おいしいごはんが食べられますように
話題の芥川賞受賞作『おいしいごはんが食べられますように』を読みました。以下、ネタバレ注意。
最後の最後まで気が休まることなく、終始緊張しっぱなし。でも、ハラハラドキドキとはちがう。穏やかではない人間関係と、その関係から生まれる物語とが読者をひきつけてやまない。
「心のざわつきが止まらない。今年最高に不穏な傑作職場小説。」帯の言葉は裏切らなかった。
(あらすじ)
職場でそれなりにうまくやっている二谷は、体は丈夫でないが、気配りができてみんなに守られる存在、芦川と交際している。がんばり屋の押尾は、そんな弱い芦川が嫌い。三角関係は、押尾が二谷を誘う形で「芦川にいじわるをする」方向に進んでいく。二谷と芦川の交際の行方は?押尾は、芦川にどんないじわるをする?そして、二谷はそれにどう向き合うのか?
と、こんな不穏な雰囲気のまま物語は進んでいきます。
押尾と芦川はかなり人物としての輪郭が鮮明で、特徴がつかみやすいけれど、二谷はどうも考えていることが分からない。同性なのに、分からない。
読者に伝えたい主張みたいなもの、言い換えれば、明確な答えみたいなものが想定されていなくて、とても楽しい。読み手はただ、高瀬さんが切り取った世界を、言葉を通して生きてみる。自由気ままに、「自分は押尾さんっぽい」とか、「あの人は芦川さんっぽいな」とか言える。実際、わたしはこの中だと押尾さんっぽくて、(なぜか分からないけど)ちょっと傷ついた。(笑)
筆者が調理し、お皿に載せた料理をわたしたちが味わう。友人や同僚と一緒にかもしれないし、一人でかもしれない。好みが違っても、みんなで「おいしい」と言わなければならないかもしれない。
仕事と食事、人間関係って、なんだかすごく似ている。どちらも、生きるためには削れないことで、それなのに決まった正解がない。だから人それぞれ、好みだったり、優先したいこと(価値観ってやつ)だったりが異なってくる。その違いのあいだに、争いが生まれ、不和が生じる。
…それって、別に悪いことじゃない。
と、本書を読んで改めてそう感じた。正解のない、共通の経験をしているのだから、人の数だけ考え方や向き合い方があってしかるべきだと思う。本として追体験してみると、自分がいかに論争を避けようとしてしまうか?を痛感した。特に、押尾の最後の言葉なんかは、清々しささえ感じる。すべて吹っ切れて、金輪際関わることのないだろう人間関係に終止符を打つように言い放つ言葉たちは、だれしも一度は考えたことだったりしないだろうか?
いまだに分からないこともたくさんある。
Q1:押尾さんが二谷さんに対して「一緒に芦川さんにいじわるしませんか?」ってふっかけたときに、「いいね」って返した彼は何を考えていたのだろう?
→まじでわからない。もし本音だったら、二谷は芦川のことを女としては好きだけど、関わるうえでウザいな~ってところももちろんあって、そのストレスを発散したいと考えていたのかもしれない。あるいは、押尾と責任を共有するかたちで、いわば押尾に責任を押し付けつつイライラを解消しようとしているって可能性もある。本音じゃなかったら、流れに任されるお人よしって感じになる。本当にわからない(笑)
Q2:二谷さんはいったい何を憎んでいるのだろう?
彼は、食事に生活が支配されることが嫌らしい。
食が生活の中心(で当たり前)みたいな感じが嫌なのかも?
後半でも、「男なんだから、しっかり食べなさい。立派になれないよ、っておせっかいを焼かれること」がずっと嫌だったみたいなこと書いているし。すると、体調不良だったりで定時で必ず帰るくせに、食事にはこだわって追及してくる芦川にストレスが溜まってるのだと思う。
仕事も食事も、向き合い方に正解なんてないのに、食事のときだけは「生きるために必要だから、好きとか嫌いとかの外にあるもの」といって強要してくるのは確かにウザい。自分が言われる本人だったら、納得がいかない。
Q3:二谷さんは芦川さんのこと、本当はどう思っているんだろう?本当に好きなのだろうか?また、押尾さんのことはどう思っているんだろう?
同僚としては、押尾さんとのほうが仲がいいはず。でも、恋人としての関係、男と女の関係だと、芦川さんのほうが抜けるんだと思う。
嘘も交えたやりとりをしているあたり、二谷と押尾の本音が分からない。芦川だけは、なぜかよーくわかる。変に素直というか、ド直球というか、天然というか。人の行為を素直に受けることができて、純粋無垢な感じで、嘘をつけなそうなタイプ。悪く言えば、臨機応変に対応できない感じ。
それだけはなぜか、よくわかる。
それではまた。
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