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信頼出来るドクターに出会えたことはこころの支え

わたしが心療内科というものに足を運んだのは、29さいのときだった。
自分で自分が病気だということに気がついた。
でも、何科を受診したらいいのか、どこに
行けばいいのか、まったくわからなかった。
ある人づてに、大手企業の福利厚生の一環で
一般も診察してくれる心療内科を知った。
若い男性のドクターだった。
飲み薬を大量に、処方された。
二ヶ月通ったところで、不信感が沸いてきた。
「わたしの病名は何ですか?」
と尋ねても、答えてはくれなかった。
最後に診察を受けた日、焦りから
「わたしは、治りますか?」
と尋ねたとき、
うつむいてはいたが、
にやあ~と気色の悪い嘲笑を浮かべていた。
ゾッとして、別のところへと、病院を転々とした。

新聞にインタビューが掲載されていたのを見て、国立大付属病院の精神科の教授にも
会いに行った。

難しい理論をご披露いただいて、
またしても、
大量の投薬。
こんなに飲んで大丈夫だろうか、
強い薬のようで、効き目はまったくあらわれず
反動の副作用に苦しんだ。

夜中になると、体が勝手にじっとしておられず、
ひたすら部屋の中をぐるぐると、自分の意思とは関係なく、歩き続ける地獄のような日々。

激しくなる一方の希死念慮。

理解してくれる人がいない。
「死にたい」と言うと
「死んだらええ」
と返ってくる。

不安感を訴えているのに、般若心経を唱え続けることを強いられる。

子どもの世話が出来ないことを、責められる。

でも、本当にあのとき辛かったのは、当時小学1年生になったばかりの下の子どもだ。
はじめての運動会、本当はおかあさん、見に行きたかったんだよ、でも病気に邪魔されて
「ごめん」と言ったら、
「だいじょうぶ。おかあさんがいなくても、
がんばってくるね!」
と、言ってくれた。
後日、同じクラスの保護者の方にうちの子どもが海賊に扮するという設定で大人もののTシャツを着せてください、と学校の先生よりお便りをもらっていたので、Volvicのカラシ色のわたしのTシャツを着て学年お揃いのイルカのリストバンドをして一生懸命ダンスしている写真をいただいた。
胸が熱くなった。

治りたい、治したい。そんなとき、叔母が、
救急指定病院の心療内科のことを思い出して連れて行ってくれた。
このドクターがわたしの問診で何度も試行錯誤してくださったおかげで、わたしに合うお薬をみつけることが出来た。
脳内出血で急逝されてしまったとき、心の支えを失ったわたしは泣きじゃくった。
大きな存在だった。
その先生は、内科部長でもあり、ご自分のクリニックも持っていらして、論文や学会など医療のことを精力的に取り組まれていたことを、亡くなられてから、知った。

そのあとの治療は、同じお薬を出してもらえるようにお願いして心療内科の先生に紹介状を書いていただいて通いやすさから駅前の心療内科ですることにした。

滅多に診察室に入ることは無かったが、何度かは直接相談にのっていただいた。障害年金のことを教えてくださったのも、このドクターだった。

「紺屋の白袴」

まだ六十歳の若さでこのドクターも癌の治療中に亡くなってしまった。

わたし、先生に言ったのに。
「先生、生きてください。」って。

現在は、同じ場所で引き継ぎされた精神科の先生に診ていただいている。このドクターは、
「心理学を学んだからと言って、ひとの気持ちがわかるわけじゃないですからね。」とのたまった。確かにそうだが、医師と患者の信頼関係を築くことも治療の一環だとわたしは思う。

ふたりも素晴らしいドクターに先立たれてしまったが、クランケのために自分の健康を後回しに
してしまったドクターに出会えてよかった。

先生ありがとうございました。
わたし、生きます。



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