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愛とユーモアあふれる『どっきり花嫁の記』。与謝野晶子の晩年を支えた人によるエッセイ

見出し画像:与謝野晶子は晩年を荻窪で過ごしました。その場所は与謝野公園となっています(東京都杉並区南荻窪)

はじめに

『どっきり花嫁の記』与謝野道子/著、1967年、主婦の友社

図書館で借りたら繰り返し読みたくなり、古本屋で買いました。

本の題字は岡本太郎によるもの

いい作品があったのだなあ。
当時は広く知られたエッセイだったようです。1968年には橋田壽賀子/脚本、若尾文子/主演でドラマ化もされました。

著者の与謝野道子について

与謝野道子(1915-2000)は、与謝野晶子の次男・秀の妻です。
彼女の文章に出てくる「息子の馨(かおる)」は、私たちの記憶にもまだ新しい国会議員の与謝野馨(1938ー2017)です。
馨氏の母上は、こんなに魅力的な文筆家だったのですね。

『どっきり花嫁の記』ストーリー
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与謝野秀とお見合いをした道子は、婚約時から与謝野の家が「普通ではないらしい」ということに気付きました。
彼女は与謝野晶子が授業で習った歌人であることは知っていたものの、実際にその家へ嫁ぐということがあまりピンとこない様子。
婚約の挨拶で対面した義母・晶子へ注がれる道子の観察眼は、かなり正直です。

『どっきり花嫁の記』のタイトルどおり、彼女は結婚生活をいろいろと「どっきり」しながら歩み始めます。
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道子は自身の母を早くに亡くしたため、家事の多くを義母の晶子に教えてもらうのですが、そのやりとりが非常に面白い。
持ち前の性格と若さのためか、ついうっかりミスをしがちな道子さん。思いつくままに受け答えをして、軽く地雷を踏みそうになることもありました。

道子さんは「(地雷部分)…と伺いたかったのですがやめにしました。」などと書いており、彼女のユーモラスな表現がとても楽しいエッセイです。

「全文の中に『はい』『はい』というのがあまりにも多いが、当時の私はご返事しても半信半疑のことが多かった。

『どっきり花嫁の記』 あとがきより

このエッセイは与謝野晶子が亡くなってから25年後に書かれました。

当時20代の彼女は、義母が言うことの真の意味がよく分からず「はい」「はい」とだけ言っていたこともあったそうです。

道子は見たままをとらえ、文章には誇張がまったくなく、その代わりに晶子への遠慮もあまりありません。

おかげで家の内から見た生活者としての与謝野晶子の様子がよく分かり、たまに見せる歌人・晶子の仕事ぶりも読める。これは貴重な記録といえるでしょう。

初めは「どっきり」が多かった道子と晶子のやりとりも、7年間の月日を過ごすうちに、女同士の真心が通い合うようになりました。

道子から見た与謝野晶子の姿

晶子は「個性」「個人」を重視する

義母は美しいもの、豪華なもの、ほんとうのもの、おいしいものなどのすべてが大好きで、美男美女の話をよくされました。それなのに、そのころの私は、美男美女の話は、とても嫌いで、苦手中の苦手でした(略)

義母はさもおもしろそうに「おもしろいでしょう…」と言われ、ご自身も何か楽しそうでした。よくモデルの実生活などを話題にするとき、陰気くさく暴露的に表現したり、スキャンダルめいて誹謗する風潮がありますが、義母の話し方には、そのような感じがまるっきりありませんでした。義母は人間の多面性を等しく受けとめる包容力というか、大きな心をお持ちでしたから、一般では奇人変人としか思われない人に対しても、その人の底にあるものをよみとられておもしろく見られたのだと思われます。

『どっきり花嫁の記』より

こういうのいいよね!晶子って。
私が晶子について好感を抱いていたことを、道子さんの文章が明らかにしてくれました。

与謝野晶子は「自分も相手も『個』である、『個性』を重視して受けとめる」という考えの人でした。ですから第三者を話題にするとき、そこに比較や批判はまったくありません。
美男美女の話題にもやっかみは無用。ただただ楽しそうにするばかりです。

歌人・与謝野晶子の仕事と交流のあった人々

高島屋「着物百選会」

1913年(大正2)、デパートの高島屋は流行色とテーマを決め、全国から染織品を募集してモダンな着物審査する催事「着物百選会」を創設しました。
文化人が顧問となり、歌人・与謝野晶子はそこに名を連ねました。
新色のネーミングや、作品にそえる和歌の創作とコーディネートが晶子の役割です。

「与謝野晶子と百選会」高島屋史料館

文化学院で教鞭を取り、多くの人から慕われる

1921年(大正10)に設立された文化学院。
与謝野寛・晶子夫妻も設立に関わり、晶子は学院で古典を教えました。

学院関係者や教え子たちは晶子を慕い、晩年、荻窪で病床についた晶子のもとには、手足のマッサージをするために通ってくれる人もいました。

アーチ型が美しい文化学院のエントランス。御茶ノ水駅から徒歩5分(千代田区神田駿河台2)

第一歌集『みだれ髪』以来、金尾文淵堂と続いた交流

晶子を世に知らしめた歌集『みだれ髪』(1901年)の出版社は金尾文淵堂といい、与謝野家と金尾文淵堂は40年来の付き合いでした。

荻窪で床についてからも晶子は道子に電話をかけてもらい、金尾を呼んでいます。
金尾さんは晶子のことを「晶子先生」ではなく「大奥さん」と呼び、ていねいさの中にも打ち解けた親しみが見られます。

お見舞いに訪れた晶子の弟子たち。佐藤春夫、木下杢太郎、堀口大學など

晩年の晶子を見舞うために荻窪を訪れた人々。それは有名な文学者たちでした。
彼らを迎えた道子さんの眼は、見たまま聞いたままを、正直に書き記しています。

晶子の知恵・ユーモア・哲学

料理についてのユーモアや比喩。これはお嫁さんがどっきりするはず

晶子が道子に伝える家事アドバイスは、率直かつハイコンテクストです。その奥にはちゃんとした意味があるにしても、「?」と思う発言もありました。

言葉がそのまま現代で拡散されれば、揚げ足をとられて論破されるか、部分的に切り取られて炎上しそうです。

でも私はそこが好き。
晶子は、自分の理念と言葉に自信を持っているということですから。
忖度や細かい言い訳はしないのです。

道子さんの記憶によると、食べ物の場面でそれがよく見られます。
堺の和菓子職人の家庭で育った晶子は、なかなかの食通でありました。

晶子が食べ物で使った表現やたとえを、道子さんは以下のように書いています。

・短く切らず長いままのほうれん草のごま和えを「青がえるのはらわた」
・つまらない和歌を「おとうふのおすまし(=味がなく添削の価値もない)」

・初物のそら豆があると「味のついたように、また味のないように味つけをしてみてください」

…禅問答?

道子さんは、その疑問をしばしば夫の秀にぶつけます。
さすが息子は慣れたもの。母が言った意味をわかりやすく説明するのでした。

子育て・人生に独自の哲学がある

初めての妊娠をした道子さんが「家族が増えて暮らしがやっていけるでしょうか」と聞いた時、晶子はこう答えました。

「確かに一人ふえればなにかと費用もいることですね。でも昔から子どもは生まれる時、打ち出の小づちを持って生まれてくると言われているし、言いかえれば、禄(ろく)を持って生まれてくるとも言われるので、そのときになればそのときのようになることでしょう。まあ、あまり心配したものでもありません」

『どっきり花嫁の記』より

言葉もその精神も、家計を担いながら11人の子を育ててきた晶子らしいアドバイスですね。道子さんの思い出に刻まれた晶子との会話です。

晶子と宗教

1942年(昭和17)に64歳で晶子が亡くなったとき、彼女のために集まった人々から、晶子は数々の宗教による祈祷や洗礼を受けました。
生前から彼女は1つの既成宗教にこだわらずに過ごし、人々と交際していたためです。

個を尊重し、創作と家庭生活の中で自分の価値観を磨いた晶子は、決まった宗教や左右イデオロギーに偏ることはありませんでした。

おわりに

『どっきり花嫁の記』は序文もいい。堀口大學が贈る、晴れやかな賛辞

突然ですが、言葉をなりわいとする世界では「詩人最強説」というのがあるそうです。
言葉を凝縮させ、その限界表現をふっと外へ出すセンス。詩人はその最強者らしい。

『どっきり花嫁の記』の序文を読むとそれがよく分かります。

晶子の弟子である詩人・堀口大學によるものですが、彼の表現はさすがです。
エッセイを書いた道子さんと師匠への大絶賛は、読んでいて心が洗われるような文章でした。

『どっきり花嫁の記』は図書館や古本で読めます。ぜひ読んでみてね!

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