安部公房『砂の女』を読んでみた。

みなさん、こんにちは。りょうです。
今日は、私にとって2作目になる、安部公房の作品『砂の女』の考察です。

 『砂の女』は、1962年(昭和37年)6月に発行され、それまであまり一般の読者には知られていなかった作家安部公房の名を一気に世に知らしめた作品です。今では20数か国語にも翻訳されるほど(英訳はThe Woman in the Dunes)、世界的な20世紀文学の古典としての位置を占めています。

あらすじ

教員の男が、休暇をとって砂漠へ昆虫採集に出かける。目当てはハンミョウ属の新種で、それを発見して世間から認知されたいと望んでいる。彼が砂漠で紹介してもらった宿は砂穴の底にあるぼろい一軒家で、縄でできた梯子を下りたところにある。男はその日泊まるだけのつもりだったが、砂穴に住む女と部落の人間とがグルで、縄梯子を取り外して逃げられなくなってしまった。男は、あの手この手を尽くして脱走しようと試みるも、ついに失敗に終わる。妻が失踪届を出すも、男はその後帰らず、7年が経って正式に失踪者となった。

 相変わらずの公房節、とでもいいましょうか(笑)
もちろん、本作には明確なテーマが据えられています。それは、「自由」です。

安部公房が描いた二つの自由

 『砂の女』で安部公房は、二つの自由の関係を観察しようとしました。二つの自由とは、①鳥のように飛び立ちたいと願う自由、②巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由、の二つだといいます。

「鳥のように、飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由もある。飛砂におそわれ、埋もれていく、ある貧しい海辺の村にとらえられた一人の男が、村の女と、砂掻きの仕事から、いかにして脱出をなしえたか...色も、匂いもない、砂との闘いを通じて、その二つの自由の関係を追及してみたのが、この作品である。砂を舐めてみなければ、おそらく希望の味も分るまい。」

単行本版『砂の女』の函より

 ①の自由とは、今ある状況から解放されたいと願う自由です。仕事で同僚との関係に悩まされたり、恋人や家庭での不和に悩まされたり、毎月税金の支払いがあったり…。ある社会集団に帰属することで、私たちは様々な束縛を受けます。そういった手かせ・足かせから解き放たれて、大空に羽ばたいていくようなイメージを抱く自由が、この一つ目の自由です。

 一方②の自由とは、一カ所にとどまれる自由です。移動せずとも、命が保障されている状態で、たとえ理不尽な要求を受けようとも、その場にいることを選択できる自由ともいえるでしょうか。本作では、砂穴に住む女が、この自由を体現しています。

 この自由は、生存だけが保障されている、と考えることもできます。女は「なんのために生きるか?」、といった「人生の目的」みたいなものを持っていません。そこにはただ、動物や虫のように、生きるための生命があるだけ。不自由なように見えますが、それ以上の何か(たとえば、名声を得て世に名をとどろかせるなど)を人生に期待していないわけです。砂掻きしなければ生きていけないけれども、それさえすれば生きていくことはできる。必要最低限の義務をこなしていれば、生命の危機には見舞われない生き方というのは、ある意味さっぱりしていて強い生き方に見えます。

 男は①の自由を求めて砂漠へ昆虫採集に出かけます。今の暮らしや職場への不満が、男の解放されたい自由への欲望を触発したのです。

「あまりにも不当だし、あまりにも奇怪だ。だからと言って、スコップをなげだして来たことで、自分を責める必要もないだろう。そこまで義務を負ういわれはない。そうではなくても、負わなければならない義務は、すでにあり余るほどなのだ。こうして、砂と昆虫にひかれてやって来たのも、結局はそうした義務のわずらわしさと無為から、ほんのいっとき逃れるためにほかならなかったのだから…」

『砂の女』p.48

 しかし、逃げた先の砂漠では、お目当ての新種を見つけることができず、不幸にも砂穴に閉じ込められてしまいます。彼は砂穴の女性の、部落に言われるがままに砂掻きをし、ぼろ屋敷でなんとか生き延びている姿を、明らかに理不尽で窮屈な生だとみなします。自分はそうなりたくない!という強い気持ちから、あの手この手で抵抗し、なんとか逃げだそうと目論んでいる。明確な、二つの自由の対立、ぶつかり合いが描かれます。

 そして終盤、ついに逃亡を図り、砂穴から脱出することに成功します。序盤は順調でしたが、結局、砂漠の蟻地獄のようなところで半身が砂に呑み込まれてしまい、降参して部落の人に助けを求めます。自分らしく自由に生きることをずっと望んでいた男。その男の発言は非常に象徴的です。

「『助けてくれえ!』
きまり文句...そう、きまり文句で、結構...死にぎわに、個性なんぞが、何んの役に立つ。型で抜いた駄菓子の生き方でいいから、とにかく生きたいんだ!」

『砂の女』p.223

 男が自己実現のための生をあきらめ、部落のなかで生きていくこと、つまり女と同じような生き方を受け入れることにした諦念みたいなものが、はっきりと読み取れます。男は、しがみつく自由に妥協してしまったのでしょうか。

愛郷精神とは何か

 男の生の自由を制限し、対峙しているのが、部落に浸透する愛郷精神。読み解くうえで、重要なキーワードになります。

 これは、自分たちの生存を最優先する生き方を象徴しています。視座は低く、他人がどうなろうが知らない。男が、女を通じて見た部落の顔。ただ、目の前の生を生き抜くことにだけ関心がある状態です。だから、部落の愛郷精神というのも、自分たちがよければそれでいい、といった感じです。

 男としてはもちろん、現代文明の洗礼を受けており、知識や教養も備えているわけですから、そんなミクロで狭量な低い視座は認められないわけです。そこにプライドがあって、そうはなりたくないと望んでいる。だから、なんとしても砂穴での生活に甘んじるわけにはいかないんだ!という強い気迫が、感じられます。

 しかし、それも次第に薄れていく。女と交わることへの純粋な欲望と理性による抑制のせめぎあいに始まり、水を絶たれることへの恐れと砂穴での生活に順応することへの反発。しまいには、逃亡に失敗して部落の人に降参してしまう。失踪届が出されても彼が帰らなかったということは、彼は最終的に砂漠での生活を受け入れたのだろうと推察できます(溜水装置の開発のことを話したい、という彼の欲望も証拠)。

砂が象徴するもの

 砂とは、流動するもので、決まった形を持ちません。言い換えれば、同じ形を保ち続けることはせず、常に流れていて変化し続けるものです。

「砂ってやつは。こんなふうに、年中動きまわっているんだ...その、流動するってところが、砂の生命なんだな...絶対に一ヵ所にとどまってなんかいやしない...水の中だって、空気の中でだって、自由自在に動きまわっている」

『砂の女』p.32

 そして男は、この砂に魅せられ、砂漠にあこがれを抱いています。

「その、流動する砂のイメージは、彼に言いようのない衝撃と、興奮をあたえた。...年中しがみついていることばかりを強要しつづける、この現実のうっとうしさとくらべて、なんという違いだろう。
たしかに、砂は、生存には適していない。しかし、定着が、生存にとって、絶対不可欠なものかどうか。定着に固執しようとするからこそ、あのいとわしい競争もはじまるのではなかろうか?もし、定着をやめて、砂の流動に身をまかせてしまえば、もはや競争もありえないはずである。現に、砂漠にも花が咲き、虫やけものが住んでいる。強い適応能力を利用して、競争圏外にのがれた生き物たちだ。たとえば、彼のハンミョウ属のように...
流動する砂の姿を心に描きながら、彼はときおり、自分自身が流動しはじめているような錯覚にとらわれさえするのだった。」

『砂の女』p.23

 総合すると、砂が象徴するものとは、「ある一カ所に定住し、さまざまな義務やしがらみから解放されたいと望む人間が漠然とあこがれる対象」でしょう。この村は、過去にも何人かの人を砂穴の生活に閉じ込めています。つまり、都会人が流動する砂にあこがれを抱き、砂漠へ来ることを熟知しているのです。そのことを手玉にとる部落の人間は、まるで彼が探し求めていたハンミョウ属そのもの。都会人は砂の流動のなかに「自由」を見出しあこがれ、そのあこがれをうまく利用して部落の人間は人間をおびき寄せ、閉じ込めるのです。

 砂の流動する性質に、人びとが憧れる「解放」の意味を込めているのだと考えられます。ではこの「解放」とは、果たして本当の自由なのか。反対に、一ヵ所にしがみつく不条理な自由とは、自由ではないのかどうか。自由ではないなら、なぜ人は不条理な自由を求めてしまうのか。

そもそも、自由とは何か…。

これが、安部公房が『砂の女』を通じて描こうとした論点だと思います。

安部公房の考える自由とは何だったか

 最後に、『砂の女』を通じて見えてきた、「自由」の本質について考えます。仁木順平がそうであったように、人間が自由を感じるとき、それは目の前の現実との格闘が生じるときだと言えます。何も感じていないときに、「自由になりたい」という思いは芽生えませんし、快楽を感じているときに、その状態から脱したいと思うこともありません。

 現実ともみ合うなかで、何らか思い通りにならないことが生じてくる。そのときに、その束縛や重圧・責任から解放されたい、という純粋な欲求が「自由」と認識されて噴出する。仁木順平はまさに、日々の暮らしの中で自分を束縛するものからの解放を求めて、砂漠へと飛び出した。

 しかしこれは、表面的な自由でしかありません。自由は危険と隣り合わせで、決して解放を意味しない。砂漠で生存を脅かされたときに男がすがったのは、これまでの自分の生を維持すると同時に拘束してもいた、社会の秩序でした。

「冗談じゃないよ!非常識にも、ほどがある!これじゃまるで、不法監禁じゃないか…立派な犯罪だよ…(中略)あいにくとぼくは、浮浪者なんかじゃない…税金も払っていりゃ、住民登録表だって持っている…いまに、捜索願がだされて、とんだことになってしまうぞ!(中略)新聞社に勤めている友達もいるしね…こいつを社会問題にしてやろうじゃないか…」

『砂の女』p.69~70

それらから逃げてきたのに、逃げた先でそれらの庇護にあずかろうとする男の姿はなんとも悲劇的です。

 仁木順平はしだいに、砂漠での生活のなかで、女や部落の人間の手の内に絡み取られ、不条理な自由を受け入れるようになっていきました。彼は、部落(=社会)の要求を呑んで、それに順応したのです。ここには、男が①の自由を求めながらも、②の自由とぶつかり合うなかで考えを改めていく過程が見えます。部落の要求を呑んで、順応することでその先の選択権を得ようとする過程が。

 そして彼は、生き方を選択できる自由を得ました。女との子どもが出来たことで、縄梯子がまた砂穴にかけられたのです。それは、一晩で回収されてしまうものでも、幻でもありませんでした。これこそ、部落の慣習を受け入れ、その要求に順応した先に得た自由です。

「女が連れ去られても、縄梯子は、そのままになっていた。男は、こわごわ手をのばし、そっと指先でふれてみる。消えてしまわないのを、たしかめてから、ゆっくり登りはじめた。空は黄色くよごれていた。水から上ったように、手足がだるく、重かった。…これが、待ちに待った、縄梯子なのだ…」

『砂の女』p.265

 安部公房は、自由とは、生き方を選択できる状態のことだと考えたのではないでしょうか。男は前の暮らしから結局逃げてしまい、その現実と向き合い働きかけることを放棄した。そんな暮らしからの解放を求めてやってきた砂漠でも、女や部落という束縛を受けることになりました。そして今回もまた、その束縛から逃れようと逃亡を図りましたが、今回は見事に失敗(前回は、砂漠に逃れてきたという意味で成功?)。部落の人に降参する羽目になりました。

 この降参から、彼は徹底的に部落に順応していくことになりました。そして、その順応の結果、彼は部落にて自由を手にしたのです。部落の人から信頼され、生き方を自由に選ぶ自由を与えられました。これは、現実の要求に向き合い、それに真剣に取り組んだからだと言えます。

 依然の暮らしから逃げてきた男からすれば、明らかに異なる生との向き合い方です。自由とは、目の前の現実から逃避することではありません。現実から逃避しようとも、「生」はどこまでも自分につきまとい、死ぬまで続きます。であるならば、本当の自由とは、目の前の現実から逃げずに、ちゃんと向き合うことで獲得していくものでしょう。その彼岸にある解放、ではないのです。その点に、人の陥りやすい自由への憧れと、自由の本質との関係を見出したのだと思います。

おわりに

 私にとっては2作目になる安部公房の作品。一読ではよく分からないところも含め、徐々に味を占めてきています。どこにそんなに惹かれるかといえば、人間存在の不条理が、一見フィクションに見える物語のなかに、とてもリアルに描かれているところだと言えます。生々しい現実が、いやおうなしに突き付けられる。まるで、密度を濃くした人生を、俯瞰的に歩むような感じがします。彼の小説を読むことは、生きることそのものだな、と。

 理不尽で不条理な生をしっかりと見つめ、そこから目をそらさないこと。逃げずに自分の足で歩き続ける覚悟を持て!そんな彼の思いが、ひしひしと伝わってくるんです。


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