢な時間。

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