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『祈りの海』 グレッグ・イーガン作/山岸 真編・訳 感想

先日、グレッグ・イーガン氏の短編集『しあわせの理由』を読みましたが、そりゃあもうべらぼうに面白かったので、短編集としては先に刊行されていたこちら
『祈りの海』を読んでみました
するとやはりイーガン氏! という、どえらい面白さと、ちょいちょい襲いくる難解さと、その根底に流れる哲学的な思考がこちらの情緒を刺激する傑作揃いの短編集だったのです

以下は短編各話のネタバレを含んだ感想を列挙してあります。閲覧の際にはご注意下さい


『貸金庫』

ありふれた夢を見た、わたしに名前がある、という夢を
ひとつの名前が、変わることなく、死ぬまで自分のものでありつづける
それがなんという名前かは分からないが、そんなことは問題ではない
名前があると分かれば、それだけでじゅうぶんだ

冒頭と最後の彼の独白より

毎日、目覚める度に異なる人物の姿となって生活をし、眠って起きるとまた違う人間の姿で、住まいも家族も職業も変わってしまう男性の話
39年間、特定の期間に生まれて特定の地域で生活をしている、およそ1000人ほどの人物の肉体にローテーションで毎日、あっちに行ったりこっちに行ったりしている
彼が幼い頃は、毎日違う人間として目覚めるのは当たり前のことで皆もそうして生活しているのだと思っていたが、そうではないのだ、と理解した時の語りが、あまりに痛々しくてかわいそうだった
そんな生活だから、彼は常に他人のふりをして生活を送らなければならず、自分自身というものが持てないし、自身の名前すらない
でも彼は懸命に、貸金庫と私書箱を利用して通信の大学に通い、ときには文通などもし、この現象に折り合いをつけて生きていたのです
そして毎日変わる宿主ホストに、なるべく誠実であろうとしているし、どうせ明日は別人になるからといって、その日の肉体を持つ本人に迷惑をかけまいとしている、そんな彼のこころの有り様がすばらしいと感じました
そして、彼は何故こんな人生を送ることになったのか? その原因と思われる事柄を(推測の域は出ないながらも)発見するのですが
その上で彼が決意した時の独白が、とても力強く美しかったのでした

『キューティ』

どうしても子供を得て父親になりたいと切望する男が、人間の幼児を模した愛玩用の生物『キューティ』の安価な模造品を育てる話
模造品の模造品を育てようとしているあたりに、とてもグロテスクなのですが、更にやばい事にこの生き物は人間の腹を使って育てなければならず、この男性は喜んで妊娠までしてしまうのです
妊娠中の身体の様々な不調や不定愁訴を、男性が一身に感じているシーンも、ついに出産を果たして娘と出会えた喜びのシーンも、ずっと情緒がしっちゃかめっちゃかになる勢いで、キューティの模造品を愛おしく感じて止まらない様子を語っていて、それがすごくおぞましくて面白いです
キューティは寿命が4年と定められてるため、その時が迫るほどに、更に彼はおかしくなっていくのでした
子供が欲しいと切望し過ぎる人の気持ちは分かりませんが、それでも愛を注ぐ対象と暮らして世話をしたいと望むところは分からなくはないし、その衝動が抑えられなくて更なる苦悩に直面してしまう愚かさを、笑う気にはとてもなれない、そんな話でした

『ぼくになることを』

人間の脳の健康寿命には限りがあるために、個人の脳の使い方や思考パターンを、埋め込んだ〈宝石〉にも記憶させ、いずれ脳が衰える前に人工的に培養したものに取り替え、宝石に記録させていたそれまでの脳のデータを新しい脳に学習させ、常に若々しく健康な脳を維持できるシステムが、ごく一般的な社会の話
一読して、〈宝石〉が自律を得て人間を乗っ取ったホラー話(自分だけでなく他の人々もそうなのかも知れない!)なのか、〈宝石〉と彼の境が無くなったという話なのか、判断がつかなかったです

『繭』

警察機構が民間の企業に委託され、ひとつのサービス業となっている社会で起きた、生化学工業の研究施設の爆破事件を調査する刑事の話
爆破された研究施設は胎児と母体を繋ぐ胎盤のバリア機能を強化する研究を行っており、犯人像を絞ることができず、捜査は難航します
そして刑事のプライベートの描写も入り、彼は同性のパートナーと生活しており、LGBTの権利を求めるパレードへの参加への是非について何度も議論しているのですが
爆破事件とパレードが、思わぬ関連を見せる展開となっていて、刑事ものとしてめっちゃ面白い作品でした
そして、胎盤のバリア機能の研究所が求めていた、胎児を守る機能の真相までもが、語り手が同性のパートナーを持つ人であることに関わってくる展開で、その周到さに心底恐ろしくもなる作品でした

『百光年ダイアリー』

未来の自分が書いた日記が届く形で未来視が可能となっている世界で、日記通りに生活することをよしとし、日記に書かれていない事には尻込みばかりしていた男性が、このシステムの齟齬に気が付き、日記の軛から逃れて自由になるまでの話
前半の未来視が可能となるまでの、ゴリゴリのハード物理学のターンがすごく読むのが難しかったのですが、それを抜けると未来の日記が読めるっていう、ドラえもんのひみつ道具のようなところや、語り手の男性の情けなさの、野比のび太っぽさに凄くほっこりしてしまった話でした
ラストに向けてたくましくなるところも、のび太っぽかった

『誘拐』

高級な画廊を経営する男性のもとに、妻を誘拐したと、身代金を要求する映話画像が届くのですが、妻は自宅に無事にいる、しかし男性は色々あって架空のはずの誘拐された妻の身代金を払う…という話です
妻の事が好きすぎて追い詰められていて、その上で彼が出した結論が、極めて身勝手で面白いです

『放浪者の軌道』

個人の好みの話なのですが、人類の文明が失われつつある滅びの世界を描いた作品、いわゆるポストアポカリプスものが好きなのですが、そうしたジャンルを思わせる作品でした
思想体系が住むエリア毎に変質して固定されてしまう世界で、それに染まる事を拒否し、安全な都市生活を送れずさまよう人の話です
人間の思想体系を変えて支配してしまうエリアのことをアトラクタと呼ぶのですが、どうしてそんな現象が起きてしまったのかは語られず、アトラクタの作用が及ばない隙間の地帯を縫うように、歩き続ける人たちの話なのですが
また個人的な話なのですが、サバイバル、アウトドア、キャンプがめちゃくちゃ嫌いなので、それなりに嫌じゃないアトラクタを探して都市生活を送ればいいじゃない…と、彼らに言い聞かせたい気持ちになりました
あと、どこでもいいのでアトラクタ内部も見てみたかったというのもあります 思想体系によって都市の姿が違うのだろうし、それを見比べてみたかった
語り手がさまよう中で、様々なアトラクタの思想の影響を受ける度に描写が変わってゆくところも楽しい作品でした

『ミトコンドリア・イヴ』

ミトコンドリアDNAを何世代もさかのぼってゆくと、やがては1人の女性にたどり着く、それがミトコンドリア・イヴであり、すべて人類の始祖であり、すべての人類はきょうだいであり、人種や国籍などは意味がないのだと
そんな理想を掲げる宗教団体にどっぷり浸かってる彼女に唆されて、これまでに前例のない量子古遺伝学を研究し、ミトコンドリア・イヴを突き止めようとする研究者の男性の話です
しかし遺伝学の話がめっちゃ難しかったので、新興宗教の布教をしてくる人の描写の生々しいリアルさとか、他の宗教団体とのドンパチシーンの方が面白かったな~という感想でした

『無限の暗殺者』

並行世界がいくつもあり、それを行き来したり干渉したりするエージェントの話…だと思うのですが、その辺の理屈が難しくて、何かかっこええな! くらいの事しか分かりませんでした すいません

『イェユーカ』

指輪型の個人用医療システムが普及している世界で、医者の存在意義に悩む医師が、高度な医療システムがまだ届いていない地で、ボランティア活動をするのですが、医療システムを開発した企業の暗部を知り、それに立ち向かおうとするものの、いいように利用されてしまった…という救いのない話だと感じました
自己実現に悩んだり自己肯定を求める人って、詐欺に合いやすいよねって話だとも感じました
(個人の感想です)

『祈りの海』

幼い頃、海の中で信仰する神からの恵み、奇跡を与えられたと信じていた青年が、それは神の御業ではなく、自然界の科学物質により作用した脳の反応だったと知ってしまう話
人間は、脳の発信する信号と、それによってもたらされるホルモンの分泌により、感情やものの考えは定まり支配されている生き物で、それから逃れることはできないけど、
定められた感情や思考から、どう行動して生きるのか、そこにこそ、人間を己とたらしめるものが現れるのではないか、そんな風に読めました
あと、この短編の世界観では人間はおそらく水棲生物のまま進化しているらしく〈深淵教会〉という宗教があったり、性行為中の性器の機能が独特だったりしたので、もっと長編で読んでみたくなりました
あるいは、グレッグ・イーガン風のクトゥルフものとしても読めるかも知れない! いあいあ! とも感じました
 

終わりのまとめ 

まだ、イーガン氏の作品で読めたのは今作と『しあわせの理由』だけなのですが

その中でも、この2つの短編の中で響き合うような内容もあり、そんなところもすごく面白かったです
これは訳者の山岸真氏の、短編集の編纂によるところもすごく大きいのだと思います
恵まれた環境で読めるイーガン体験を、もっと積まねばと思った次第なのでした

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