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小説:狐

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『狐』 ジブラルタル峻 作 2024年2月6日、30投稿にて完結。
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#狐

小説:狐001「マスターの声」(363文字)

 地下二階。いつものように『狐』の門を叩く。別に叩かなくてもいいのだか、私は叩くことにしている。右手で拳を作り、中指の第二関節を木の板に三度弾ませる。社会人一年目のマナー研修で、ノック二回はトイレノックだから良くない、と習ったことを毎度思い出すのであった。  扉を押し開く。ギギギギギ。 「ぅいらっしゃっ」  マスターはこちらを振り向かずに声を発する。彼特有のイントネーションが薄暗い店内に響きわたる。その「ぅいらっしゃっ」は誰のためでもなく私のためだけの挨拶なのである。そういう

小説:狐002「ビール」(444文字)

 いつものカウンターに座り、「いつもの」と注文する。いつものカウンターというのは、店の最も奥のカウンター席で、マスターから見ると一番右手に当たる。「いつもの」注文というのは、野球のボール程の氷ひとつが浮かんだ中ジョッキビールのことだ。白い小皿でアーモンドも添えられている。これは毎回出るわけではない。振舞われる日もあれば、そうではない日もある。別の何かの場合だってある。今のところ、そこに法則性は見出せない。マスターの気まぐれならそれはそれで良かろう。ただこのまま通い詰めてその法

小説:狐003「スミさんとマニさん」(733文字)

「水で薄まったビールなんか美味くねえだろうよ。それになあ、ビールはそこまで冷やして飲むもんじゃねえんだ、ナリさんよお。日本人だけだろ、キンキンに冷やして飲むってのは」  美味しいか否かというのは個人の味覚に因るものであって……という話をスミさんにしても意味がないことを私は知っている。それに、まるで自分が日本人ではないかのような物言いだ。あるいはスミさんって実は日本人じゃないのかな。  別席で静観していたマニさんが口を開く。 「とりわけ夏、温暖湿潤気候の日本ではやはりキンキンに

小説:狐005「古びたジャージ」(576文字)

「カズミちゃんだって暇じゃないですよ。そう都合良く来るはずないですから」  マニさんが分かったような、知ったようなことを言って諭そうとする。スミさんは口を尖らせて下を向く。明らかにマニさんのほうが若いだろうに、スミさんよりも大人びた物言いだ。いやマニさんは元々少し背伸びしたことを言おうとしがちで、それに加えてどこかスミさんのことを下に見ているふしがある。  確かにスミさんはいつもお決まりの古びたジャージを来ているし、言動もがさつだ。外見やふるまいから、品格のようなものを感じ

小説:狐006「前衛芸術」(647文字)

 仕事で信じられないミスをして落ち込んだ日の『狐』にて。 「ナリさんよぉ。病人みてーな顔すんなや。人生なんてあっという間だぞ。悩む暇があんなら笑えや。苦しむ暇があんなら踊れよ」  スミさんはそう言って、ぎこちなくも陽気な盆踊りに似たステップを踏んでみせた。それは盆踊りとは明らかに異なるふるまいで、憤怒と歓喜を同時に表現したような前衛芸術を思わせるものではあるものの、決して前衛芸術などではなかった。その狂気を存分に吸い込んだ珍奇さと滑稽さに満ちた舞いは、私の胸に突き刺さり、心の

小説:狐008「エロウさん」(693文字)

 また私は来た。いや帰ってきたのかもしれない、この『狐』に。ここもまた私の家であり、巣なのだから。 「コミコングの客がガンガン書き込みするからじゃないかな」  エロウさんが喋っている。 「でもどうだろう。上の階だよね。そんなことで表示されなくなんのか」  アーマーさんは太い腕を組む。  いきさつは分からないのだが、『狐』はインターネット上の地図に表示されない。都内でも有数の大都市、それも駅近に店を構えてはいるのだが。その表示されないことを議論しているようだ。  エロウさん

小説:狐009「来店客」(998文字)

 開きつつある扉。誰だろうか? 時刻は、20:45。あらゆる可能性が押し寄せる。  スミさん説 「おう! ナリさん。調子はどうだ? お、今日は飲みもんにタコワサついてくんのか! おいら好物なんだよなあ。マスターいつものー」  きっとこんな調子だろう。尚、このたこわさびは私が注文したものであって、自動的についてくるものではない。  マニさん説 「ナリさんこんばんは。先日学園祭で来場者参加型のクイズ大会やっていましてね、優勝してきました」  だいたいそんな感じだろう。はい。よ

小説:狐010「狐と狼」(831文字)

 リスト化コンサルタントのリスティーさん。小気味のよいトーク力でテレビのコメンテーターとしても活躍中だ。  挨拶と紹介(という名の営業)で顔を出しただけらしく、すぐに帰っていった。  本とチラシを私たちに手渡してから。  エロウさんがその新書のタイトルを指差して、 「『とにかくリスト化しなさい』だってさ〜、あはははは」  と冷笑する。 「馬鹿にすんな。まあまあ売れてるみたいだよ、前作の『全てをリスト化しなさい』。社会が求めてるんじゃね」  とアーマーさん。  エロウさんはレ

小説:狐011「狼のリスト」(959文字)

「これ、マズイだろ?」  リスティーさんとすれ違いでやってきたスミさんが目を丸くする。 「あのさぁ、『狼』ってさぁ。西宿駅地下東口のバーだろ? あのコンサル、勘違いしたな?」  スミさんの言う通りだと思う。リスティーさんがみんなに配ったチラシの冒頭には、 “これで明快!『狼』の常連客リスト (『狼』の皆様が楽しむためだけにお使いください)” とある。 “・バルさん:アドバルーンのように誇張した話しをする。ただし中身は無い。ネクタイが派手。ピン芸人をやりつつ、テレアポの仕

小説:狐013「臨時休業」(982文字)

 月曜日、『狐』へと続く階段を降りようとしたところ、スミさんが肩を落として戻ってくる。 「おう、ナリさん。臨休だ。別んとこ行こか」  毎週火曜日と第五水曜日が定休日。それ以外にも休業することが年に数回程度ある。マスターだって人だ。休みたい日もあるのだろう。  とは言え、ほぼ毎晩独りカウンターに立つ彼は鉄人級で、誰もが敬服している。  スミさんの言うままにやって来たのは、大衆的な居酒屋チェーン店『つぼ民』だった。 「ナリさん、来たことあるか?」との問いかけに、無いと答えた。

小説:狐014「レンさん」(983文字)

「だから25時間なんですよ」  その日の『狐』は、レンさんが話題の中心だった。身なりは凄く綺麗なのだが、言動とそこから滲み出る思考様式がいつもエキセントリックなのである。 「実は1日は25時間なんですよ。騙されてるんですって」とレンさんは大きめのろくろを回すようなジェスチャーでみんなに語りかける。190センチを超える長身でその長い腕の動きがダイナミックだ。 「いや〜、流石にそれはないですよ。時計のほうが狂ってるってことになりますよね。もう少し説明してもらえませんか?」とタロ

小説:狐015「絵刀飛地先生」(556文字)

「いらっしゃいませ」  マスターが珍しく丁寧な挨拶をする。  女性客二人。見慣れない客だ。キョロキョロと店内を見回して、カウンターから割と遠い距離にある丸テーブルに座る。その様を見てスミさんが 「初めてだな」  と私にだけつぶやく。私もそう思うと伝える。『狐』は何しろウェブの地図には掲載されていないし、もちろん地上にも看板など出していない。偶然発見したところで地下二階のこの扉を初見で開けるには勇気が要るだろう。あるいは何らかの精神的な力や覚悟、明確な目的が。  赤いセルフレー

小説:狐016「ファン」(638文字)

「まぁそんなことはどうでもいいけど」  絵刀飛地(漫画家としての名)ことエロウさん(この『狐』での呼称)は渡された自著にマジックペンでさらさらっとサインを書きつつ喋る。 「よくここにいるってわかったねー。それに女だってことも知ってたね?」 「はいあのえーとワタシ絵刀先生の作品ずっとずっと好きで好き過ぎて先生のことネットで調べまくったりしてまして……」  極端に早口だ。その高揚感が伝わってくる。 「すごいね、あなた。ほとんどウェブに情報出してないはずだけど」  スミさんが声をひ

小説:狐017「シンジさん」(621文字)

「マスター、久しぶりー。カルーアちょうだい」  その声を聞いてマニさんが分厚い本から視線を上げる。 「シンジさんじゃないですか」 「やあマニさん、みんな! あとそっちのお嬢さんたちは新顔だねー」  シンジさんはいつも外向的だ。ハンチング帽を被っている。年齢的にはスミさんよりも上だと思う。年金暮らしで旅行が趣味らしい。それ以上のことは知らない。その点では常連客の中ではかなり疎遠な方だと言える。  お嬢さんたち、と呼ばれた二人の“非”常連客は軽く会釈をする。赤いセルフレームメガネ