古本屋になりたい:41 夏祭り①
小学四年生の夏休みの終わり頃、盆踊りの夜。
母と会場のグラウンドへ向かう途中、弟の友達のお母さんと出くわし、母たちはそのまま立ち話を始めた。
わたしは付かず離れずの位置で手持ち無沙汰にうろうろし、視界に入るようにしては退屈をアピールしていたのだが、話の内容は耳に入っていなかった。
青少年グラウンド、縮めてグランドと簡単に呼ばれていた広場はすぐそこで、わたしは母たちを置いてひとりで先に行っても良かった。弟と妹は1時間も前にグランドに行っていたし、大音量の音頭だけでなく、たくさんの人が集まっているらしいざわめきがもう聞こえていた。
「お姉ちゃんが本貸してくれるって。」
急に弟の友達のお母さんの声が聞こえて、自分が話しかけられていると気づいた。
「〇〇くんのお姉ちゃんが本貸してくれるって。」
と、母が繰り返す。
私は少しためらった。本を読むのは誰よりも好きだけれど、だからこそ、気に入らない本は読みたくない。
小さい子向きの本とか貸されても、困っちゃうねんな。
「うちのお姉ちゃん、読書家やで。面白いの読んでると思うで。」
おばちゃんがそう勧めてくるので、わたしは仕方なしにうなずいた。
そのまま弟の友達の家に行き、玄関先で待っていると、お姉ちゃんが二階から降りて来た。メガネをかけてふっくらした頬をした、色白の女の子で、確か六年生だったと思う。お姉ちゃんは物静かで、わたしもまだ愛想を身につけておらず、まったく会話は弾まなかった。
十冊ほどまとめて本を借り、わたしはいったん本を置きに家に戻って、それから盆踊りに向かった。
*
借りた本は、
ナルニア国物語を全部。
クレヨン王国七つの森。
サーカス物語。
今このラインナップを改めて見てみると、ナルニアを全部というところに、お姉ちゃんの意気込みを感じる。
夏休みの物語である「クレヨン王国七つの森」。
ミヒャエル・エンデの「サーカス物語」。
わたしはそれまで、ファンタジーというものをあまり読んだことがなかった。
幼児向けの絵本を卒業したあと、図鑑や伝記に進み、そのあと父の通勤用の本棚から西村京太郎などのミステリーを読み始めていて、読み応えのある子どもの読み物に触れる機会を逃していた。
期待せずに借りた本をわたしはあっという間に読み終えて、数日後お姉ちゃんに本を返しに行ったついでに新たに何冊か借りて来た。
その時、たぶんおとなしいお姉ちゃんからの申し出ではなかったと思うが、本屋さん巡りに連れて行ってもらう約束をした。
夏休みの最後だったか二学期の初めだったか、わたしはお姉ちゃんと連れ立って、古本屋さんと新刊本屋さんを自転車でいくつか巡ったのだが、市内のどこを走ったのか、どんな本屋さんだったのか全く思い出せない。
高校生になった頃、あの時行った古本屋さんはどこだったのだろうと、市内のあちこちを思い浮かべて思い出そうとした。しかし、小学生の時よりも行動範囲が広がってお店や道をイメージできるようになったはずなのに、どのあたりをうろうろしたのかはやはり何も思い出せなかった。
家も近いし、読書の趣味は合う。それどころかわたしの方が色々教えてもらえるはずで、良い友だちになれそうなわたしたちだったが、お姉ちゃんは人見知り(盆踊りに顔を出さないくらい)、わたしもまだ年上の人と仲良くする術を知らず、お姉ちゃんが中学に上がると自然と交流は途絶えてしまった。
しかし、小学四年生の盆踊りの夜がわたしにとって特別なものになったことは間違いない。
*
コロナ禍を機に、実家の近くに戻って来た。マンション暮らしが長くご近所の交流はないに等しかったが、団地ではそうはいかない。
最初の一年は様子見、二年目は楽だと噂の自治会防犯部の役を引き受けた。月一の会議と、雨が降ったり暑かったり寒かったりするとあっさり「やめとこっか」となる会議の後のパトロールくらいしか決まった仕事はなく、うわさに違わず楽だった。
三年目、自治会の事務局という名の書記係をすることにしたのは、この団地の自治会長さんが30代の若い人で、ここ数年続けて会長職を引き受けてくれており、この人がいるうちに一度他の役もしておいた方が良さそうだ、と思ったからだ。
団地内は高齢化が進んでいて、会議の議事録をとるにもパソコンを使えない人がいるのは仕方がないのだが、わたしはパソコンを少し使えるというだけで喜ばれ、面映かった。
事務局ともなれば、昨年は知らぬふりをしてやり過ごしてしまったいくつかの行事に参加しないわけにはいかない。
五月には運動が嫌いなのに町内の運動会に参加し、競技に参加する人を募る係などもし、打ち上げにも出た。
そして、つい先日の夏祭り。
連日、熱中症で搬送された人や亡くなった人のニュースが流れている。自分の体調管理さえ危ぶまれる暑さが続いている。
高齢の人が多いこの町内、夏祭りなんかして大丈夫か?と本気で心配してしまう。
わたしが子どもの頃住んでいたのはこの町の二丁目、今住んでいるのは一丁目。ほかに三丁目と、後からできたいくつかの家のグループがあり、戸数はわたしが子どもの頃より増えている。
しかし、子どもたちは成長して町を出て、大人たちはそのまま町に残った。空き家の数こそほとんどないが、何しろ若い世代が少ない。わたしの頃、各学年三クラスあった小学校も、今は一クラスだという。小学校の前、道路を挟んで向かいにあった幼稚園も、クラスが減って教室が空いた小学校の中に移転した。
子どもがいないから、その親たちがいない。
夏祭りの準備は、自分の両親くらいの世代が頑張るのである。みんな、おじいちゃんおばあちゃんだ。
だいたいの様子は五月の運動会で見て来たから、これはわたしが参加を拒否するわけにはいかないと思った。いやいやというわけではないけれど、めちゃめちゃ乗り気ではない。何より暑すぎる。しかし、おじいちゃんおばあちゃんに倒れられたくない。見慣れた顔も増えている。
わたしが子どもの頃の夏祭りと、一番変わったことは、会場が変更されたことだ。
グランドでの盆踊りは、二丁目の盆踊りだった。あの頃、子どもも大人もたくさんいて、体の動くお父さんたちがたくさんいた。二丁目だけで、準備も賑やかさも間に合っていた。もちろん一丁目の人も三丁目の人も遊びに来ていたけれど、運営は二丁目だけで賄えたのだ。
今の夏祭りは、小学校の運動場で行われる。全町合同だ。
今年は三十回の記念大会で、花火が例年より豪華だそうだ。昔は花火はあったかな?覚えていないくらいだからなかったのだろうか。今ではすっかり、花火はこの町の夏祭りの名物になったらしい。
昨年はコロナ禍明けで夏祭りそのものが二年ぶりの開催、今年は再開されて二回めだ。
小学校に会場を移し、合同の夏祭りになってからが三十回目。
豪華になったとも言える。
しかし、三十年前から、町の規模は夏祭りをひとまとめにした方が効率が良いくらいには縮み始めていたのではないだろうか。
四十年近く前、青少年グラウンドで二丁目主催の盆踊り大会をしていた頃は、合同で開催するには小学校の運動場では広さが足りなかったはずだからだ。
夏祭り②へ続く
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