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小説:狐003「スミさんとマニさん」(733文字)

「水で薄まったビールなんか美味くねえだろうよ。それになあ、ビールはそこまで冷やして飲むもんじゃねえんだ、ナリさんよお。日本人だけだろ、キンキンに冷やして飲むってのは」
 美味しいか否かというのは個人の味覚に因るものであって……という話をスミさんにしても意味がないことを私は知っている。それに、まるで自分が日本人ではないかのような物言いだ。あるいはスミさんって実は日本人じゃないのかな。
 別席で静観していたマニさんが口を開く。
「とりわけ夏、温暖湿潤気候の日本ではやはりキンキンに冷えたビールは格別です。外来文化が日本に来て変貌を遂げただけのことです」
 知識をひけらかすかのようないつもの調子のマニさん。彼の氏素性もよく分からないが、あらゆることに対してマニアックな知識を持っていて、当初はマニアさんと言われていたのだが、やがて「ア」が落ちて、マニさんと呼ばれるようになった。クイズ作家をしていると聞いたことがある。
 彼の特徴と言えば、会話において“助け船”を出すところである。

――ほらほら、あの自分とうり二つの人間に出くわしちゃうやつ。災いが起こるとされている不吉なやつ。何だっけなあ。

――ドッペルゲンガー!

――そうそうそれそれ、ドッペルゲンガー。

 先日もこんな具合だった。早押しクイズを連想させる。いささかウザいのは否みがたい。しかしその場にたちこめる、分かりそうで分からないどこかもやもやしたムードを一瞬で断ち切ってくれるという点ではありがたい。インターネットの普及したこの世の中。検索で解決できることも多いだろう。その意味で個別具体的な情報の価値は低下しているとも思われるが、彼のように生身の脳内に知識を詰め込んでいて、即座に取り出す技芸そのものには驚嘆すらする。

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