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第四回 中島みゆきと、その「時代」

ーあの頃、昭和だった。ー

 最近何かとバラエティ番組なんかで、昭和のことがとり上げられているね。今の若い世代の人たちからすると、あり得ないようなことが多かったりするみたいで、別世界のような感覚で驚かれていたり、面白がられていたりするんだろうな。
 ここでは昭和生まれのボクが、今も強く思い出に残っている昭和時代の残像を、色々なエピソードを交えてコミック調で断片的に切り取っていくよ。
 同じ世代の人や先輩世代の人、昭和を知らない世代の人達にも、楽しんで読んでもらえたらいいナ。

 ホラ、そこの古びたトランジスタラジオに耳を寄せれば、聴こえてくるじゃありませんか、あのメロディが。
 ♬ 忘れられない歌を 突然聞く
   誰も知る人のない 遠い町の角で ♬
 てね。

 みんなー、中島みゆきの曲ってどう思う?
 どう思うって言われてもさ、「糸」はイイ歌だよね、って今時大体の人が答えそう。よもやそれしか知らない世代もいるかもしれないねー。
 それだけ「糸」は色んなアーティストがカバーしてるし、もはや元が中島みゆきの曲じゃなくなってるぐらいの感覚だよね。
 あのね、「糸」カバーしすぎ。どうだ!って言わんばかりに熱唱してるけど、気持ちいいのは自分だけだよ。それだけ音楽界でイイ曲が作れなくなってる証拠だけど、演歌歌手まで歌いだす始末だから、ボクは正直ウンザリしている。

 さて、このnoteでも中島みゆきをかなり多くのクリエイターさんたちがとりあげてるね。個々の歌だったり、詞の内容だったり。
 ボクも今回テーマに選んだけど、ボクがとり上げるからには、ボク目線の唯一無二の記事を書いてみるよ。

 彼女の歌手としての経歴なんかはここでボクが書かなくてもすぐにネットで調べられるだろうから、詳しくは書かないけど。
 あえて言うなら、もしかしたら彼女の代表曲のひとつ「時代」がデビュー曲なんじゃないかって思ってる人もいると思うんだけど、彼女のデビュー曲は「アザミ嬢のララバイ」。1975年ヤマハ主催のポピュラーソングコンテストで入賞したのがきっかけなんだ。その同年に世界歌謡祭で「時代」がグランプリを獲って、名前が知られるようになった。もっとも彼女の名前を一躍有名にしたのは、1977年発表の「わかれうた」だったけどね。
 中島みゆきの三年前にユーミンがデビューして、二人はその後女性シンガーソングライターとして、世間ではよく比較されていたし、ユーミン派とみゆき派にリスナーも分かれていた。
 ユーミンは荒井由実時代だったけど、「あの日に帰りたい」にしてもアレンジが軽快で澄んだ声でメロディーも歌いやすかったのに対して、中島みゆきは歌声自体が歌謡曲を歌う流行歌手みたいな感じで、「アザミ嬢のララバイ」も何とも重いアレンジで暗いムードだった(アルバム収録時には軽いアレンジに変えている)。
 それからユーミンは「ルージュの伝言」に代表されるように、誰が聞いても歌いやすい、良いメロディー、軽快な雰囲気の名曲を作り、それは松任谷由実になってからも変わらない一連のカラーで、大衆ウケしたのはご存じのとおり。
 で、中島みゆきといえば、失恋がもっぱらのテーマで、時には「世情」(金八先生で効果的に使われて有名になった)みたいに社会派の曲も発表すけれど、歌いまわしが独特で暗いイメージの曲が多く、その路線を独走していくんだね。
 ボクは中島みゆき派だったから、中学生の頃からよく聞いてた。アルバムも全部持ってたから、もしかしたら生涯でイチバン曲を聴いたアーティストだったかもしれない。
 その理由は、アルバムごとに全部カラーが違っていたことが魅力だったからだと思う。ユーミンがやがて旦那さんになる松任谷正隆がほぼアレンジを担当していたのに対して、中島みゆきはシングル曲も、アルバムもプロデューサーが異なって、一曲一曲のアレンジ(編曲)が違う。そこに曲としてのドラマが強調されていたように感じたね。
 もっとも1988年に発表されたアルバム「グッバイガール」からは、瀬尾一三(奇しくもこの人が「金八先生」の音楽を担当していた)がその後一貫してプロデュースを手掛けることになり、ある意味サウンドのカラーは統一された感はあるね。

 数ある彼女のアルバムの中で、最も印象に残ったアルバムを挙げるとすれば、1980年に発表された、
「生きていてもいいですか」だ。


これがアルバムのジャケットです。

 
 このアルバムはとにかくド暗い。なにもボクが怪談なんかが好きだからといって、暗いものを好んで選んだ訳じゃないよ。中島みゆきの初期の終着点と言われるけど、どう表現するのが適当なのか、凡才なボクにはその言葉が出てこない。中島みゆき史上最大、いや未だレコード史上最大の問題作と言っても過言じゃないと思う。
 このアルバムにはシングル曲がないし、マーケットで採算がとれるかわからないような内容だから、よくリリースできたと思う。
 それは、それまでシンガーソングライターとして実績を積み上げてきた、彼女だからこそ成しえたものだったんじゃないかな。 
 一曲目の「うらみ・ます」から強烈で、男に捨てられた女の叫びから始まるこの曲は、一発で聴く者に強烈なインパクトを与える。脚本家の倉本聰も彼女の曲がお気に入りで、自身が書いたドラマ「さよならお竜さん(岩下志摩主演)」で、劇中に実に効果的に使われていてその場面に笑った。
 ボクがこのアルバムの中で最も秀逸だと思ったのは、「船を出すのなら九月」の荒い曲調から一変して無題の不穏なインストウルメンタルが流れ、やがて切ないギターとアコーディオンとともに始まる「エレーン」への構成なんだ。
 意外とコアなファンも多いこの「エレーン」は、実在した外国人売春婦の死亡事件がモチーフになっているようだけど、ただ暗いだけじゃないメロディの素晴らしさと、その悲しい出来事の感情を「生きていてもいいですか」と全霊で歌い叫ぶ声に圧倒されるんだよ。
 このアルバムをプロデュースしたのは後藤次利(元伝説的なサディスティック・ミカ・バンドのベーシスト)で、よくこの陰鬱な雰囲気を全編に彩ったと思う。彼はその後、工藤静香やおニャン子クラブなんかでヒット曲を飛ばす売れっ子作家になったけど、当時はこうしたアレンジも手掛けていて、アルバム「寒水魚」の中の「傾斜」という曲では、ベーシストらしいアレンジをしているね。だから中島みゆきと後藤次利はある意味名コンビで、工藤静香の曲を二人が手掛けてるんだね。

 またまた話が長くなったからもうお終いにするけど、80年代の音楽界はニューミュージック全盛の時代になって、中島みゆきもそれまでの暗いイメージから一転して、やがて「ひとり上手」「悪女」なんかで、ヒット曲を連発していくことになるんだ。
 最後に、中島みゆきは色んな歌手に歌を提供してるけど、本人もカバーしていない研ナオコの「窓ガラス」なんて、実に隠れた名曲だよ。

 中島みゆきのことは語りだしたらキリがないけど、ボクはあえて今回昭和の時代の、彼女の魅力のひとつに迫ってみた次第です。
 ちなみに冒頭に掲載した詞は、アルバムに収められなかった中島みゆきのシングル曲「りばいばる」だよ。

 ここまで読んでくれてありがとー。
 次回はYMOにしようかな。
 では、また次回、バイナラ。

  中島美雪が中島みゆきだった頃、
  中央区銀座にあるのはみゆき通りで、
  未だに誰のものでもないのは井森美幸だった。
  わかるかな?
  わっかんねーだろうなあ…。

 


 


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