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千人同心がゆく 一人反省会

令和改元と同時にスタートした西多摩新聞連載作品「千人同心がゆく」。
平成18年に同紙で連載された作品「聖女の道標」に差し替えられて陽の目を観なかった塩漬け作品でした。令和という新しい歴史の始まりとともにお声をいただき、再度、西多摩新聞に発表の機をいただいた。
「えっ、違うペンネームにしちゃうのですか?夢酔藤山という作家のファンが多いのですよ」
最初、令和薫という第二ペンネームに抵抗された。西多摩新聞社としては、夢酔藤山という名前に寄る想いもあったのだろう。当時の、自身が負っていた事情もあったが、新元号を寿ぐという理由で、お許しをいただき現在に至るわけで、この部分については西多摩新聞社に感謝しても、しても、し足りない部分でもあります。

八王子千人同心旧交会事務局でもあります宗格院の浦野住職より、西多摩新聞社経由で「八王子千人同心旧交会会報創刊号~第20号」までの冊子をいただけたことが、ただの塩漬け日光浴にならず、大幅な肉付け脚色飛躍につながった。このことは大きいです。
最終回にあたり御礼メールをさせていただきました。
感謝、その一言に尽きます。

「千人同心がゆく」は、その作品舞台を八王子というよりも、連載母体である西多摩地域とその周辺に絞らなければいけないという枷があった。当然ですよね。仮に房州日日新聞で、岩手を舞台にした作品を描いても、広い意味での共感が得られる筈がないです。
しかし、千人同心という概念はあくまでも本体の八王子にあって、西多摩には求められない。遠巻きに近接する旧秋川市や福生市方面に、関連の話題を盛るしかできない。
そこで、オムニバス集という作品にした。
このことは、千人同心本体と周辺地域の時系列を一にしながら、てんで関係のない話を描けるメリットにつながった。この手法を有効に活用することで読者飽きという予定調和を崩す効果も得られた。知っている西多摩の人物や知られざる人が活躍し、時には切り口を変え、その隙間に八王子のことや、幕末史のみんなが知っていそうなことを描いて、この時代というものを表現していった。
勿論、ときには完全フィクションのエピソードも挟んで……。

千人同心でも相当な有名人はいるけど、
その足跡や実績を八王子では顕彰されたって
西多摩の方には「さっぱり」なこともある。
なので、スパイスとして、
タイミングをみてエピソードを挟んだ!

松本斗機蔵
石坂弥次右衛門
塩野適斎

ほかにも大勢いるのですがね……

西多摩の人にフィットする人物を拾い上げていくことに重点を置いた。

西多摩の千人同心は、オールカラーガイド本から転記したもの。
もう手にしているよ、という方にはおなじみのものですね……。。

丁度、このリストアップ前くらいに、NHKのファミリーヒストリーでTHE ALFEE の高見沢俊彦氏の先祖にヒットした人物が明記されていることが分かって、ちょっとだけ(一部の方で)話題になった。そうすると呼び水で、ファミリーヒストリーつながりで千人同心御頭の末裔が志村けん氏だったことに話題が膨らみ、千人同心のことが西多摩の方にも親しみを覚えて頂くことになった。
令和という時代のタイミングだったかもしれない。

西多摩で知られている千人同心を、すべて描き切れたわけではない。

幕末期に活躍した丸山惣兵衛の先祖は松姫に従い武州入りしたことが知られる
惣兵衛本人を描けなかったが、先祖はNOVLEDAYS掲載「私本信松尼公記」に
登場しています。
圏央道あきる野IC出入り口となる滝山街道添いの秋川神明社。
戸吹の千人同心・松崎和多五郎門人の扁額があったそうですが
現在のどれか、紛失か分からない。しかし、そういう交流も、
たしかにあった。描き切れていないです。
その松崎和多五郎門人のひとりが、名人・井上才市。
戸吹流派は才市の流れで現代の天然理心流へと続く。
顕彰碑は二宮神社門前の瀬戸岡医院前に建っている。
時代は幕末にならないけど描けない訳ではなかった。

こんな風に、西多摩で取りこぼしたネタはまだ残されていました。
描き切れない未熟を恥じ入るばかりです。
「千人同心がゆく」で描いたエピソードは以下のとおり🖊

「千人同心がゆく」の連載以前、秋川流域折込誌「あおぞら」で幾度となく千人同心エッセイを重ねたのも、令和スタートの暖機だったのかも知れないですね……!


国道16号線の多摩川添いの小さな公園にあるのが、多摩川の渡しというプレート案内。
その当時の状況をどこまで掘り下げて、物語の中で「さりげなく」紹介できるかというのが、歴史小説の匙加減。「俺、しってる」的に知識をひけらかすと物語がそっちのけになってしまいますもの。

たとえば

瑞穂町の常夜灯は、もともと日光街道沿いにあったものが移転で狭山池に現在ある。こういうものが場面の、人物の視界に描かれることこそ、さりげないアピール。だいたい残堀川そのものも付替え工事で往時と異なる場にあった。そういうことを知らず、現在地形を鵜呑みに出来ぬのも、地域のシビアな足跡。若い人は知らなくても、そこに記憶がある限り、突っ込まれるから丁寧に扱わなければいけない。

往年の街道が物理的に圧し潰されて消え去ってしまったことも思惟に置いておく
鉄道の開通とともに寸断されてしまったことも
日光へ往還した足跡も、当時と令和とでは大いに変化してしまった
それでも時代をつないできた足跡が残されている
千人同心は、西多摩だけで留まらぬスケールの歴史を湛えた沼と断じていい

そして、次の舞台へ……。

苫小牧市指定史跡 蝦夷地開拓移住隊士の墓 (苫小牧市美術博物館:佐藤麻莉氏提供)

千人同心、北の大地へ挑んだ100年の物語。
「千人同心がゆく 北のまほろば」2024年4月26日スタート予定。

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