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【英文学】エミリー・ブロンテの名言(2024年2月4日追記)

こんにちは

ブロンテ姉妹シリーズ第二弾。

本日はエミリーブロンテの名言を紹介したいと思う。


エミリーの経歴

エミリーの経歴を見ていきたいと思う。

1818年7月30日、イギリスのヨークシャーソーントンの牧師館に、牧師パトリック・ブロンテ[2]とマリア・ブランウェルの間に、マリア、エリザベス、シャーロットブランウェル英語版)に続く第五子、四女として生まれた。1820年に妹のアンが生まれている。

1820年、一家はハワースに移り住み、翌年母マリアが病没。1824年、姉3人がランカシャーのカウアン・ブリッジ校に入ったため、11月の終わりにエミリーもここに入学した。だがこの学校は低地にあり非常に不衛生で、マリアは翌年5月、肺結核で死亡し、さらに1ヶ月後の6月にはエリザベスもやはり肺結核で後を追うように亡くなる。長女と次女が十歳余で死亡し、エミリーは事実上次女となった。二人の死を受け、シャーロットとエミリーは急遽帰宅することになる。牧師館では家事を任され、一つ年下のアンと協力した。

1826年に父がブランウェルに、所用で出かけたリーズの土産に兵隊などの1ダースのおもちゃを贈り、子供たちは「もの書きゲーム」をして遊ぶようになり、「若者たち」「島の人々」という空想世界(パラコズム英語版))を作り、これがブロンテきょうだいのシェアード・ワールドのファンタジー世界「グラス・タウン英語版)」へと発展した[3]

1831年よりシャーロットがロウ・ヘッド校で学ぶようになり、エミリーとアンは、シャーロットが帰る度に教えを受けた。

シャーロットが家から出たことで、きょうだいの空想世界は、シャーロットとブラウンウェルの「アングリア」と、エミリーとアンの「ゴンダル英語版)」に分裂した(エミリー13歳)[3]。それまできょうだいの遊びのリーダーはシャーロットで、エミリーは姉の影響下を逃れたゴンダルで、自由に自分の世界を展開することができ、主導的に創作活動を進め、想像力に磨きをかけた[3]。ゴンダルは詩と散文から成る物語世界で、二つの島を舞台に、恋愛と戦争の物語を描いた[3]。1836年、17歳で詩を書き始めたと考えられている[3]

シャーロットが私塾で教師に採用され、エミリーは17歳でそこの生徒となるが、3か月後、アンと入れ替わりにハワースへ帰った。

ブロンテ家にはさほど貯えもなく、きょうだいは自分の生活費を稼ぐ必要があった[4]。当時、知的女性が就ける職業は限られ、教師やガヴァネス(家庭教師)くらいであったが、ガヴァネスの仕事は過酷で、召使い同然の扱いを受けるのが普通であり、きょうだいは四人ともガヴァネスとして辛酸を舐めている[4]。1838年、ハリファクス近郊のローヒルで教師を勤めるが、長時間労働に苦しみ半年でやめる。私塾を開くことを計画し、1842年には、姉のシャーロットと共にベルギーブリュッセルのエジェ寄宿学校へ留学、半年後シャーロットを残して帰国する。1844年、姉が帰国すると私塾を開こうとしたが、片田舎で生徒が集まらず、失敗に終わった。

その秋に、シャーロットはエミリーの詩稿を発見し、「普通、女性が書く詩とはまったく違っているという深い確信」を持ち、自分とエミリー、アンで詩集を出版しないかと持ち掛けた[4]。エミリーは完全に秘密主義者で、シャーロットと違って詩を出版しようと思っておらず、詩を盗み見され激怒したが、シャーロットの根気強い説得に応じ、しぶしぶ詩の出版に同意し、『カラー、エリス、アクトン・ベルの詩集』(1846年)として自費出版された[4]。エミリーが出版に妥協したのは、ブロンテ家の経済的問題があったことがうかがわれる[4]。当時の女性作家への偏見から、「エリス・ベル」という男性風の筆名を使用して出版した。これはまったく売れずに終わった。同年10月に、アンがゴンダルから手を引いているが、エミリーは生涯ゴンダルの創作を続けた[3]

シャーロットの説得を受けて、小説『嵐が丘』を執筆。出版社に引き取ってはもらえたものの、出版には1年ほどかかり、その間は父の看病をしたり詩を書いたりした。1847年、『嵐が丘』はアンの『アグネス・グレイ英語版)』とともに1847年に刊行されたが、評価は厳しく、それより姉の『ジェーン・エア』のほうがよく注目された。『嵐が丘』の評価が高まったのは、彼女の没後のことであった。

1848年9月、ブランウェルが過度の飲酒がもとで急死。その葬儀の際に風邪をひき、これがもとで結核を患った。しかし、エミリーは自分が結核であることを認めようとせず、最後まで医者を拒み続け、12月19日に30歳で死去した。墓所はハワースの聖マイケル教会の地下納骨堂。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%86


まとめると、ブロンテ姉妹の中で4人目に生まれた人物である。1820年にイギリスのウェーストヨークシャーにあるハワースという村に引っ越し。その翌年に母が亡くなる。1824年にエミリーもカートンブリッジ校にマリア、エリザベス、シャーロットとともに入学したが、マリア、エリザベスが亡くなったことにより退学になる。1846年に詩集が出版される。1847年に『嵐が丘』出版。1848年に結核を患い亡くなる。

名言

このサイトを見て心に残った名言を見ていきたい。

夢は水に混じるワインのように、奥深くまでしみ通り、精神の色を変える。

私は自分の本能が導くままに歩くだろう。
別の案内人を選ぶなんて、
考えただけでも嫌になる。

1番目の名言は、夢は自分の深層のほうまでしみわたりそこから考え方や生き方が変わっていくということを指しているのだろうか。

要するに、夢の世界は自らの生き方を指し示す地図のようなものかと。

2番目の名言は、自身の直感に赴くままに行動したい。他の人に言われるまま行動したくないということだろうか。まさに、頑固でストイックなエミリーらしい名言だ。

余談

自分語りになってしまうのだが、大学2年生の時に講義で『嵐が丘』を読んだときに衝撃を受けた。ネタバレしない程度に書くが、最初は恋愛物語だと思っていたのだが次第に激しく暴力的になっていく有様を見てすごくぞっとした。想像しただけで恐怖心に見舞われた。余裕が出来たら『嵐が丘』を再読してみたい。

後、同じ時にエミリーの性格を調べた。そうしたら、自分と性格が似ていることに衝撃を受けた。そして親近感もわいた。長期休暇になったらブロンテ姉妹のふるさとであるハワースに行ってみたいものだ。

ちなみにエミリー・ブロンテという薔薇もある。


エミリーブロンテというばら

このバラは2018年にブロンテ生誕200年を記念して名づけられた薔薇である。
イングリッシュローズの一種で香りはとても強い薔薇である。

ブロンテ牧師館ミュージアムのtiktokの動画があった。

ちなみにブロンテはギリシャ語で「雷」という意味だ。

ブロンテ姉妹育ちの村であるハワースをめぐっているyoutubeの動画もあった。

また、ケイト・ブッシュの嵐が丘という曲もある。

この曲は、恋のから騒ぎというかつて日テレで放送されていた番組のOp曲にもなっている。また、1986年には東芝のヴィデオデッキのCMにも使われた〔出典〕。

2024年2月4日追記 英語版経歴

エミリの経歴を英語で読みたい方はこちら

2024年2月4日追記 河野多恵子とエミリ・ブロンテの関係そして牧師館

以前この本を読んでいたら、河野多恵子とエミリ・ブロンテは深い関係があったということが分かった。

河野多恵子(1926-2015)は小説家である。彼女の作風としてはエミリの影響を受けたものが多い。

この本において影響の受け方としてこう書かれている。

大阪府立市岡高等女学校在学中の英詩の授業でエミリの詩と出会った。
その中でも印象に残った詩が、No coward soul is mine(日本語訳は、私の魂に怯えはない)という詩であった。
戦時中、爆弾が降下する中、「死にたくない」という思いで、出会った詩であった。

この詩がきっかけで、彼女の作品の一つである「夢の城」「路上」が誕生したといえるだろう。

彼女が書いているブロンテ関連の本はこちら

https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%B3%E8%AA%AC-%E3%80%8C%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E5%B5%90%E3%81%8C%E4%B8%98%E3%80%8D%E2%80%95%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%86%E5%A7%89%E5%A6%B9%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C-%E6%B2%B3%E9%87%8E-%E5%A4%9A%E6%81%B5%E5%AD%90/dp/4309725546

ブロンテ牧師館博物館が姉妹が人生の大半を過ごしたハワースにある。

これが公式サイトだ。

https://www.bronte.org.uk/


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