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古本屋になりたい:2 バシャマ

 「おばあちゃん家に行く」が、田舎に行く、と同義の人はどれくらいいるのだろうか。
 小説でも映画でもアニメでも、主人公は夏休みに田舎の祖母(祖父でも良いのだが、私の祖父は早くに亡くなっていて顔を知らないので、仮に祖母としておく)の家に遊びに行く。ふだん都会に暮らすその子は、母あるいは父が幼い頃を過ごした家で、夏休みのある期間を過ごす。古びた祖母の家で得難い経験をして、その思い出を絵日記にしたためる。
 小さい頃、私も「おばあちゃんの田舎」に行きたいと憧れた。

 父方の祖母の家は、大阪市内にあった。一番の繁華街である梅田から地下鉄で一駅、公園に面した古い団地に、祖母の家はあった。台所とトイレとお風呂の他に二間だけの、小さな部屋だった。

 大阪南部に住んでいた私たち家族は、車で1時間弱の距離にある祖母の家に、夏休みに限らずよく行った。祖父の月命日に合わせて、ということが多かったように思う。
 よく行くからこそ、毎回それほど長居することはなかったが、お正月なら、もらったお年玉を持って、ぶらぶら歩いて梅田に出ることもあった。

 梅田には、かっぱ横丁という古本屋街がある。街、と言ってしまうにはあまりにも小規模な、まさに横丁という愛称がぴったりな場所だ。阪急電車の高架下に、細い通路を真ん中にして、小さな古本屋が軒を連ねて向かい合っていた。古本というより古文書という方が合うような書物を扱う店もあって、とてもではないが子どもが気軽に入れる雰囲気ではなかった。子ども会の催しでしか古本を買ったことがない私には随分敷居が高かったが、薄暗いお店をなんとなく覗きながらその横丁を通り抜けるのが好きだった。

 ある時、祖母の部屋の窓から公園の向こうを望むと、工事中のビルが見えた。祖母は「新しいビルができるんや。なんか、オクトとか言う名前や。」と教えてくれた。オクトと言えば、祖母のお風呂場で見たことがある、頭の痒い人向けのシャンプーの名前だ。多分違うな、と思いながらも確信が持てないので、そうなんや、とその日はそのままにしておいた。

 しばらくしてそのビルは完成し、大きなニュースにもなった。
 祖母の家に遊びに行くと、祖母は、新しいビルができたで、と教えてくれた。オクトや。
 その頃にはもう私は、そのビルが梅田ロフトだと分かっていたので、ロフトやで、と反対に教えてあげたのだが、祖母はなかなか覚えられず、何年もオクト、オクト、と言っていた。

 ロフトができたのと同じ年には、近くに毎日放送の新社屋も建てられた。てっぺんがふたつの三角形で出来た不思議な形のビルで、ふたつの三角が毎日のMを表しているというのは、祖母ではなくて父が教えてくれたのだったか。
 その頃からなのか、以前からなのかはっきりしないが、祖母の家のテレビは毎日放送が点いていることが多かった。

 当時、あどりぶランド、という番組があって、毎日放送のアナウンサー達が色々な企画を行っていた。遅い時間の放送だったのと、我が家ではABC朝日放送を見る習慣だったので、私はその番組を見たことがない。なぜ知っているかと言えば、祖母の家のテレビ台の中に、あどりぶランドの本があったのだ。

 活字と見れば広告でも電話帳でもかまわず読んでいた私は、当然その本も手に取った。なんとなく見覚えがあるようなないようなアナウンサーたちの写真とプロフィール、番組内で担当しているコーナーの紹介。活字を追っていれば満足なので、登場人物に思い入れがなくてもあまり気にならなかった。他に読むものがないので、祖母の家に行くたびにその本を取り出しては開いていた。

 ずっと後になって祖母が亡くなり、後片付けと称して、私はその団地にしばらく居座っていた。仕事場が近くて便利だったのだ。
 遺品の中にあった書物は、何年ぶんものNHKの婦人百科のテキストと、あどりぶランドの本くらいだった。
 住む人がいなくなった部屋は、原状回復をして大阪市に返さなくてはいけない。祖母がまだ若く、父が10代だった頃に戻すのだ。そんなことができるのか分からなかったけれど。

 随分古く見えた台所の流しも、団地の歴史の中ではごく最近に取り付けられたものなので、バラしてしまわないといけなかった。解体は私の手に負えないので、私はそこで手を引いた。私が祖母の家から持ち出したのは、古い食器をいくつかと、洋服入れに使えそうなプラスチックのボックスくらいのものだ。引き出しには太いマジックペンで、「バシャマ」と書いてあった。パジャマのことだ。

 祖母が亡くなって20年近くが経った今も、変わらずそこに団地はある。近々打ち壊すから、まだ使える流し台も壊してしまうのではないかと思ったりもしたのだが、そうではなかった。   
 向かいの公園もまだあるし、梅田ロフトも毎日放送のビルもまだそこにある。

 おばあちゃんの田舎に行くことはなかったが、おばあちゃんの街中には今もよく行く。
 古本街のかっぱ横丁は、ピカピカに生まれ変わってしまって、結局一度も本を買ったことがないまま、覗いてみることもなくなってしまった。

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