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10年越しの夢を捨てる時が来た #9

「退職の意向に変わりはありませんか」
 看護師長は溜息まじりに夏菜子に問いかけた。

 やはり退職したいと看護師長に願い出てから1週間が過ぎていた。治療をしながら仕事を続けるよう勧めてくれたのは嬉しかったが、カウンセリングを受けると決めて以降の体調は最悪で、しかも寝坊をして業務に支障を来してしまって、これ以上迷惑を掛けられないと退職の意向を明らかにした。
 改めて面談の場を設けてくれると言われたので、その時に精神科受診した時のことや、過去のトラウマのこと、新たについた診断名のことなんかを打ち明けるつもりでいたが、看護師長はそのことには一切触れなかった。
「はい、変わりありません」
 パソコンに打ち込む事務スタッフの隣で、看護師長は淡々と続けた。
「退職日に関しては、2ヶ月後を目安に考えてください。担当患者さんの引き継ぎが早く終われば退職日を早めてもらって構いません。有給休暇ですが、残っているものは全て使って頂ければと思います。退職願と退職届を早急に提出してください。何か質問はありますか?」
 説明事項の羅列に夏菜子は「はい」と返事を繰り返すしかなかった。退職するスタッフに割く時間は1分たりとももったいないということなのか。
「特にありません」
 当然夏菜子からそれに触れることはなかった。拍子抜けもいいところだが、触れずに済むならその方が良い。これ以上古傷を傷めなくて済むのだから。
「最後にもう一度、私から言わせてください」
 看護師長は指と指を絡めて、祈るようなポーズを取った。
「環境のせいにしているうちは、どこへ行っても変わりませんよ」
 それを聞いた夏菜子は、あぁこの人は何も分かっていないと、却って諦めがついた。分かり合えない星の下にいる。少なくとも、相手の話も聞かずに自分の意見を押し付けてくるところに共感はできない。あまりにも食い違っていすぎて弁解する気にもなれず、また「はい」と返した。
「それでは以上です」
 何とも呆気ない内容で、夏菜子の10年間の幕は閉じることとなった。

 初めに看護師長に自分と向き合うように言われてから約1ヶ月間、夏菜子なりに過去の記憶と向き合った。そしてタイミングが合えば、友人に現状の報告を行った。ここ数年の友人は特に、夏菜子がそんな立場に置かれているなんて想像すらしていない。いや、ここ数年どころの話ではない。夏菜子は実に20年以上、虐待の過去に関するアウトプットを行って来なかった。それでも、夏菜子の話を聞いて夏菜子を否定する人は誰一人おらず、夏菜子の心は救われた。

 夏菜子には、バーでたまに一緒になって、その場でお酒を飲むだけの友人が何人かいる。ほとんどはニックネームしか知らないような仲だが、その中に同い年で独身のミナちゃんという子がいて、たまたま2人でしっぽり飲んだ日に、最近起こった一連の出来事について酔った勢いでぶちまけた。幸いミナちゃんはとても素直な性格の子で、夏菜子の話をよく聞いた上で彼女なりの意見を言ってくれた。
「何その上司ヤバくない?てか私も同じ!寝坊して遅刻とか全然してる」
 ミナちゃんはおっとりした話し方だが、話す内容はハッキリしている。
「え、寝坊してどうなるの?やっぱりすごく怒られるんでしょ?」
 自分のことを特殊な社会不適合者だと思っている夏菜子は、原因は違えど自分と似た事象を起こしてしまうミナちゃんにも、そんなミナちゃんへの会社の対応にも興味津々だ。
「まあ注意はされるけど、しょうがないじゃん。いや、気まずいよ?後輩とかもいる訳だし。でも、寝坊しちゃうんだもん。仕方ないもんは仕方ないって」
 ミナちゃんは相変わらずゆっくりと穏やかなトーンで話し続けるが、しかし内容を聞くに肝が据わっている。自分を責め続けて体調を悪くする夏菜子のような性格では、逆立ちしたって習得できない開き直りっぷりだ。
「大体さ、環境のせいにするなって何言ってんのって感じだよね。カナちゃんが体調悪くしてるのが環境のせいなんだとしたら、普通に環境変えてやれよって思うけど。就業環境整えるのって上司とか会社の役目じゃん。そんなこともできない癖に、何を偉そうに精神科行けだよ。そんなとこ辞めて正解じゃない」
 予想もしなかった第三者の意見に、夏菜子はガツンと頭を殴られたような感覚に陥った。
 ミナちゃんは、寝坊なんかを繰り返しながら今の会社に勤めて8年になるらしい。それこそが、環境が大事であることの証明のように思えた。

 誰かひとりの意見が正しいなんていうことは、この世にはないと思う。環境を言い訳にするなという意見には共感できる部分が十分あるし、環境こそが個人に与える最も重要な要素だというのは正にその通りだ。

 答えのない人生の選択肢の中で、それでも夏菜子は看護師を辞めると決心した。

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