古本屋になりたい:4 北彰介「なんげえはなしっこしかへがな」
子どもの頃バレエを習っていたが、私は極端な運動音痴で、一つも上達しなかった。5歳から中学1年まで続けて、人より少し体が柔らかいかな、というくらいだ。
母によると、私の姿勢が悪かったので、矯正のためにバレエを習わせたのだそうだ。
バレエ教室は、家からバスで5分ほどのところにある公民館の会議室で、週に1回、土曜日に開かれていた。
公民館には、市役所の支所のほか、体育館、習い事や会議に使える多目的室がいくつかあった。
バレエ教室に使われていた部屋は、床にある10センチ四方の蓋を開けると穴が空いていて、バーレッスン用の金属のポールが立てられるようになっていた。
初めからバレエのレッスンができるように作られている部屋があるというのが、子ども心に不思議だったことを思い出す。
何より、そこには市立図書館の分室があった。
バレエは上達しなかったが、バレエ教室のおかげで定期的に図書館に行けるのは、私にとってなによりの喜びだった。
いつもレッスンの少し前に着くようにして、本を選んだ。
大人になって、甥っ子たちに付き合って他県の図書館に行ったとき、一度にたくさん借りられることに驚いた。
20冊ほど借りて、それぞれのリュックと自転車のカゴに本を振り分け、フラフラになりながら持ち帰った。
30冊まで、3週間借りられるということだった。
時代だけでなく、自治体にもよるのだろうか、私が利用していた図書館では、一度に借りられるのは5、6冊だったように思う。教室がある限り毎週来られるので、それくらい借りられれば十分だった。
私の家にはそれほど本がなかった。
うさこちゃんなどの絵本が数冊、いとこの家から譲られたキュリー夫人の伝記、小学館の図鑑。
キュリー夫人の伝記にハマった私は、図書館で偉人伝ばかりを借りるようになった。小学校の低学年の頃だったと思う。
図書館の一番奥の、一段高くなったじゅうたん敷きのスペースが、小さい子ども向けの絵本や簡単な読み物のコーナーだったが、私は絵本なんて赤ちゃんが読むものだと、同学年や一つ二つ上の女の子たちを横目に見ながら、偉人伝を端から順に読んでいった。
モーツァルト、バッハ、ベートーベン。
シートン、シュバイツァー、野口英世。
源義経、徳川家康、武田信玄。
持っているのとは違う、キュリー夫人。
幼少期からの描写があって、死に方までしっかり描かれているものが好きだった。最期がぼやかされていると、子どもには読ませたくない酷い殺され方でもしたのだろうか、と想像した。
図書館には、難易度別に3種類くらいの伝記シリーズがあって、一番難しいものは、青い表紙の、文章が二段組になった分厚いものだった。挿絵もなく、読んでいると大人になったような気がしたが、この頃は早く読むことばかりに集中していたのか、あまり内容を覚えていない。
特にレーニンが難しくて、ほとんど飛ばし読みした記憶がある。
遺体を防腐処理して見学できるようになっていたということが、小学生の頭では理解できず、後になって映像で見た時にようやく腑に落ちた。
絵本を軽く見ていた私だったが、気になって何度も手に取ったものが1冊あった。
「なんげえはなしっこしかへがな」
呪文のような響きだが、絵本の題名だ。東北の言葉で、長い話でもしようかね、といったところだろうか。
(「なんげえはなしっこしかへがな」北彰介/文、太田大八/絵 銀河社)
子どもに語り聞かせるような文体で、気が遠くなるような、果てのない話が語られる。
長くて長くて、いつまで経ってもズルズルズルズル、尻尾が穴から出ないへび。
交互に鳴き比べをして、ミン、ミン、ミン、デデッポッポ、いまもまだ鳴いているという、せみとやまばと。
同じ言葉、同じ文が繰り返されるのは、お話して!と何度もせがまれたおばあさんが、話を長くして子どもが飽きるように仕向けたのだとか。
いちばん最後の話、からだがどんどん伸びていくやまんばの絵が怖くて、直視しないように気をつけながら、結局何度も繰り返し読んだ。
6年生の時に、生徒が増えたためか、バレエ教室の場所が変更になった。私の家がある町内の公民館で、徒歩で通えるのは楽だが、図書館がない。
残念ではあったが、その頃にはお年玉をとっておいて、自分で本を買う機会も増えていたので、毎週図書館に通えなくても問題はなかった。
小学校の図書室は、所蔵されている本の数が少なく物足りなかった。
「なんげえはなしっこしかへがな」も絵本の棚にあるのを知っていたが、絵本を手に取るのが恥ずかしい年になっていた。
中学に入ると部活と塾で忙しくなり、バレエはやめてしまった。
「なんげえはなしっこしかはがな」は、数年前にネットの古書店で買って、今は私の本棚にある。
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