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いと気高き聖なる金色ナット

 

朝、愛犬の散歩から帰ると沙羅は芝生が広がる中庭に祖父、弥彦の姿を見つけた。陽だまりの中、キャンプに使う緑色の折り畳み椅子に一人座り、ぽつねんとしている。

 遠い眼をしてぼんやりとしているその横顔が気になり、犬用のリードを手にしたまま沙羅はダイニングルームにいた祖母のアンナに聞いてみた。

「おじいちゃん、どうしたの?」

「しょげてるのよ」

 アンナは気の毒そうに夫の弥彦を見遣る。

「何かあったの?」

「たいしたことじゃないの。初めとても嬉しかったぶん、後でうまくゆかない事が分かって、よけいに落ち込んでいるのよ」

 アンナの青い目が笑っていた。

「なに、それって」

「つまらない話なのだけどね……」

 アンナがダイニングルームの木製の椅子に腰かけると沙羅も座り頬杖をついた。

「沙羅、頬杖は止めなさい。もう、五年生でしょ、少しはお嬢さんらしくしてね」

 沙羅はたちまち頬杖を止めた。

「それでいいわ。じゃ、話す」

 それは沙羅が愛犬の散歩に出ていた今朝の出来事だったらしい。


玄関横の駐車場に停めてある古いファミリア1000専用のアコーディオンゲートを開けようとした時、弥彦は取手が壊れているのに気が付いた。取手の上下にある締め金具の下の部分が緩んでいた。

「直さんといかんな」

 弥彦はそう呟いて取手の裏側をのぞいてみた。ネジの先端が見えた。触るとぐらぐらと揺れる。押し込むと反対側に押し出されてネジ山が飛び出してきた。

「こりゃ、留め具のナットがなくなっているなぁ」

 上のネジにはナットがはめ込まれ、しっかりと固定されていた。

「さて、合うナットがあったかな」

 サクランボ色のファミリアの後ろにある物置を開けて弥彦は青い工具箱を取り出してきた。そして、大きさの合いそうなナットを探してみたが見つからない。

「やっぱり無いわな。普通、そう都合よくはゆかない。買うか……」

 買うとなると一個では売ってくれない。少なくとも10個入りくらいになってしまう。どこのDIYの店に行っても同じだ。

「一つあればいいんだ、一つ」

 どうにも新たに1袋を買う気にはなれない弥彦だった。そうして、どうしたものかとその場にぼんやりとしていると娘夫婦が玄関から飛び出してきた。これから出勤らしい。二人して流行らない建築事務所を営んでいる。

「お父さん、何ぼんやりしてるの? アルツハイマーにはまだ早いでしょ。悪いけどこのゴミ袋捨てて来て。私たち時間がないの。ごめんね、ありがとう」

 娘の麻里亜はそう一方的に告げると相方と一緒に車に乗り込み慌ただしく出かけて行った。

「お義父さん、いつもすみません」

 娘婿の桜田がファミリアの窓から手を振って謝った。いつもの事とは言え娘夫婦の蹴り立てるつむじ風に巻き上げられた弥彦が唖然として突っ立っているとアンナが顔を出した。

「一緒に持って行こうか?」

 50メートルほど先にゴミステーションがあった。

「い、いや、いい。自分で持って行くよ」

 気を取り直して弥彦は工具箱をしまい、両手に白いゴミ袋をぶら下げた。天気は良かった。快晴と言えるだろう。

70歳を超えてからは退屈しのぎに何でもしてみている。こうしてゴミ袋を運ぶのもその一つだった。ゴミステーションに着くと、もう8袋くらいがそこに置いてあった。朝早くから皆さん持ってくるんだ、と弥彦は来るたびにつまらない事に感心している。

「年を取ると朝早くなるからな」

自分の事は棚に上げた弥彦がゴミ袋をステーション内に積み置き扉を閉めて帰ろうとしたその時だった。朝陽に反射してキラキラと光る物が眼についた。何だろう思い腰を屈めて拾ってみると、驚いた事にそれは銀色をしたナットだった。

「まさか、こんな事が起きるなんて」

 欲しかったナットが偶然、タイミングよく現れたのだ。それは奇跡としか言いようのない出来事だった。手のひらに拾ったナットを置き、よく確かめてみると大きさもあの取手のネジに合いそうな感じがした。

「天は我を見放さず、だな。これは」

 弥彦はナットを大切にズボンのポケットにしまうと急に笑顔になった。

――やった! やったぞ、最高だ。

 こんな幸運は滅多にない。大喜びの弥彦は家に向かって意気揚々と帰っていった。

――アンナに早くこの事を教えてやろう、きっと驚く、絶対に驚く。

 弥彦は家に帰ると大声でアンナを呼んだ。

「ナットを拾ったんだ。これであの取手を直す事ができるぞ。もうこれで買いに行く必要もない。タダで直せる!」

 大興奮の弥彦は玄関先まで出てきた妻にポケットから銀色のナットを取り出してみせた。

「よかったじゃない。直るといいわね」

 アンナは明るい笑顔を見せた。

「今からやってみるよ」

 弥彦は物置から工具箱を再度取り出すとドライバーとレンチを数本見つくろった。そして、ゲート脇にしゃがみこみナットをネジの先端に取り付けてみた。しかし、喜びは瞬く間に失望へと転落する。

「だめだ……。サイズが少し大きい」

 ナットの内径はネジの太さより僅かに大きいようだった。何度やってみてもナットは空回りする。溜息をつくと後から落胆がこみあげてきた。

「そううまい具合には行かないか……」

 弥彦は工具箱をしまい、玄関を開けて部屋に入った。

「うまくいった?」

「だめだった。ぬか喜びになった。大きさがほんの少しだけ合わない」

 アンナの問いに弥彦は力なく応えた。

――そんなにうまい具合には行かない。偶然、ナットを拾ったからって、奇跡だとか言ってあんなに喜ぶなんて、いい歳をしてバカみたいだ。

気分は落ち込む一方だった。それから、ずっと鬱々が続いている。

 

「本当にがっかりしたのね」

 アンナの話を聞き終わると沙羅はもう一度、弥彦を見遣った。

「そんなにがっかりするくらいなら、買いに行けばいいのにね。たった一つしか要らないのに10個入りを買うのが悔しいのかしら。それとも、そんな浪費はもったいない、と考えているのかしらね。ま、落ち込むだけ落ち込んでもらいましょ」

 アンナはあっけらかんとしている。

「それもそうだね。じゃ、私、夏休みの宿題をしてくるから」

 沙羅はそう言って2階の自分の部屋に向かって階段を上がっていった。部屋に入ると本棚から算数と国語のドリルを取り出しすぐに机に向かった。沙羅はやらなくてはいけない事は先ずやり通さないと落ち着かない性格だった。後には放っておけない。夢中になって何かをしていると楽しくてたまらない沙羅だった。そのせいで今日終わらせると決めていたところまでの宿題は一時間ほどで簡単に終わった。

「後はおじいちゃんをなんとかしないと」

 明日は弥彦の誕生日、7月26日だった。それまでに、あのどんよりとした落ち込みを祖父から引き離さないとせっかくの誕生日がだいなしになる。

そこに隣の家に住む同い年の優作からメールが来た。

――今日の分の宿題、終わった?

――終わったけど? なに?

――算数のドリルで解らないところがあるんだけど、教えてくれる?

――いいよ。

――ありがとうな。じゃ、今から、そっちに行くから。

 承諾のメールを書きかけた時、沙羅は優作に相談してみる事を急に思い付いた。祖父が絶対に上機嫌になる何かいいアイデアを出してくれるかもしれない。

――私が優作のところにゆくわ。それで宿題を教えてあげる代わりにお願いがあるの。いいかな?

――なに?

――そっち行ったら話す。今から行くね。

――OK。

 携帯の返事を見ると沙羅は算数の教科書とドリルを慌ただしくクマのプーさんの絵柄のあるトートバッグに投げ込み階段を一気に駆け下りた。

「沙羅、何事なの?」

 階段から転がり落ちる大きな足音と風となって走り去る沙羅にアンナは目を丸くした。

「隣の優作の所に行ってくる」

 沙羅の声と玄関のドアが閉まる音が一度に聞こえた。

「お嬢さんには程遠いわね、沙羅」

 アンナは編み物をしながら微笑んだ。


「おばさん、こんにちは。沙羅です。優作の勉強を手伝いに来ました」

 勝手を知った裏庭を伝い沙羅は優作の家のドアを開けた。

「あら、沙羅ちゃん。いつもありがとう。優作も沙羅ちゃんみたいにお勉強できるといいのだけど」

 優作の母親はエプロンで手を拭きながら洗濯機のあるサニタリーから出てきた。

「優作! 沙羅ちゃんよ」

「上がってもらって」

 2階から優作の声が降ってきた。

「じゃ、失礼します」

 沙羅はゆっくりと階段を上がっていった。

「やっぱり、女の子はおしとやかね。優作とは大違い。沙羅ちゃん、後でシフォンケーキを持って行くわね」

 2階に着くと優作の母親の声が階下から聞こえた。

「……で、何なんだ? お願い事って」

 部屋に入ると優作がいきなり聞いてきた。

「それは宿題の後で。まず、勉強しましょ」

 沙羅は算数の本を広げ、優作がつまずいている問題の解き方を教え始めた。やるべき事は、先ずやり切るいつもの沙羅のスタイルだった。

「なるほど、こんな風に解くんだな」

 優作はシャープペンをぐるぐる回しながらドリルの問題に向かっていった。しばらくは刈り上げた頭がウンウンとうなっていたが、ようやく最後の問題を解き終わったのか鶏冠のように突き出た頭頂部の髪がぐったりと椅子の背にもたれかかった。

「終わった?」

「終わった。疲れた」

「何言ってるの。約束を聞いてね」

「わかってる。けど、その前に何か食べようぜ」

 優作は部屋のドアを開けて階下の母親に、何か食べ物を、と大きな声で頼んだ。すぐにシフォンケーキとアイスティーが運ばれてきた。

「沙羅ちゃん、ゆっくりしていってね」

 優作の母親はトレイを二人の前に置くと愛想よく手を振って出ていった。

「かあさんは沙羅のファンだからな。沙羅が来ると機嫌がいいんだ」

 優作はシフォンケーキを頬張りながらニヤニヤした。

「それで何を頼みたい?」

 優作はアイスティーを飲む沙羅に聞く。

「……実はね」

 沙羅は今日の祖父、弥彦の顛末を話して聞かせた。

「ふ~ん、それでなんとか明日までに弥彦おじいちゃんに立ち直って欲しいってわけか」

「そうなの。それで優作に相談したらいいアイデアが出てくるかなって思って」

「そうだなぁ。つまり、ナットは買いに行きたくはない、けれど、取手は直したい。それもラッキーな出来事でナットを手に入れて直したい……」

 また、刈り上げた頭がウンウンとうなり始めた。優作は立ち上がり、両手を後ろに組み、部屋を歩き始める。しばらくすると、ピタッと優作の足が止まり、鶏冠頭が沙羅の方を振り向いた。

「いいアイデアを思い付いた」

 優作が笑う。

「どんな?」

 優作は沙羅に思い付いたばかりの計画を話して聞かせた。

「じゃ、明日の朝、6時におじいちゃんを連れてゆくね」

 計画の内容を聞き取った沙羅が返事をする。

「それでいい。その少し前に準備をしておくから」

「やっぱり、優作に相談してよかった。ありがとう」

「まぁな。今日のところは弥彦おじいちゃんどん底だろうけど、落ち込んでいるのは明日の朝までだから、沙羅も元気だしな」

「分かった。じゃ、また」

「おう、じゃな」

 沙羅は足取りも軽く家に戻っていった。


 翌朝、沙羅は弥彦を愛犬の散歩に誘った。

「おじいちゃん、一緒にクー太郎の散歩に行こう。今日はおじいちゃんの誕生日だから、何かいいことがあるかもしれないよ」

「……どうしようか、あまり気が進まんがなぁ」

 弥彦はいまだに昨日の落ち込みを引きずっていた。

「行ってらっしゃいよ。可愛い孫の頼みでしょう? 弥彦」

 アンナが援軍を繰り出してくれた。弥彦はアンナには逆らえない。

「それじゃ、ま、行くか」

 夏の朝は真っ青に晴れ渡り朝陽が眩しい。

沙羅の愛犬のクー太郎にリードをつけて二人はいつもの道を散歩に出た。そのうち、あのゴミステーションが見えてきた。沙羅は腕時計をチラッと見る。6時過ぎだった。優作の計画ではここに仕掛けがしてあるはず。沙羅はそれとなく地面に目を落としてそれを探した。朝陽に反射する金属が転がっていた。

「おじいちゃん、あれは何?」

 沙羅が指さすと弥彦はその方向に目を遣る。「うん、あれは……」

 弥彦はリードを沙羅に渡すとキラキラと光るその物を拾い上げた。

「ナットだ!」

 銀色に光る金属は新品のナットだった。さらに弥彦が地上を見渡すと近くにもう一つ落ちていた。弥彦はそれも拾う。

「またナットだ。さっきのとはサイズが少し違うな。これはラッキーだ。昨日は一つ見つけただけで帰ったが、他にもあった、という事か」

 サイズ違いがあれば、うまく取手についているネジに合う物があるかもしれない。そう思いつくと弥彦は二つのナットをジーンズのポケットに入れ、ゴミステーションの周りを歩き始めた。

「やった! やっぱりあった」

 歓声が上がった。

「今度は金色のナットだ!」

 弥彦はポケットから取り出したナット二つと3番目に拾ったナットを一緒に手のひらに乗せてみた。

「サイズが全部違う。この中にあのネジに合うのがあれば最高だ」

「よかったね、おじいちゃん。散歩に来てよかったね、神様からの誕生日のプレゼントに違いないよ」

 沙羅は目を輝かせて弥彦を見上げた。

「そうだな、沙羅。神様からの贈り物に違いない。帰って、ちょっと合わせてみよう」

 弥彦の顔に晴れやかな笑みが浮かんだ。

――優作、計画は大成功。

 沙羅は弥彦の後を歩きながら笑みを浮かべた。

 家に戻ると弥彦は張り切って工具箱を持ち出してきた。そして、アコーディオンゲートの脇に座り込むとポケットから拾った三つのナットを順番に取り出しネジにあてがっていたが、そのうちの一つがどうやらうまくはまったらしい。

「沙羅、合うのがあったよ。ははは、これで直せる。最高の誕生日プレゼントだ。おまけに金色ナットときている」

 弥彦はドライバーとレンチでナットを締め上げた。取手はしっかりと固定された。そこにアンナが顔を出す。

「うまくいったの?」

「あぁ、うまくいったよ。最高の誕生日の始まりだ」

 弥彦は声を上げて笑った。そこに娘夫婦が転がり出てきた。

「ゲートを開けて、お父さん。急いでるの。お誕生日おめでとう」

 麻里亜は相方の桜田とドヤドヤとファミリアに乗り込んだ。

「お義父さん。お誕生日おめでとうございます!」 

 桜田は走り去るファミリアの窓から手を振って叫んだ。

「まぁ、いつも忙しいこと」

 アンナは金髪の頭を左右に振って溜息をついた。

「いいさ、あれはあれで幸せなんだから」

 弥彦は工具箱をしまった。口元を覆う白い髭から鼻歌が聞こえた。

――おじいちゃん、上機嫌だわ。

 抜けるような青空から輝く陽差しが降り注ぎ濃い緑の葉に戯れている。

――よかったね、おばあちゃん。おじいちゃん、元気になって。

 弥彦に寄り添うアンナを見て沙羅は幸せだった。そして、「優作にアイスクリームでお礼しなくちゃ」そう考えていた。


 午後、学習塾の帰りに沙羅は優作とコンビニエンスストアの前で待ち合わせをした。

「沙羅、どうなった?」

 優作が半ズボンにTシャツ姿で横断歩道を渡ってきて聞く。

「大成功! 優作、偉い!」

「そうなんだ! やったな、沙羅」

「お礼にアイスクリーム買うね」

「本当に?」

「もちろんよ。あのアイデアは最高だったもの」

「じゃ、マクダミアンナッツアイスクリームがいいな」

 優作は甘い物に目がない。二人はコンビニエンスストア横のベンチに腰掛けアイスクリームを口に運んだ。

「優作、サイズの違うナットを3種類も用意してくれたんだね」

 沙羅は隣の優作に声をかけた。

「3種類? おかしいな、確か置いたのは2種類だけだったはずだけど……。銀色のナットを二つ」

 優作の父親の工具箱には2種類しかナットがなかった。

「えっ⁈ じゃ、金色のナットはどうしたのかな。ゲートのネジに合ったのはそれだよ、優作」

 沙羅と優作は意外な成り行きにお互いの顔をまじまじと見た。

「そんな……。そんな事ってある?」

「誰が金色のナットを置いたの?」

 しばらく沙羅と優作は言葉を失った。

――これは夢か。

――本当に奇跡がおきたのかしら。

 アイスクリームを食べる手が止まっていた。

「……沙羅、これは本当に神様からの贈り物かもしれないな。……というか、そうとしか考えられないよ。神様からの贈り物、それに違いないって」

 優作が考え深げに話した。

「誕生日の贈り物?」

「そう、誕生日の贈り物」

 優作は自信に満ちた顔で沙羅を見詰めた。沙羅は黙って空を見上げる。白い雲が青い天空を支えるように沸き立っていた。天上の国に住まい給う人の声が聞こえた気がする。そして、確信したのだろう。

「……だよね。そうだよね。神様からの誕生日の贈り物だわ、絶対。だとすると優作にアイスクリームを買うんじゃなかったかな」

 沙羅は優作に振り向き澄んだ笑顔を見せた。

「ま、神様の親切を分けてもらうきっかけを作った、ということでおまけして」

 沙羅と優作は声を上げて笑った。熱い夏の日なたに沙羅と優作のにぎやかな笑い声が響き、食べかけのアイスクリームは今にも溶けてしまいそうだった。


 優作と別れた後に沙羅は図書館に行った。それは弥彦への誕生日プレゼントを用意するためだった。図書館を訪ねてみると頼んでいた物はもう用意されていて、沙羅はそれを包装紙で丁寧にくるみピンクのリボンを巻いて家に持ち帰った。

リビングルームに入ると中庭で弥彦とアンナが白いテーブルを囲んでいるのが眼にとまった。テーブルとお揃いの白い椅子に腰かけて二人だけの誕生日パーティを開いているようだった。開け放たれた中庭には涼しい風が通り、濃い緑の木々の下に爽やかな木陰ができている。

「ただいま。お誕生日のパーティ?」

「そうさ、沙羅。一足先に始めてるんだ」

 少し顔を赤らめた弥彦はご機嫌だった。

「お帰り、沙羅」

 アンナは若いクロタン・ド・シャヴィニョルをつまみながら手を振った。お気に入りのヤギのチーズでサンセールの白ワインの入ったグラスがそばに置かれていた。アンナもご機嫌らしい。

 プレゼントを渡すため沙羅は中庭を横切っていった。

「はい、おじいちゃん、お誕生日のプレゼント」

 沙羅が差し出すと途端に弥彦の顔がくしゃくしゃになる。

「いつもありがとう、沙羅。お前は本当に優しい子だよ。なぁ、アンナ」

「私たちの孫ですもの、当然」

 弥彦は手を打って喜んだ。

「そうだな、自慢の孫娘だ。ははは!」

 弥彦はそこでグラスに残っていた酒を飲み干した。冷した日本酒で香りの高い弥彦お気に入りの銘柄だった。サンセールの白ワインと一緒にワインクーラーの中で冷やしてある。その瓶を手に取りながら弥彦は続ける。

「さて、沙羅、プレゼントを開けてもいいかな?」

「いいよ」

 沙羅はにこにこしながら答える。弥彦が丸められた紙を開くと、それは弥彦の生まれた日の新聞の第一面のコピーだった。

「おう、これは……」

感心してうなる弥彦。

「沙羅、素晴らしいプレゼントよ」

 アンナが続けた。弥彦は頷き、冷えた日本酒をグラスに注いだ。

「今日は最高だ。朝からいい事があったし、沙羅には最高のプレゼントをもらうし、アンナには大好物のイカ納豆を作ってもらって言うことがないな」  

 弥彦は小ぶりの深皿の中のイカ納豆を箸ですくって口に入れた。

「たまらんね、これは」

 また、一口、日本酒を含む。酔いがまわってきたのか弥彦は饒舌になった。

「沙羅、アンナと結婚するのは運命だったんだよ」

「どうして?」

「つまり、今日、誕生日が7月26日だろう。この日は聖アンナの日なんだよ。若いころ、彼女に出会ってすぐに思った、この人と結婚するってなぁ。生まれた日の守護聖人が聖アンナ、初めて愛した女性の名前もアンナ。もうこれは運命だと信じた」

 弥彦が真顔で力むとアンナがワイングラスを掲げた。

「はいはい、そんな昔話はおしまいにして、もう少しお祝いしましょ、弥彦」 

 アンナと弥彦はグラスを合わせた。

「沙羅も冷蔵庫から何か冷たい飲み物を持ってらっしゃい。一緒にお祝いしてくれると嬉しいわ」

 アンナから言われ沙羅は飲み物を探しにダイニングルームに入っていった。そして、冷蔵庫の扉を開け冷えたオレンジジュースを取り出そうとした。ところが取り上げた途端に紙パックの底が冷蔵庫の一番下の棚に置いてあった品物にあたり、それを床に落としてしまった。見ると、どうやらイカ納豆を作る時に使った納豆の残りの一つのようだった。

「あ、いけない」

急いで拾い上げて何気なく藁苞の上に貼られたキャッチコピーを見ると太い金色の文字で≪しあわせ運ぶ金色納豆≫とあった。

「きんいろなっとう……か。キンイロナットウ、キンイロナットって……。あっ! まさか」

 沙羅は突然、閃いた。

――キンイロナットは金色ナット。

 振り向くと天空から一条の光が差し込みアンナの姿を黄金色に輝かせている。弥彦が広げる新聞を見て静かに微笑むその姿は気高い聖なる女性その人だった。

              了


 


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