見出し画像

小説「空気男の掟」1 

 1 僕らの出会い

 空気男は、あなたの望みを叶えてくれる存在です。望み通りの役割を演じてくれます。あなたが与えた設定を完璧にこなします。どのように使うかはあなた次第です。暇つぶし、切実な悩み、命に関わる問題、全て受け付けます。事情は聞きません。なお、何か問題が発生した際の責任は負いません。空気男の使用はあくまで自己責任で行ってください。報酬はあなたのお気持ちでお願いいたします。

「空気男の偽物が現れたらしいぞ」

「偽物ってどんな?」

 「ああ、なんでも途中までは普通の空気男と同じように接するらしいんだ。それが、途中から人格が変わってしまったように依頼人を平気で傷つけることをするらしい」

 「どんなことするんだ?」

 「なんでも手をつないで歩いて欲しいって依頼した女がいたんだってよ。それで多摩川沿いを一緒に歩いていたらしいんだ。それで途中までは普通に2人は話してたんだってさ。そしたら空気男が突然怒り出したんだってよ」

 「何を話してたんだろう?」

 「さあな、知らない」

 「そうか」

 「それでさ、それから空気男が女のことを罵っていなくなったんだってよ。女はその場で呆然と立ちすくんで、泣いちゃったんだってよ」

 「そんなことよく知ってるな。誰から聞いたんだよ」

 「本人がSNSに書いてるんだよ」

 「空気男?」

 「違うよ、女の方だよ。鈍いな」

 「ああ、そうか」

 「空気男にも何かあったんだろ」

 「でもよ、あの空気男がそんなことしないだろ」

 「女が変なことを言ったんじゃないのか?」

 「どうだろうな、そこまでは知らないよ」

 「本人に聞いてみたいな。気になってきた。なあ、連絡先知らない?」

 「空気男の? SNSのアカウントがあるだろ」

 「お前も鈍いな。そうじゃなくて女の方だよ」

 「ああ、女の方か。アカウント教えようか?

 「頼む」

 「よし、いま送る。これだよ」

 「サンキュー。じゃあ、またな」

健二にメッセージを送り、別れを告げるとさっそく僕は女に連絡をした。


 「初めまして。空気男の偽物のことを聞きました。もしよろしければお話しを伺えないでしょうか?」

 すぐに女から返事が来た。

 「初めまして。ブログに書いていることでほとんど全てですが、聞いていただけるのならお話しします。あなたの目的次第ですが。目的は何ですか?」

 「興味本位です」

 「誰かに話したりしませんか?」

 「話してしまうかもしれません」

 「SNSの記事に書いたりしますか?」

 「書いてしまうかもしれません」

 「そうですか。まあ、いいですよ。私も暇なので。ちなみにあなたの名前は?」

 「教えたくありません」

 「それだと呼び方に困ります」

 「Yと呼んでください」

 「Yですね。わかりました。女性ですか?」

 「男です」

 「どこでお話ししましょうか?」

 「メールでいいですよ」

 「会ってお話ししましょうよ」

 「メールでいいです」

 「Y、それなら私はあなたにお話ししたくありません」

 「わかりました。場所を指定してください」

 「そうしたら、登戸駅のドトールですか?」

 「わかりました。調べてみます。ところでいつにしますか? 明日だと都合がいいのですが」

 「今からにしましょう」

 「今からですか? もうすぐ22時ですよ。明日にしましょう」

 「いや、今からにしましょう。今からじゃなければ、Y、あなたには何もお話ししたくありません」

 「わかりました。今から向かいます。23時ごろになってしまいそうですが、大丈夫ですか?」

 「問題ありません。私はベージュのコートにチェックのマフラーをしていきます」

 「わかりました。あなたのお顔はブログで拝見したので、すぐにわかると思います」

 「Y、あなたの顔写真を送ってくれませんか?」

 「いやです」

 「それはアンフェアです。顔も知らない相手を待つなんて緊張してしまう」

 「カオナシでも想像して待っててください」

 「カオナシってあの?」

 「そうです。ジブリのカオナシです。あーあー言って金を千に差し出すあのカオナシです。僕はあーあー言ってあなたの情報を奪いに行きます」

 「なんだか怖い」

 「それではまた後で」


 ベッドから起き上がり、両手で目をこすった。僕は、興味本位で見知らぬ女と会うことになったことに後悔し始めていた。女は美里という名前だ。ブログにはそうあった。本名が美里なのかは分からない。美里に会う価値があるのだろうか。退屈な毎日を変えてくれる刺激的な何かがそこに待っているのだろうか。空気男の偽物のことを知ったところで僕に何かいいことがあるのだろうか。それでも、仕方ない。面倒くさかろうと自分で蒔いた種だ。

 着替えをすませてからリビングでテレビを見ている理子に声をかけた。

「ちょっと出かけてくる」

「どこ行くの?」

 「健二と飲みに行ってくる。空気男の偽物が出てきたんだってよ」

 「何それ。空気男の偽物って」

 「さあ、よくわかんないけど面白そうじゃん」

 「わたしも行こうかな。健二君に久しぶりに会いたいし。空気男のことも気になる」

 「ああ、そう。一緒にくる?」

 「うん」

「確認するね」

 「はーい」

 理子の隣に座った。少しくたびれたソファーは弾力が失われてきている。低反発となったソファーに座ると身体が沈み込み、立ち上がることが嫌になってしまう心地よさがあった。僕らはそれを、ソファーの罠と呼んでいた。ソファーは購入から7年が経っていた。僕は罠に嵌りながら、健二にラインでメッセージを入れた。

 「今から飲みに行かないか?」

 その後、美里にもラインを送った。

 「今日は厳しそうです。後日にしていただけませんか」

 健二から返事がきた。

 「ああ、別にいいけど。どこで?」

 美里から返事が来た。

 「今日でなければダメです」

 健二に返事を送った。

「どこでもいいよ。理子と一緒に行くから空気男の偽物の話聞かせてくれよ」

 美里に返事を送った。

「それでは、今回の件はなかったことにしましょう。よろしくお願いします」

 健二から返事がきた。

 「そしたら登戸でいいか? 23時にJRの改札前待ち合わせで」

 美里から返事がきた。

 「Yさん、あなたは自分勝手な人ですね。私は待ってますよ。登戸で」

 健二に返事を送った。

「わかった。じゃあ、後で」

 美里に返事を送った。

 「後日にしましょう。それでは、おやすみなさい」

 理子の方を向いて僕は言った。

 「健二からオーケーもらったよ。登戸に行こう」

 「了解。じゃあ着替えてくる」そう言って理子はリビングを出て行った。

 僕はテレビを消して、壁掛け時計を見た。理子が一人暮らしをしていた時から使っていた時計だ。時計のフレームは木でできている。回り続ける黒い長針は常に5分先の時刻を指し示している。時計は22時20分を指し示していた。すぐに家を出ないと間に合いそうにない。僕の家は、登戸からそう遠く離れていない。電車にさえ乗ってしまえば10分ほどでついてしまうのだが、いかんせん電車の本数が少ない。理子の支度次第で遅刻してしまう。まあ、いいか、相手は健二だし。キッチンに向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに注いで飲み干した。

「理子ー。準備できそう?」とウォークインクローゼットで着替えをしている理子に声をかけた。

「まだー、もう少しかかりそう。3月って何着ればいいかよく分かんないんだよね」

「そっか。了解」

僕は目をつぶり、深く息を吸い呼吸を整えた。そして洗濯物が溜まっていることを思い出して、脱衣所に向かった。2つの籠の中には5日分の洗濯物が溜まっていた。理子の下着とそれ以外の洗濯物で分けられている。理子の下着に僕が触れることはできない。去年の夏の初め頃に、断りなく理子の下着を洗濯したことがあった。そのことを知った理子から2度と下着を洗わないでくれと言われてしまった。理由は教えてくれなかった。それ以来、僕は理子の下着を洗っていない。僕は、シャツやズボンを洗濯用のネットに入れ、洗濯機に入れ、洗剤と漂白剤をトレーに投入し、洗濯機のスタートボタンを押した。蛇口から水が注がれ、洗濯機のモーターが唸り声をあげ、洗濯物がグルングルンと回転し始めた。

「お待たせー」と理子が洗面所に入ってきて言った。

「洗濯サンキュー。じゃあ、行こうか」

「よし、行こう。忘れ物ない?」

「大丈夫」

「オッケー」

僕らは家を出た。ドアを開けると、マスクをした白髪の男がこちらを見つめていた。同じマンションに住む管理組合の役員の男だ。頬がこけて痩せており、鳥のような顔をしている。僕は心の中で鳥男と呼んでいた。以前よりも痩せた印象で目が落ち込み、不気味さが増していた。夜に会いたくない住人のひとりだ。

「お出かけですか?」鳥男が聞いてきた。

「ええ、まあ」僕は答えた。

 「お気をつけて。もう夜も遅いですから」

 「ありがとうございます。それでは失礼します。おやすみなさい」

「おやすみなさい。よい夜を」

 理子は何も言わずに僕の手をじっと握っていた。僕はその手を引いてエレベーターに向かった。薄暗いエレベーターに乗ると、僕は一階のボタンを押した。ギギとワイヤーが擦れるような音が聞こえた。僕らは黙っていて、ドアの上部にある階数を示す表示を黙って眺めた。そのうちに心も身体も動かさず五階から一階へと運ばれていった。

 僕らはエレベーターから降りて、エントランスを抜けて外へ出た。外の空気は少しひんやりとしていた。理子が大きなくしゃみをした。僕らはあくまで黙ったまま駅へと歩き始めた。路地から大通りに出てからようやく理子が口を開いた。

 「夜でも花粉って飛んでるんだね。目がかゆい」

 「鼻水も出てるよ」と僕は言って笑った。

 「ティッシュある?」

 「あるよ」そう言って僕は理子にティッシュを渡した。

 「ありがと」そう言って、理子は鼻をかんだ。

 「はい」理子が使い終わったティッシュを返してきた。

 「はいはい」僕はティッシュを受け取って、カバンの中のごみ用ビニール袋に入れた。

 「あの人おかしいよね?」

 「あの人?」

 「さっきのマスクしてた男の人」

 「鳥みたいな顔の人?」

 「そうその人」

 「最近、よくうちの階の廊下にいるんだよね」

 「何してるんだろう?」

 「わかんない。でもあの人二階に住んでるんだよ。五階になんか用ないでしょ」

 「確かに。少し変だね」

 「少しじゃないよ。変だよ。怖いよ。何かあったら助けてね」

 「わかった。でもさ、そんなに悪い人でもないんじゃない?」

 「なんでそんなことわかるの?」

 「挨拶もしてくるし」

 「それも逆に怖いんじゃん」

 「黙って見つめられる方が怖いと思うけど」

 「とにかくあの人はおかしくて怖いの」

 「人それぞれ何かしら変わってる部分はあるんじゃないかな」

 「ねえ、だからさあ、何なの? 私とケンカしたいの? 彼女が怖いって言ってるんだから、大丈夫だよ、俺がついてるから、とか言えないの?」

 「俺がついてる、だから大丈夫だよ」

「もう遅いよ」

 「ごめん」

 「わたしもう帰ろうかな。なんかもう一緒にいたくない」

 理子の顔を見ると眉間にしわを寄せて、目線はアスファルトに落とされていた。

 「理子」僕は歩みを止めて声をかけた。

 「何よ」理子が振り向いて僕を見た。

 「ごめん」僕はそう言って、頭を下げた。

 「何よ、急にかしこまって。あ」

 「え、何?」

 「禿げてる」

 「嘘?」

 僕は左手で頭を触った。いつもと変わらない感触で禿げているという感覚はない。無自覚に無情にも僕は自然に禿げ始めているのだろうか。両親は禿げてないから油断していた。禿げ始めた友人を見ては、自分はまだ大丈夫だと心のどこかで安心していた。これで僕もようやく禿げの仲間入りをするのだ。それも受け入れていくしかない。

 病院で治療をするか、ドラッグストアで発毛剤を買うか、いずれにせよ金もかかる。それに以前の状態に戻るとも保証もない。自尊心を保つためにあくまで治療中だと自分に言い訳を続けるのだろうか。それだったらいっそ坊主にしてすっきりとした開放感の元で何もかもさらけ出して生きていった方がいいんじゃないか。理子はそれを受け入れてくれるだろうか。

 「理子」僕は理子に声をかけた。

 「何?」

 「別れようか」

 「なんで?」理子の大きな目が僕の目を覗き込んだ。

 「禿げたから」

 「は?」

 「禿げた俺と一緒にいるの辛いでしょ? 一条さんのこと嫌ってたし」

 「あんた何言ってんの。一条ってあんたが前に働いてたコンビニの店員のこと?」

「そう。バイトしてた時の先輩」

 「一条は禿げてるの隠して、バレバレのかつら被っていたでしょ? その潔くないところが好きじゃないって言っただけ。それに禿げてるって嘘だよ」

 「え、嘘だったの? 

 「嘘、嘘。禿げてないよ。大丈夫」

「あーよかった」

 「本当バカだね」

 「いや、よかった。まだ禿げるには心の準備ができてなかったからさ。あー、よかった」

 「心の準備なんていつすんのよ」

 「これから」

 「間に合わないかもよ。何かが変わるのなんて誰かの心の準備を待ってくれるものじゃないじゃん。心の準備ができたから春になっていいよ神様、なんて誰も合図を出していない。わたしの心の準備が終わる前に花粉は飛んで、梅の花は咲いて、桜が蕾を膨らませてる。ほら、見てみなよ梅の花が咲いてる」

 「本当だ」

 大きな一戸建ての住宅の庭に、剪定された多くの松の木に混じって大きな梅の木が一本だけ植えられていた。開いた花が街灯に照らされて、美しく風に揺られている。梅の美しさは、桜のように人を狂わせる魔力のような美しさとは違う。控えめに、ただ静かに咲いている。花びらは白にほんの少しの赤を混ぜた色をしていた。理子の長く茶色い髪が風に吹かれていた。乱れて口元に落ちた髪を理子は左手で整えた。

 「春も梅も桜もわたしも禿げも準備なんて待ってくれないの」

 「うん」

 「でも、禿げてもいいよ。一緒にいてあげる」

 「うん、ありがとう」


 理子との出会いは偶然だった。どこかの誰かが整えてくれたおかげで出会った、というたぐいの調和のとれた必然的な出会いではないということだ。僕と理子は、5年前に出会った。場所は大学時代に僕がアルバイトをしていたコンビニだ。

 当時、僕は大学2年生で、理子は化粧品メーカーの営業をしていた。僕は、波風の立たない穏やかな大学生活を送っていた。サークルや部活にも入らずにやることは適当に講義を受けて、適度にさぼりながらバイトをして、眠る前には酒を飲み、翌日の朝には眠い目をこすり一限の講義に出るか頭を悩ます日々だった。

 僕が働くコンビニは、自宅から五分ほど離れた所にあった。コンビニの前には大きな公園があり、同性愛者が何らかのしるしを身に着け、夜な夜な逢引きをしているという噂があった。だが、実際に逢引きが行われているのを僕は見たことがなかった。僕の働くバイトのシフトが夜勤だったからかもしれない。働いている時間帯に外のことなど気にしていられない。僕が夜勤のシフトに入るのは、通常の時間よりも時給が良かったからだ。夜勤の時間に働く人は、なぜだか個性的な男の人しかいなかった。

 小太りで眼鏡を掛けた服部さんはコミュニケーションがうまく取れない。僕が声を掛けても、あーうんとか、いやーとしか反応してくれなかった。服部さんは売場の整理整頓が得意だった。特に酒の補充が得意で、服部さんが補充した後の売場はパッケージが綺麗に揃っていて、秩序だった絵のようだった。まるでアンディ・ウォーホルのトマト缶の絵のように。僕が売場の整理整頓をした後に、服部さんがその売り場を眺めていると何か言われるのではないかと少し緊張してしまった。バイトを始めてから1年が過ぎてからもそれは変わらなかった。服部さんはお気に入りの少女漫画雑誌の新刊が出ると、仕事終わりに購入し、大事そうに自転車で家に持って帰っていった。

 もう1人先輩がいた。不自然なかつらを被った一条さんだ。一条さんは面倒見のいい人だった。僕がバイトを始めた頃は特にお世話になった。レジで分からないことがあるとすぐに飛んできてくれて瞬時に対応してくれた。頼りになる先輩で、仕事に関する細かな質問にも嫌な顔をせずに答えてくれた。一緒にチェーンの居酒屋に飲みに行くこともあり、ご馳走してもらうことがほとんどだった。ただ、仕事の話以外に話すことはなかった。どこに住んでいて、どんな家族構成なのかなどプライベートな話をすることはなかった。年齢が三十代半ばということはオーナーから聞いていたけど、それ以外の情報はなかった。あまり得意ではないお酒をチビチビ飲んで、仕事の話をしている一条さんの顔は赤らんで、表情は活き活きしていた。「俺がいないと店は回らない」というのが一条さんの口癖だった。僕もそう思っていた。

 僕は色んな人に支えられていた。

 理子は毎日23時ごろに買い物に来た。当時、僕らはお互いの名前も知らなかった。ただの客と店員の関係だ。長い髪を後ろで一本にまとめ、少しくたびれたスーツを着ていた。目と耳が大きい代わりに小さな鼻をしていた。メガネザルみたいに可愛い顔をしているなと思っていた。そのことを直接伝えたときには、機嫌を損ねてしまったのだけど。彼女は、いつも弁当とサラダ、ビールやアルコール度数の高い酎ハイを買って帰った。僕はその姿を見て、きっと仕事に疲れ、ストレスで酒を飲まずにはいられないのだろうと勝手に思っていた。客の雰囲気と買う物でその人のことを決めつけるのが、僕がしていたバイト中の暇つぶしだった。

 夏の終わりの頃だった。オーナーから店舗を改装するという話をされた。改装期間は3カ月掛かり、その期間の仕事は補償できないという。ただ。改装が終わってから戻る意志があるなら受け入れをする。その点は安心して欲しいと。

 僕はその知らせを聞いてバイトを辞めることにした。バイトを続けるか辞めるかで少し迷ったのだけど、3カ月バイトができないとなると収入がなくなり、生活は苦しくなってしまう。僕と一緒に働いていた服部さんと一条さんは改装後も働き続けるそうだ。2人は近くの実家に住んでおり、収入がなくなっても生活をするのに困ることはないそうだ。

 「バイトなんて小遣い稼ぎと暇つぶしだよ。つかの間のニート生活を楽しむよ」

 一条さんはそう言ったが、言葉とは裏腹に悲しそうな顔をしていた。僕は一条さんが仕事にやりがいを感じていることを知っていた。たった3カ月の空白が生じるだけだと考えてみたけれど、僕にとっての3カ月というのはあまりに長かった。たった3カ月で季節は夏から秋に変わり秋から冬に変わる。僕は、半ズボンを脱いで、セーターに着替え、新しいダウンジャケットを買わないといけない。

 最後の出勤日は雨が降っていた。九月に入っても蒸し暑い熱帯夜が続いていたが、その日だけは秋の訪れを感じさせる涼し気な空気だった。いつも通りの時間に彼女が買い物に来た。彼女はいつも通り同じ物を小さな買い物カゴに入れて、僕が待つレジに来た。一カ月後、このコンビニは改装のために閉店する。閉店している間、この人はどこへ行くのだろう。この人の生活はどうなっていくのだろう。そんな興味本位で僕は話しかけてみたくなった。バイト最後の日なのだから、いつもと違うことをしたっていいじゃないか。僕は、明日からここにいない。もう彼女と会うこともないのだ。

 「あの、今日も飲むんですか?」僕は声を掛けた。

 「ええ、まあ」彼女は怪訝そうな顔をして僕を見てきた。

 「お疲れ様です。大変ですね」

 「何が大変なんですか?」

 「お仕事です。忙しいのかなと」

 「仕事は別に大変じゃないですよ」

 「すみません、失礼しました」

 会計をすませて、彼女は自動ドアを通り抜けて外を出て行った。恥ずかしいことをしてしまった。まあ、いいじゃないか。もうこれ以上ここで恥をかくこともないのだ。エアコンのない部屋で寝苦しい毎日も終わって、爽やかに眠れる日々が待っている。少しだけ頭が痛い。最近、あまり眠れてないからだろうか。次は寝不足にならないようなバイトをしたい。そういえば昨日は何時間眠れたんだっけ。

 僕は何かを考えることでさっきの出来事を忘れようとしていた。無意識な自己防衛をいつからか僕は覚えていた。

 自動ドアが開き、BGMが鳴った。入り口に目をやると、彼女の姿がそこにあった。彼女が手に持つ傘は濡れて乱雑にたたまれていた。

 「あの、暇ならこの後飲みませんか? 何時まで仕事ですか?」

 彼女は僕に向かってそう言った。僕らはこうして店員と客というボーダーラインを飛び越えて、互いをひとりの人間として認めるようになった。

「今日は二十三時三〇分で終わりです」

 「そしたら、飲みましょう。決まり」彼女は嬉しそうに笑った。そして、彼女は一回家に帰ると言って店を出た。


 僕のバイトが終わり、コンビニから出ると彼女が待っていた。雨はすでに止んでいた。

 「あ、お疲れ様。じゃあ、いきましょうか」彼女が言った。

 「はい。あのどこへ?」僕は言った。

 「うちで飲みましょう」

 「いいんですか?」

 「いいよ。すぐ近くだし。あ、この公園の噂知ってる?」

 「噂は聞いたことありますよ」

 「見たことある?」

 「ないですね、ただの一度もないです」

 「わたしもないの」

 「そうですよね。普通見られたくないだろうし」

 「好きな人を待つって素敵なことだよね」

 「そうですね。まあ、そこに好きという感情があるのかは分かりませんが」

 「好きに決まってるじゃない。じゃなきゃこんな暗い公園で人を待つなんてしないでしょ。今日なんてさっきまで雨が降っていたから月も見えない。自分を照らしてくれるのは、頼りない街灯だけ。こんなに大きな公園なのに街灯も少ないから、少し離れたものはほとんど見えない。時計が進んでいくごとにドンドンドンドン心細くなっていく。もう来ないかもしれない。でも、もう少し待てば来るかもしれない。希望を捨てられないまま、心臓の鼓動を感じ続けるの。はち切れそうな心臓の鼓動を。夜にしか会えない恋人に会うためにどれほど怖い思いをしているか。わたしだったら耐えられない。本当にすごいよ」

 「でも、僕たちは誰かを待つその姿を見たことがない」

 「でも、きっといるよ」彼女は言った。

 「もしかして少し酔ってます?」

 「うん、もう一本飲んじゃった」

 「そうだったんですか。あんまり飲みすぎない方がいいですよ」

 「明日は休みだから大丈夫。それに、これから飲むんだからそんなこと言わないで」

 「そうですね。でも本当にいいんですか? お家に飲みに行って」

 「なんでそういうこと聞くの? わたしだって暗い中であなたを待っていたんだよ。ゆっくりのんびり動く心臓の音と雨音を聞きながら。ほら行こう。わたし達の話を誰かが聞いているかもしれないよ。恋人を待ち続ける誰かが」

 「それは、怖いですね。そうしたら行きましょうか。ところであなたの名前は?」

 「理子。理想の理に子どもの子。あなたの名前は?」

 僕は自分の名前を教えた。


 水たまりを避けながら、理子の横を歩いた。そして、理子の住むマンションにたどり着いた。理子の部屋は5階だった。エレベーターに乗った僕らは、当たり前のように静かに黙って時が流れるのに身を任せた。なんでこんなことになったのだろう。どうして理子は僕を誘ったのだろう。そう考えてみても理由はわからなかった。答えが知りたければ本人に聞いてみるしかないのだ。

 理子の部屋に入ると、女性の一人暮らしとは思えないくらい飾り気がないことに驚かされた。かわいいぬいぐるみや飾りは一切なく、生活に必要な最低限の物が揃っていた。ただし、本だけは大量に溢れていた。壁際に置かれたテレビの左右には大きな本棚が2個ずつ設置されていた。ウォルナット材でできた同じデザインの本棚は部屋に重厚感を与えていた。本棚には一般書、ビジネス書、教養書、文芸書などジャンルを問わずに本が並んでいる。中でも多くのスペースを割いていたのは絵本だった。

 「すごい量の本ですね。こんなに読むんですか?」

 「興味があったら読むし、興味がなかったら読まない。興味本位で買って読んでないのも沢山あるよ」

 「僕もそういうのよくあります。僕の場合だと読むのを諦めて古本屋に売っちゃうんですけどね」

 「わたしは売れないなー。いつか読むかもって思っちゃうんだよね。ほら絵本とかでもいつか読むかもって捨てられなくて。それで読んでみると意外に面白くってさ。読んでない本もいつかはそういう風に読むのかもって思っちゃうんだ」

 「そんなことあるんですか。僕は今までそんなことなかったな。僕は、人生で二十冊も本を読んでないと思います。読み終えられないんですよね」

 「そっか。じゃあ、何してたの?」

 そう聞かれて僕は答えに窮してしまった。僕はこれまでの人生で何をしていたのだろう。

 「あ、ごめん。とりあえず飲もうよ。さあ座って。最初はビールがいい?」

 「はい、ビールでお願いします」

 「おつまみは作り置きのおかずで許してね」

 「ありがとうございます」

 僕はテレビの前のソファーに腰かけた。黒い革張りのソファーで、適度な硬さで身体が沈みすぎず、座り心地がよかった。疲れが溶けていくような感覚があった。オレンジ色の照明は優しく軽い眠気を催した。連日、睡眠不足が続いていたことを思い出した。ただ、眠るわけにはいかなかった。ここは他人の家だ。

 「お待たせ、発泡酒じゃなくてちゃんとビールだから喜んでよね」

 理子はグラスを2個と缶ビール、そしておつまみを持ってきた。ソファーの前に置かれた透明なテーブルにそれらを置くと、理子は僕の右隣に座った。

 「じゃあ、飲むか。あ、ごめん。着替えてきてもいいかな?」

 「もちろん大丈夫ですよ」

 「ありがとう、すぐに着替えてくるからちょっと待ってて」

 そう言うと理子は隣の部屋に移動した。戻ってくるとHELP!と書かれた白いTシャツにグレイのスウェットというラフな格好で戻ってきた。理子からは石けんの香りがした。

 「よし、お待たせ。さあ、グラスを持って」

 僕は言われる通りにグラスを持った。理子は慣れた手つきで缶を凹まして、注ぎやすくしてから僕の持つグラスにビールを注いでくれた。ビールと泡の割合は八対二くらいでとてもおいしそうに見えた。僕もそれを真似て注いだのだが、泡が多くなりすぎてしまった。

 「ははは、こんなの慣れだから気にしなくていいよ。飲めば変わんないし。さあ、乾杯」

 「乾杯」

 僕らはグラスを軽くぶつけて酒を飲み交わした。おつまみはビールに合っていておいしかった。枝豆の塩昆布あえは昆布の塩気が枝豆の甘みを引き出していた。エリンギのホウレンソウバター炒めはエリンギの食感がよかった。どちらのおつまみもおいしくて、箸が進んだ。それに伴って自然と酒も進んでいく。少し経つと理子は音楽を掛けてくれた。壁沿いに設置されたメタルのラックの上に置かれたPanasonicのスピーカーからMaroon5が流れてきた。僕には、英語の歌詞で何を言っているのか聞き取れなかった。

 「洋楽、結構聞くんですか?」僕は理子に尋ねた。

 「うん、洋楽とかジャズとかクラシックとか」

 「邦楽は聞かないんですか? 僕が聞くのは、ほとんど邦楽ですよ」

 「んー、邦楽はほとんど聞かないんだよね。ほら、歌詞が分かるじゃん」

 「分かりますね。ばっちり分かります。日本語だから分かります」

 僕は少し酔い始めていた。

 「そう、分かっちゃうんだよ。だから、聞かないの」

 「分かるから聞かないってどうしてですか?」

 「なんか疲れちゃわない? 意味のある言葉を訳の分かる言葉を聞き続けるのって」

 「そうですか?」

 「わたしはそうなの。歩いていても電車乗っていても働いていても言葉が耳に入ってきて、それを理解しようとしなくても頭が勝手に考えている。考えたくなくても考えてるっていうそういう状態なのが疲れちゃうの。音楽もそう。物語とか思想とかを音に乗せられて歌が歌われていると思うんだけど、日本語だと意味を考え出しちゃう。気になると真剣に考え始めちゃうし。そうなりたくないの、音楽を聞いているときくらいは。だから、わたしは、邦楽をほとんど聞かないの」

 「洋楽でも聞いてると知ってる単語出てきたりしますけど、それはいいんですか?」

 「それは大丈夫。LOVEとかSUNとかRAINとかいう単語を聞いてもわたしの脳みそはOFFのまんまで連想ゲームみたいなことは始まらないの。歌をただの音として聞いてるの」

 「ふーん。僕は、そんなことを考えて音楽を聞いたことなかったです。ただ、みんなが聞いていて、それを聞いてみていいなって思うから聞くようになったりします」

 「なるほどねー。わたしは同い年の友達みんなが聞いてる音楽は、あまり聞かなかったな。小さい頃から本読むのが好きで、いつも音楽聞きながら読書してたことが関係あるかも。ほら、日本語聞きながら日本語読むのって大変でしょ? 好きで好きでっていう歌が流れているのに、父親を殺して自分の国から逃亡する子どもの話なんて読んでたら混乱するでしょ? なんていえばいいのかな。焼酎を焼酎で割って飲むような。んー、違うかな。ごめん、うまい例えが見つからない」

 「焼酎を焼酎で割るって大混乱ですね。二日酔い間違いなしって感じで。言いたいことは分かりました。凄く。それにしても、そんな話あるんですか?」

 「子どもの話?」

 「そうです」

 「あるある。色々あるんだよ。暇があったら今度読んでみて」

 「そうします。あの、ところで聞きたいことがあるんですけど」

 「なに?」理子の大きな目が僕の目をしっかりと見つめた。

 「なんで僕と飲もうって思ったんですか?」

 「んー、声掛けてくれたから。わたしは話し相手が欲しかったの」

 「話し相手ですか」

 「そう、ひとりでいつも飲んでたんだけど、たまには誰かと飲みたいって思って」

 「職場の人と飲んだりしないんですか?」

 「大抵の飲み会は断ってるかな。つまんないから。同じような話題で同じような愚痴と同じようなお世辞が蔓延してるの。その光景を見た新人の女の子も最初はどぎまぎしてて戸惑っているんだけど、半年もしたら率先してその和の中にいるんだよ。注ぎたくないお酒ついで多少のセクハラも我慢して笑い過ごして、なんだか心の中にウイルスが蔓延していくみたいじゃない? だったら知らない人と飲んだ方が楽しそうじゃない?」

 「まあそうですけど」

 「大人には色々あるの。でもわたしはその色々をなるべく避けて生きていきたいの。でも、話し相手は欲しいじゃない? だから一緒に飲もうって誘ってみたの。そしたら簡単についてきちゃった」理子はケラケラと笑った。

 僕はそれを見て、自分を少し恥ずかしく思った。それでも、この人に巻き込まれるんだったらまあいいかと思えた。何より話しているのが楽しかった。

 「それにね」理子は言った。「純粋そうだったから。まだ、変な色に染まってないというか。優しそうだし」

 「そう見えますか?」

 「見える」

 「あんまり優しくもないですよ。ところで、話し相手なんてSNSで探すか、それかSNSで何か発信すればいいじゃないですか。そういうのはやらないんですか?」

 「わたしは苦手なんだ。そういうの。顔と顔を合わせてじゃないとうまく伝えられない。SNSは仮面被って言いたいこと言ってるみたいで怖いの。SNSで人と会うのとかは想像できないし」

 「そういう考え方もあるんですね。僕は割と抵抗ないですよ。SNSにもSNSで知り合った人に会うことも」

 「そうなの?」

 「はい。前の彼女もSNSで知り合ったんで」

 「え、そうなの?」

 「そうです。半年で振られましたけどね」

 「あらー、それは悲しいね」

 「六本木の美術館でアンディー・ウォーホルの展覧会があったんです。その後にカフェでお茶しているときに振られました」

 「美術館デートなんて素敵なのに」

 「あなたはたくさんあるトマト缶のうちのひとつにしか思えないって言って出て行ったんですよ。酷くないですか?」

 「それは酷いね。そんな女と別れてよかったよ」

 「そうですよね。今思うとそう思います。当時は、悲しくて悲しくて立ち直れないなって思ってました。六本木までお洒落してきて何してるんだろうって」

 「そういう時もある。色々あるね」

 「まったくそうですね」

 僕と理子は気がつけばお互いのことを自然と話せるようになっていた。僕は緊張が解け、少しずつリラックスしていった。アルコールが身体に巡り、昨日までの寝不足が相まって睡魔に襲われ、眠りに落ちていた。目が覚めると部屋の明かりは豆電球だけになり、隣にいたはずの理子はいなくなっていた。テーブルの上に置いてあったビールの空き缶や皿は片付けられていた。ぼんやりとした意識の中で周りを見渡した。そこに人の気配はなかった。理子は別の部屋で寝ているのだろうか。僕は立ち上がり、本棚の前に向かった。ずらりと並んだ書籍の中に先ほど理子が言っていた本が混じっているはずだった。父親を殺して国から逃れる子どもの話だ。タイトルも作者も聞いていなかった。ただ、それでも見つけられるかもしれないと思い、僕は本のタイトルを眺めた。一冊の本が僕の目に留まった。『空気男に愛を』というタイトルだった。手に取ると、それが絵本であることが分かった。読み古されているようで、本の角は潰れていて、表紙には傷がついていた。僕は、その本を開いてみることにした。

この記事が参加している募集

私の作品紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?