驚くことばかりの、萩原タケ病院葬
さてと、朝から講演準備に余念がございません。
本日、本番。
劇団員とも一部を除けばぶっつけ本番。よろしくお願いします(`・ω・´)ゞ!
今回は、日赤関係者や社員、ドクターなどの前例はあるものの
「看護婦初」
とされる病院葬にスポット!
昭和一一年五月二七日。午後二時一二分。
萩原タケは静かに息を引き取った。
「萩原タケ、死す」
その訃報は、たちまち世界を駆け巡った。各新聞には肖像と略歴が掲げられ、生前の功徳が伝えられた。
とりわけその死は、世界中の人々を悲しませ、追悼の念を抱かせた。戦前の日本を好ましく思っていない国の無辜の人でさえ、スモールハギワラは格別のことだった。
国内外からは数千通に及ぶ弔電が届いた。
そのため、日本赤十字社ではその死を悼み、看護婦としては異例の病院葬を執り行い、萩原タケの霊を野辺に送ることを決定した。当時の日赤は陸軍と連携する機関だから、プロパガンダに利用されたといえば興醒めかもしれないが、少なくとも故人を偲ぶ人々の真心には嘘偽りは一切なかったと思いたい……!
昭和一一年五月三〇日。曹洞宗永平寺別院長谷寺住職・大佛輔敎老師を導師とし、午前一一時三〇分より葬送之部を、午後二時より告別式之部が執り行われた。
日本赤十字社の〈故萩原タケ子葬送に関する儀式細部之次第〉と、日本赤十字社看護婦同方会発行の「同方(昭和一二年六月号)」には不一致の点がある。、弔詞が二者多い。日本赤十字社篤志看護婦人会会長公爵夫人・徳川泰子と、東京市産婆会長・堀越みつのものである。このふたつは、当日になり急遽追加されたものだろうと想像される。
徳川泰子。日赤社長・徳川家達の奥方ですが、世が世なら一六代将軍の御台様ということになる。組織のこととは申せ、タケの人脈おそるべし。
萩原タケが五日市の広徳寺に埋葬されたとき、果たしてどれほど偉い人が、遠路参じたものか。
当時小学生だった石川清子氏は、タケの母・ちよの実家石川家の人間。取材で聞いた話によると、氏は病床のタケを一度だけ見舞ったことがあるという。そしてこの日を迎えたのだが、これまで見たこともないほど、大勢の看護婦が参列した、この日のことを忘れもしない、と語ってくれた。
このときは「五日市憲法」のことをマスメディアの話題に多く取り上げたが、五日市郷土館の「萩原タケ」コーナーをスルーしたとは考え難い。日本赤十字社の総裁は皇后陛下。当時のトップの御方が、タケを御覧になられ、何を思われたか。それを拾い上げたメディアの声がないのは寂しいことだ。
萩原タケを日本のナイチンゲールと呼ぶ者は国内外(むしろ国外)に多い。
萩原タケの育てた、二七〇〇余に及ぶ優秀な看護婦たちの多くは、その後の世界大戦のさなか、従軍看護婦として世界に発った。
ひとり一人のドラマを拾い上げることは出来ないが、すべてが悲しみに彩られたことだけは想像に易い。