論文を書くことからみる,文を書くということ。
文章を書くのは,作文,なんて言って,雑文,散文,創作文…などといろいろな文章がありますね。僕が今書いている文章は多分コラムと言うか雑文なんだと思います。
学生の方は論文を書く人もいらっしゃいます。レポートの書き方,から入って,やがて研究をまとめた論文を書くわけです。専攻によりいろいろだとおもうのですが,だいたい,事実を書きましょう,自分の考えをいれてはいけない,根拠を明示しましょう,など,べからず集があって,その上で,限られた範囲の文章を書くことで真実に近づこうとするわけです。
しかし,真実とはなんでしょうね。Factとか言ったりするでしょうか。最近僕は共有現実なる言葉を見ました。共有現実。すごく哲学的です。
共有現実は共有していない現実をその言葉の外に含んでいますよね。個別現実とでも言いましょうか。でも,多分認識される現実のことだとは思うんですが。つまり認識。自分が見ている事。
こんなことを考えていると,主観と客観と言い直すことも出来るかなあ,とか思ったりするわけです。そう,そういえば論文は客観的に書くものでした。客観的文章とは,共有現実に現れる真実なのでしょうか。
このようにして,論文は共有できることばを紡ぎ,真実へと,みんながわかる文章へと近づいていくわけです。
わかる,なんてまた哲学的なんですが。でも,文章には役割があり,わかるだけではない文章を,そこに含んでいるように思えますね。それは,思いだったり,気持ちだったり,そして詩であったりするのかもしれません。
まちがいや,せいかい,ではなくて,なにをあらわすのか,その目的により文章は変化していく,そんな気持ちが論文にはあらわれているなあ,なんて思ったりしたわけです。
文章はさまざまに「たのしめて」,そして「あらわされるもの」なんだ,なんて話で今回は締めくくりたいと思います。
つまり。まちがいなんて,ない。そう思ったりしました。
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