見出し画像

古本屋になりたい:6 マルシャーク「森は生きている」後編

 →前編から続き

 私たちの学校では、音楽の授業は4年生から専任の先生が担当になるが、3年生まではクラス担任が教えてくれた。
 S先生は、指定の音楽の教科書を使わなかった。小学校の音楽指導の別冊的な教本があるらしく、その中から、先生は好きな歌を色々印刷してクラスに配った。

 宮沢賢治の「ポランの広場」をモチーフにした「伝説の広場の歌」や、陽気な紳士うさぎが登場する「ちびすけうさぎのカルロス・ロサーノ」。
 「シャローム」は、後になって讃美歌に同じメロディの曲があると知った。
 「星めぐりの歌」も教えてくれたが、宮沢賢治が作曲したものとは違うメロディだった。

 中でも私がいちばん好きだったのは、「森は生きている」だった。
 林光作曲の同名オペラを、子どもが歌えるように優しくしてあったのだと思う。

 メインテーマの「森は生きている」、「尾みじか」、「十二月の歌」、「指輪の呪文の歌」、「一瞬のいまを」、「黄金の太陽」…。

 S先生からストーリーの説明があったかどうか覚えていない。いつも楽譜を配られて、先生のあまり上手くないオルガンに合わせてただひたすら声を出すだけで、上手に歌うことを要求されることもなかった。先生の声も、ガラガラだった。

 ロシアの作家マルシャーク原作の児童文学が元になっているとはっきり知ったのは、岩波少年文庫の「ナルニア国物語」を読んでいて、後ろのページの既刊を紹介している中に「森は生きている」の題名を見つけたからだ。
 S先生から配られた楽譜の、作曲:林光と書かれたその上に、作詞か原案としてマルシャークの名は見覚えがあった。

 岩波少年文庫の「森は生きている」を私はすぐには読まなかった。
 合唱曲として既に親しんでいる「森は生きている」と、有名な児童文学としての「森は生きている」に、落差みたいなものがあったら嫌だな、と漠然と思ったのだ。

 何年も経ってから、私は「森は生きている」を読んだ。
 そこでようやく、何も考えずに歌っていた歌の並びがようやく理解できた。ストーリーそのものも、その時ちゃんと知ったのだ。

 貧しい女の子が、王女様に無理を言われて、雪に閉ざされた森でマツユキソウを探すという、御伽話のようなストーリーだ。
 十二月の精が女の子を助けてくれる。指輪や呪文も登場して、オペラに相応しい華やかな場面も想像できる。 

 最初に物語を読ませるとかオペラの映像を見せてくれたら良かったのに、と思う。
 S先生が言った言葉で覚えているのは、尾みじかって言うのは尾が短いということで、リスとケンカみたいにして遊んでるウサギだ、というくらいだった。
 尾みじかと呼ばれるウサギが、物語の中でどんな役割をするのか、よくわからなかった。

 今思えば、S先生はあまりおしゃべりが上手ではなくて、いつも説明不足だった。
 怒りっぽいを通り越してキレやすいのも、子どもたちに自分の理想が伝わらないからイラついていたのかもしれない。

 確かに、S先生は厄介だった。あまりにもダメなところがありすぎて、私の方が大人にならないといけないような気がしたほどだ。
 ダメな子ほどかわいいとかいうけれど、自分が大人の気持ちになってみても、S先生は全然かわいくなかった。

 それでも、反省して普通の先生みたいになったりしたら、珍しい音楽の授業もなくなってつまらないだろうなと思った。
 他のクラスの子が知らない歌を習っているのは面白かった。他の科目なら、教科書に載っていないことばかり教えていることが問題になったかもしれない。音楽だからよかったのだ。

 4年生になって、音楽の授業が専任の先生に任されるようになると、私は、ほっとするような寂しいような複雑な気持ちになった。

 しかし、ほっとしたのも束の間、S先生は、張り切って舞踊クラブを立ち上げた。3年生の時の運動会で、荒馬という、裸足で踊る土着の民族舞踊を企画したのがS先生だったが、そのような舞踊をするクラブだという。

 舞踊クラブを作りました、誰か入ってくれますか!?

 S先生は、期待に満ちた目でクラスを見渡した。

 何でそんなに期待できるのか、さっぱり分からなかった。みんなちょっとでもS先生から離れたい、怒られたくないと思っているので、誰も手を挙げない。
 先生はみるみるうちに目に涙を溜めて、今にも泣き出しそうになった。 

 めんどくさい、と思った私は、じゃあ私、入ります、と手を挙げた。
 かわいそうだと思ったとか、正義感からではない。私の方が大人じゃないかと思ったから手をあげたのだ。運動神経は悪いが、ずっとバレエを習っているし、先生が立ち上げたのがバスケットボール部なら無理でも、踊りなら何とかなると思った。去年の荒馬も嫌いじゃなかった。

 S先生の顔がパァッと明るくなったのを見て、何人かがパラパラと手を挙げて、一応クラブとして成立する人数になった。

 週に1回、6時間目のクラブの時間に、校舎の玄関の少し広いところで、裸足になってコキリコ節やソーラン節の練習をした。
 この年、4年生は運動会でソーラン節を踊ったが、練習ではクラブのメンバーがちょっとしたリーダー的存在になった。

 しかし、元々の予定だったのか、先生が飽きてしまったのか、一年でそのクラブは立ち消えになった。

 練習していた踊りを、運動会以外の何かの機会で発表したりするのかなと思っていたが、そんな機会は訪れなかった。

 5年生になって、新しい担任の先生の新しいクラスになった私は、今度こそ解放された気分だったが、意外とS先生と仲良くなっていて、4年生の時のクラスの何人かと、一人暮らしの先生の家に一度遊びに行った。

 先生の家は、私がバレエを習っていた図書館のある公民館の裏にあった。
 先生は私たちにお菓子を振る舞ってくれて、楽しくおしゃべりをした。

 私は、S先生が配った楽譜を失くしてしまったが、高校生の時、同級生がまだ持っているというのでコピーさせてもらった。
 クリアファイルに入れて、今もどこかにある。

 先生が夏休みにドイツに行って、クラス全員に送ってくれたエアメールは、絵葉書の写真がきれいだったので、ずっと飾っていた。

 S先生は良い先生ではなかったが、先生方にもらったもので今も残しているのは、S先生からもらったものだけだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?