武田勝頼は笹子峠を本当に目指したのか
武田勝頼有能論と、無能論。永遠のテーマです。
国を富ませるという信玄の理論でいけば、結果的には×という厳しい評価を出すのが勝頼へのレッテル。
昭和の頃はもっと乱暴で
「あれは諏訪の人だから、信玄公の遺産をみんな台無しにした」
という甲州人気質が前面に出ていた。この甲州人気質が、信玄を神格化したと思うし穴山梅雪や小山田信茂に対する過剰なまでの「裏切り憎悪」に結び付いていたのだろうと察する。
夢酔の個人的な見解も、勝頼無能論になってしまいます。
重要な点は、資源や資産や賦役といった、内政に対する認識の甘さ。それを支える人材、諌言の出来る者の不在、外征ののちの地域支配までの思惟の足りなさ。
ただ、戦えば強いというだけの上杉謙信に似ていますが、謙信は毘沙門天というセルフプロモートでカリスマ性を演出できた。勝頼にはそれがない。いわば坂道を転がっていく義経タイプ。
武田の後継者が、嫡男・義信だったら、きっと信濃の中核となる一武将として名を馳せたことだけは認められる。が、如何せん、戦国大名としての教育も不足していたことは間違いない。
さて。
皆様が認識する笹子峠の印象は、どのようなものでしょう。
関東方面と甲府盆地をつなく交通の要所、というイメージで間違いないでしょうか。
戦国時代当時は、江戸と直結する理由はどこにもなかったのです。
小仏峠でさえ地元の裏道程度。ゆえに滝山城攻めで小山田信茂が奇襲に用い成功させた。ましてや笹子峠は人の幅しか道はなく、馬は登れない難所。武田家最高機密の狼煙台が設置され、岩殿城と盆地をつなぐ情報の支点でした。
江戸時代以降の甲州街道という物理的な印象に、みんな騙されているのだと思うのです。
しかし、勝頼はこっち方面に来た。それは事実です。
馬も用いられず、女だらけの勝頼一行。ここを越えることの無理さは、誰にでも想像できる。
「小山田が裏切ったから」
と、まだ感情論的な定説を口にする人も多い。
武田の最高機密と、先ほど申しました。狼煙は現在の認識でいえば光ファイバーに匹敵する情報の要。重臣といえども気安く管理を委託する筈がない。ここには武田直属の職人がいたと考えるべき。通せんぼは、勝頼封鎖ではなく常からのことでしょう。何よりも小山田郡内領と武田領の境は、山の下の初狩番所とされておりました。小山田が笹子峠の実効支配をしていた事実はないのです。
勝頼は別の道を目指していたのではないでしょうか。
ここの起点は、偶然でしょうか。
ここは地元の人が往還に用いたとされます。地元という点が重要です。
メインストリートは、律令の時代から戦国まで、変わらず御坂官道でありますから。ここは余所者の来ない僻地なのです。でも、往還できる。女連れでも移動は可能なのです。
だけど、田野で勝頼は滅んだじゃないか!
勿論、歴史のことですから。異論、自説は当然あります。
平面地図を見ただけの印象や、偉い人が云ってるからとか、「甲陽軍鑑」鵜呑みという人は、まだまだ多いのです。
NOVLEDAYS「光と闇の跫(あしおと)」。
小山田信茂の冤罪救済の小説は、検証しすぎて構想10年、執筆5年に渡る大作になってしまったがゆえに、どこも受け入れてくれない不幸な小説になってしまいました。ゆえに、NOVLEDAYSにて公開せざるを得ない
「勿体ない」
作品のひとつになりました。
アルファポリスからも入っていけます。
ありがたいことに、累計アクセス数は2023年10月8日現在で11,690件。
想像以上にご覧いただいている方が多くて、嬉しいです。
でも、副産物でページ数の少ないライトな作品「私本信松尼公記」の方が、あとから公開なのにアクセス数は俄然多い。読みやすいから、そっちに流れてしまう。
やはり、不幸だわ。うちの作品(こ)は。