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私怨と摂理――平井 玄『鉛の魂 ジョーカーから奈良の暗殺者へ――恨みが義になる』|笠井 潔・ポストコロナ文化論【第8回】

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文=笠井 潔

 二〇二二年の七月八日十一時半ごろ、奈良市の大和西大寺駅北口前で参院選応援演説中の安倍晋三元首相が銃撃され、その日のうちに死亡が確認された。その場で逮捕された山上徹也は、直後の取調べで「特定の宗教団体への恨みが犯行動機である」と語った。この供述は公表されたが、問題の団体が統一教会(現在は世界平和統一家庭連合に改称しているが、本稿では旧略称の統一教会を用いる)である事実を翌九日の時点で報道したのは、フランスの「フィガロ」紙など海外メディアに限られていた。こうした内外の報道落差にかんして、日本メディアの「忖度」を疑う声も少なくない。

 元首相銃撃のニュースが流れたとき、それは政治的効果を狙ったテロだろうと、ほとんどの人々は思ったろう。まもなく「特定の宗教団体への恨み」を動機とした、私怨による殺人だったことが知られるようになる。山上徹也は「安倍首相ではなく、統一教会のトップ、韓鶴子総裁を撃ちたかった。でも、コロナで日本に来ないので、統一教会と深い関わりのある安倍元首相を撃った」と語っている。政治テロから個人的な動機による復讐へ。とはいえ事件の性格の意味するところは、かならずしも自明ではない。

 危機管理専門家として内閣官房の委員なども務めている福田充によれば、現代のテロリズム研究ではテロの動機による分類はさほど重視されない。「その要人暗殺によって社会的影響がどのようなインパクトを持ったか、
とくに政治的な影響が発生したかどうかの方がより重要である」。山上徹也が「旧統一教会が社会から罰せられることを究極的な目標としたのであれば、それは安倍元首相を暗殺することにより実現できた」(『政治と暴力』)。

 安倍元首相銃撃事件で考えると、参議院選挙において政権与党の元首相が暗殺されるということ自体が、政治的インパクトを持つという意味では、容疑者の犯行動機が政治目的ではなく私的怨恨であったとしても、(略)これもテロリズムと呼ぶことは可能である。

 福田が支持する「現代のテロリズム研究」の観点からは、この事件の解釈をめぐる「私怨かテロか」の対立は意味をなさない。たとえ「私的怨恨」が動機であろうと、安倍銃撃事件による多大の「政治的影響」や「政治的
インパクト」からして、それを政治テロと呼ぶことに問題はないことになる。とはいえ山上徹也の私怨の対象は統一教会であって、在任期間が憲政史上最長だった元首相、安倍晋三その人ではない。

 ここには微妙な、しかし無視できない齟齬がある。この出来事では手段と目的、意思と行動のあいだに不透明なズレが幾重にも存在し、それが山上徹也の行動をめぐる認識や評価の一義的な決定を妨たげる。「民主主義を破
壊するテロだ」という声高な非難も、「統一教会に人生を破壊された男」への同情も、事態の単純化にすぎないと感じられる。「テロは許されないが、そこにいたる経緯には同情の余地がある」という折衷的な立場にしても同じことだ。

 山上徹也は二〇一九年一〇月から二二年六月まで「silent hill 333」のアカウント名で一三六四件のツイートを投稿した。一九年一〇月一四日のツイートには、朝鮮民族主義極右派の統一教会は日本の敵である、「にも関わらず海外からは極右民族主義者と評される安倍政権に朝鮮民族主義の走狗がいる事の整合性を取るには、金と票、過去の経緯ぐらいしかないだろう」とある。また同日に、「オレがに憎むのは統一教会だけだ。結果として安倍政権に何があってもオレの知った事ではない」と呟いている。

 この時点で山上徹也はすでに、安倍晋三と自民党が統一教会と結託している事実を的確に把握していた。もしも統一教会の中心人物への襲撃事件が起きれば、「安倍政権に何があ」るかもしれないが、「オレの知った事ではない」。ようするに安倍自民党が統一教会に「金と票」を依存し、その見返りに政治的な便宜を図ってきた事実それ自体に、本気で憤っている様子はない。ある時点まで山上徹也は、アベノミクスや戦争法制など、内政面でも外交面でも安倍政治に肯定的だった。自民党や安倍晋三に批判的ともとれる言葉は、二〇二一年のはじめから目立つようになる。

 たとえば菅首相の長男による違法接待問題に触れて、「それなりに自民党支持だったが、なんかもう『ざまぁw』しか出て来ない」(二月三日)。あるいは安倍政治への総括的な感想として「考えても見りゃ安倍のやった事
なんか全部逆SEALDSなんだよね。全てが強引な戦後保守の現代への当てはめ、焼き直し。真似して東京五輪まで招致してこのザマ」(二月二八日)。

安保闘争、後の大学紛争、今では考えられないような事を当時は右も左もやっていた。その中で右に利用価値があるというだけで岸が招き入れたのが統一教会。岸を信奉し新冷戦の枠組みを作った(言い過ぎか)安倍が無法のDNAを受け継いでいても驚きはしない。(二月二八日)

 統一教会と癒着する安倍晋三の姿勢に、納得できないものを感じながらも結果として容認していた様子の山上徹也が、ここでは文鮮明の教団を日本に導き入れた岸信介以来の「無法のDNA」に、批判的な視線を向けはじめている。

 ツイッターにアカウントを開設する一週間ほど前の二〇一九年一〇月六日、山上徹也は来日した統一教会総裁の韓鶴子を火焰瓶で襲撃しようともくろんだが、厳重な警備のため決行を断念している。

 襲撃する機会を見出だせないことに加えて、創設者の文鮮明が死亡したのち統一教会が分裂している事実も問題だった。たとえ文鮮明の後継者である妻の韓鶴子を暗殺したところで、三男や七男の分裂組織を利するにすぎな
いのではないか。手製銃の製作をはじめて以降も、暗殺の標的は最終的には確定されていなかったようだ。

 二〇二一年九月一二日に開催された、統一教会の関連団体UPFの総会に安倍晋三はビデオメッセージを送っている。この動画をインターネットで目にしたことから、標的を安倍元首相に決めたと山上徹也は語ったようだ
が、その時期は二〇二一年秋あるいは二二年春と報道によって異なる。

 事件前日に投函されたジャーナリスト宛の手紙には「安倍の死がもたらす政治的意味、結果、/最早それを考える余裕は私にはありません」と書かれていた。はたして山上徹也は、「旧統一教会が社会から罰せられることを究極的な目標」として、そのための効果がきわめて高く、また韓鶴子よりも襲撃が容易である対象として安倍晋三を選び、到来した絶好の機会を捉えて、躊躇なく手製銃を発砲したのだろうか。私怨=テロという等式から導かれる、このような理路と透徹した意思が、洩れ伝わる山上徹也の言葉にはどこかしら希薄に感じられる。なにかに背中を押されるように、あるいは操られているかのように、暗殺者は手製銃を携えて事件現場に向かった。むしろ引きよせられたのではないか。

 安倍晋三の暗殺事件直後から今日にいたるまで、インターネットや新聞雑誌などマスメディアで少なくない考察がなされてきた。山上徹也事件をめぐる書籍として五野井郁夫・池田香代子『山上徹也と日本の「失われた30年」』が刊行され、「文藝春秋」電子版では大塚英志 「特撮とテロル」が連載された。中島岳志『テロルの原点』文庫版まえがき、杉田俊介「山上徹也の革命……だが……」(「対抗言論」vol.3 掲載)でも事件をめぐる重要な発言がなされている。

 筆者が目にした関連文書のなかで、山上徹也とその行動にかんして可能な限り〝近い〟場所から語ろうとしていたのは、平井玄の連載エッセイ集『鉛の魂』に収録された数篇の文章だ。たとえば「12 紙と錘」には、事件直後にTVで見た光景についての感想がある。

画面に映る被疑者の表情には左右の活動家が見せる気負いがなく、細い眼差しにもギラつきがない。無抵抗に路面に引き倒される姿には安堵が見えるのである。虚空を凝視する眼。静止画像に音のない暗黒舞踏の一瞬を感じた。

 この本の著者は見るべきものを見ている。使命を達成したテロリストの興奮や昂揚が、警官に引き倒された男の表情には浮かんでいない。不可解な偶然に操られ、なにかに導かれるように現場に辿り着いた山上徹也の「無抵抗」と「安堵」と「虚空を凝視する眼」。

 平井玄は山上徹也の行為を、単純には肯定も支持もしていない。非難しているわけではないが、人生を奪われた宗教二世への同情や共感からではない。巻末の「晶篇1 夏の散弾」には「彼は非正規労働者の一人である。
その意味で、暗殺者は私たちのありふれた隣人なのである。彼の私怨はどこへ向かうのか。それは私自身への問いである」とある。「ありふれた隣人」への〝近さ〟の感覚を手放すことなく、手段と目的、意思と行動が幾重に
もネジれた出来事を読み解こうと試みている。

『山上徹也と日本の「失われた30年」』の五野井郁夫も、山上徹也が就職氷河期世代の非正規労働者である点に注目している。たとえば本書に収録された池田香代子との対談「新自由主義とカルトに追い詰められた〝ジョーカー〟のツイートを読み解く」で、「私はたまたま今こうやって何とか生きてい」てリベラル知識人として発言しているが、「では自分がぜったいにそうならなかったかというと、そんなことは分からない」と語るように。

何かが少しでも違っていたら、自分だってさまざまな内なる差別主義を抱えていたかもしれないし、あるいはもしかしたら山上被告のような形で、いわれなき反韓国や反北朝鮮、あるいは南北の区別もできない程度の浅さで朝鮮半島全体に関するヘイトの感情をこじらせていたかもしれません。たまたま私は運がよかっただけなんです。

 とはいえ本書の「はじめに」では「もちろん、どんな事情、背景があろうとも、彼のしたことは許されるものではない」という、空疎な断り書きがある。殺人が違法であることは事実だとしても、その程度のことなら著作
の冒頭でわざわざ断りを入れる必要はない。五野井は暗殺者/殺人者である「隣人」とのあいだに拒絶の線を引いてしまう。線の向こう側に排除された「隣人」は、もはや隣人ではない。「彼を擁護するためではなく、だが、ことさらに非難するためでもなく、虚心に、ひとりの青年が、数十年にわたってその存在を政治と宗教に翻弄されたがゆえに、人としての尊厳を保つ限界を感じたときに辿り着いてしまったありようを、現代日本の肖像として探究してみたい」と五野井は語るが、それも「たまたま運がよかった」人間による線のこちら側からの言葉にすぎない。

 安倍晋三が暗殺された当日から杉田俊介は、ネット上で発言をはじめている。杉田によるツイッター発言は、雑誌「対抗言論」vol.3掲載の論考「山上徹也の革命……だが……」にまとめられているが、たとえば事件当日には次のように呟いている。「その日見聞きした言葉の多くは、ただ気持ち悪かった。民主主義国家では暴力は許されない。言論と選挙が民主主義の根幹だ。蛮行を非難する。言論封殺を許すな。あってはならないことだ……」とツイートしている。

 たとえそれがメディア対策や政治的戦略上の偽善だとしても、保守反動もポピュリストもリベラルも左派も、似たり寄ったりの言葉を壊れる寸前の機械のように口にしていた。この気持ちの悪さが日本社会の現在地であるのか。私たちの言葉はそれほど劣化し、根腐れしているのか。ただ気持ち悪かった。(二〇二二年七月八日)

 リベラル左派である杉田の批判は、同じ側に位置する論者たちの「暴力反対」「殺人は許されない」という類の発言に向かう。「我々リベラル左派は、『民主主義の根幹は言論と選挙』という土俵でずっと負け続けて、
民主主義を破壊され、腐食されてきたのではなかったか」、「君がどんな人間であれ、どんな思いだったのであれ、もう何十年も負け続けてきたわれわれの〈身代わり〉にやってくれたのだ。すまない。ありがとう――そうし
た享楽的なニヒリズムを感じた人間がこの国にはどれだけいたのか」(七月九日)。

 事件当日から八月末までのツイートを編集した「山上徹也の革命……だが……」からもわかるように、山上徹也の人物像や統一教会との関係、安倍銃撃の動機などがある程度まで知られるようになって以降も、暴力は許さ
れない、あってはならないことだ、など「似たり寄ったりの言葉」への嫌悪や批判は変わらないようだ。杉田と五野井のスタンスの相違は明らかだろう。「擁護するためではなく、だが、ことさらに非難するためでもなく(略)現代日本の肖像として探究してみたい」という、引かれた線のこちら側に安住する観察者の態度は、杉田の言葉に脂汗のように滲んでいる有責や自罰の意識とは無縁だ。

 五野井によれば山上徹也は、統一教会による信者の家庭破壊を放置し、社会の底辺で拡大するアンダークラスの貧困を無視してきた社会と政治の被害者である。山上徹也のような被害者たちが、絶対に「許されるものではない」暴力や殺人に走らないように、社会と政治を立て直さなければならない。五野井は杉田の自責や絶句とは対照的に、合法的な社会改良家として発言している。そう発言することを自分に許している。

 これに対して杉田は、「殺人は悪である。それはそうだ。しかしそこで思考停止して、この世には殺人よりも悪いことが山ほどある、という単純な事実から我々は長い間目をそらしてきたのではなかったか」(七月一八日)
と語る。

 いずれも、安倍銃撃事件を「テロ」として外在的に断罪する立場を拒否するとはいえ、平井玄が山上徹也に感じる〝近さ〟と、杉田が抱いた「すまない。ありがとう」の「享楽的ニヒリズム」にはニュアンスに微妙な相違
があるようだ。「私怨有理」、「散弾は私たちへの巨大な贈与だ」と平井は呟く。山上徹也という人物が、それを「私たち」に贈与したのだろうか。でなければ何者からの贈与なのか。

『鉛の魂』の「2 ジョーカーたちはいつも行き先を間違える」では、「先行する不穏な出来事はいくつもあるが」と前置きしながら、二〇二一年八月六日の小田急線刺傷事件と一〇月三一日の京王線刺傷事件を取り上げてい
る。犯人は「二人とも母子家庭で成長した不安定な非正規ワーカーという社会的な属性の大海にたちまち消えてしまう、その一滴」にすぎない「すなわちジョーカーたち。あるいはアノニマス」である。また「報道によれば
供述に共通するのは自発的な『死刑志願者』という」ことだ。「砂粒たち。さらに擦りつぶされた粉塵の消滅願望。(略)実行者たちとその行為のこの圧倒的な無名性、無方向性に目が向く」。

 八月と一〇月の私鉄車内の事件に「先行する不穏な出来事」としては、磯部涼が『令和元年のテロリズム』で検証した川崎のスクールバス児童大量殺傷事件(二〇一九年五月二八日)、この事件の反作用ともいえる元農林水産省事務次官長男殺害事件(六月一日)、京都アニメーション放火殺傷事件(七月一八日)などがある。

 これら「ジョーカーたち。あるいはアノニマス」を主役とした事件に、平井は「一九九七年神戸酒鬼薔薇事案や二〇〇八年秋葉原トラック殺人事案」を対置する。あるいは時を遡って、謹直なカトリック信徒の父親に反抗した「西口彰による一連の殺人事件」と、永山則夫の連続射殺事件を。酒鬼薔薇事件や秋葉原事件では「その特異性に世論が沸いた」し、西口事件は佐木隆三『復讐するは我にあり』と今村昌平によるその映画化、永山事件は当人による資本と権力への弾劾の書『無知の涙』などの著作で広く知られている。「いずれのケースも今や犯罪学テクストの古典アイテムだ」が、他方で近年の「ジョーカーたち。あるいはアノニマス」の、国家に「『死刑にしてくれ』とは甘ったれた言葉」ではないのか。

 西口彰をモデルにした佐木作品のタイトルにも引用されている言葉、『申命記』の「主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん」という「一節は一九七〇年代の連合赤軍と反日武装戦線の後を生きる私自身の言葉だった。蜂起の神話が崩れ去った後で国家を罰する『神の暴力』を待ち望むしかない」と平井は回想する。

 ヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』によれば、神的暴力は、神話的暴力に対立する。諸個人に法/権力への従属を認めさせる起源の暴力が法措定的暴力、樹立された法/権力への違反を阻止するそれが法維持的暴力で、この両者が神話的暴力を構成する。神話的暴力に対抗する神的暴力とは、革命権を行使して法/権力の支配に挑戦する大衆蜂起の暴力だ。一九六〇年代後半の世界的な大衆ラディカリズム、いわゆる「六八年」革命に敗れ、「旗を奪われ街に散った少なからぬ者たちが『復讐』の言葉を嚙みしめたのは事実である。/砂たちはどうなのか」。

 二〇二一年の日本列島に現れたジョーカーたちは神にも資本にも復讐することはない。
 ただ国家に殺してくれと請い願うのである。西口や永山はもちろん、神戸酒鬼薔薇事案でも秋葉原トラック殺人事案でも、容疑者たちはそう言わなかった。

 二〇二一年の「ジョーカーたちはいつも行き先を間違える」。間違った行き先とは「擦りつぶされた粉塵の消滅願望」、通り魔型犯罪による処刑への期待である。

 二一世紀に入って目立ちはじめた、「拡大自殺」とも称される「砂粒」たちの匿名的で無動機的な大量殺傷事件。先に述べたように平井は、これに一九六〇年代の政治的ラディカリズムや大衆蜂起の陰画ともいえる西口彰と永山則夫の連続殺人、あるいは強烈な特異性で社会に衝撃を与えた酒鬼薔薇事件や秋葉原事件を対立させる。そして「神にも資本にも復讐することはない」砂粒たちは「甘ったれ」ている、「行き先を間違え」ていると苦々しげに語る。

 拡大自殺という言葉が広く使われはじめたのは、一九九九年にアメリカで起きた死者一三名のコロンバイン高校無差別銃撃事件からだという。コロンバイン事件の犯人二人は凶器に用いた銃で自殺したが、自殺にいたらない場合にも、自殺願望が無差別殺人を惹き起こしたと想定される事件は拡大自殺として理解されることが多い。日本の事例では、たとえば川崎殺傷事件の岩崎隆一は自殺し、事件現場で逮捕された秋葉原殺傷事件の加藤智大はその二年前に自殺に失敗したという。

 二〇〇八年六月の秋葉原事件に先行して、土浦市で三月に起きた無差別殺傷事件の犯人には、自殺を考えたが失敗するかもしれない、「一番手っ取り早く他人に殺してもらえるから」事件に及んだとの供述がある。ようする
に「死刑になるための殺人」で、平井玄のいわゆる「擦りつぶされた粉塵の消滅願望」がここには明瞭に認められる。

 死者一三名のコロンバイン高校事件から同六〇名のラスベガス・ストリップ事件(二〇一七年)まで、アメリカでは銃による無差別大量殺人の事件直後に犯人が自殺する巻き添え殺人、典型的な拡大自殺が多い。また死者五〇名のオーランド事件(二〇一六年)のように、出動した警官に犯人が射殺される場合も少なくない。

 しかし日本では、ほとんどの犯人が事件現場で逮捕されている。銃による自殺と比較して、ナイフなどによるそれは身体的心理的な難易度が高いからだろうか。あるいは自身の「死」さえも権威や権力に委ゆだねようとする、
日本人の「甘えの構造」とも関係があるのか。いずれにしても拡大自殺の事例には、自殺に失敗しての大量殺人や「死刑になるための殺人」も含まれる。自殺願望が認められた加藤智大による無差別殺人と、小田急線事件の
「死刑になるための殺人」のあいだに決定的な断裂線は認められない。

 コロンバイン高校と同じ地域で、二〇一二年にはオーロラ銃乱射事件(死者一二名)が起きている。コロラド州オーロラで発生した事件は、銃乱射現場が映画館だった点で特異だ。映画館ではクリストファー・ノーランによるバットマン映画、ダークナイト三部作の第三作『ダークナイト ライジング』がプレミア上映中で、犯人の大学院生ジェームズ・ホームズは逮捕されたのち、警官に「自分はジョーカーでバットマンの敵だ」と語った。また「映画はハッピーエンドなのか」と訊き いたともいう。事件後にキャットウーマン役のアン・ハサウェイと監督のノーランは、オーロラでの犠牲者を悼みつつも映画と犯行は無関係である旨、いささか弁解めいた内容の発言をしている。

 事件の数日後にはハロウィーンの仮装用に、オレンジ髪のホームズの顔を象ったゴム製のマスクが発売された。劇場での犯行、ジョーカーを自称する犯人、その大量のマスク。トッド・フィリップスによる二〇一九年の映画『ジョーカー』は、あたかもオーロラ事件に触発されて構想されたかのようだ。

 小田急線や京王線事件の犯人を「電車に乗った小型ジョーカーたち二人」として論じた平井は、続く箇所では映画『ジョーカー』に言及している。「アーサー・フレック。彼は二つの顔を持つ。認知症に怯える母を思う疲
れ切った顔とスタンダップ・コメディアンの顔である。素顔とジョーカーの不気味な白塗り。もろともキャラクターにしか見えない」。

 地肌は日ごとに仮面に喰われていく。白人か黒人かではない。黒い皮膚が白い仮面を突き破る初期ファノンのストーリーの真逆。ジョーカーのマスクがアーサーの膚を征圧する。それこそがこの作品のアジェンダであり、かつ魅力なのだ。大統領みずからネットキャラと化したトランプ時代にこれが撮られたのは必然である。

 ここで平井は、「映画『ジョーカー』を観た人はどのくらいいるのだろうか」と自問しているが、今日では興味深い回答が可能だ。少なくとも山上徹也は観ていたという回答。それも韓鶴子暗殺のため火焰瓶を携えて愛知まで出かけた、二〇一九年一〇月五日のことだ。『ジョーカー』は山上徹也に強烈な印象を残したらしく、この映画に触れたツイートは一七回もある。オーロラ事件の犯人は、ノーランのバットマン映画第二作『ダークナイト』に登場するジョーカーに自身を擬したわけだが、ノーランとフィリップスのジョーカーを比較して山上徹也は語る。

原作やダークナイトの純粋な「悪」というジョーカーから考えるとアーサーはジョーカーではない、というのはあり得る。彼はジョーカーに扮した後でも、自分ではなく社会を断罪しながら目に浮かぶ涙を抑えられない。悪の権化としては余りにも、余りにも人間的だ。(二〇一九年一〇月一六日)

 本誌に連載した「ポスト3・11文化論」の「12 道化と暴力」でも指摘したように、コミックや映画で描かれてきたジョーカーは歪んだユーモアと悪意ある笑い、サディズムと無意味な暴力などを特徴とするサイコパスだ。精神病質(反社会性パーソナリティ障害)の特性は、良心や罪悪感や共感の欠如、習慣的な噓うそ、過大な自尊心、口がうまくて魅力的、などなど。これらの特性は例外なくジョーカーにも認められる。ノーランのジョーカーはスーパーヴィランとしての定型に独得のひねりを加えたキャラクターだが、フィリップスの場合は違う。ホアキン・フェニックスが演じるアーサー/ジョーカーの「認知症に怯える母を思う疲れ切った顔」に平井は注目し、山上徹也は「悪の権化としては余りにも、余りにも人間的だ」と共感する。

 二〇一八年カナダのトロントで十人の犠牲者を出した大量殺人事件をはじめ、北米では非モテインセル(Involuntary celibate /非自発的禁欲)や反フェミニズム過激派による無差別殺傷事件が頻発している。そのため『ジョーカー』に刺激されたインセルが、トロントと似たような事件を惹き起こす可能性も危惧されていた。しかし山上徹也は、「『インセルか否か』を過剰に重視するのは正にアーサーを狂気に追いやったエゴそのもの」(二〇一九年一〇月二〇日)とする。

 たしかにアーサーがジョーカーに変身するきっかけは、片思いを寄せていた隣室のシングルマザーに告白を拒絶されたことにあるらしい。厭味な元同僚や偽者であることが判明した「母」に加えて、「父」の代理であるテレビ司会者までをアーサーは殺害するが、これら複数の殺人をインセルの犯罪やミソジニーによるフェミサイドと解釈するのは、山上徹也が語るように見当違いだろう。父の不在と偽の母をめぐる家庭問題、逃れることのできない貧困、不遇、屈辱の数々こそアーサーを殺人に追いこんでいく。自身をアーサーに重ねて、山上徹也は叩きつけるように書きつけている。

ジョーカーという真摯な絶望を汚す奴は許さない。(二〇一九年一〇月二〇日)

『ジョーカー』のアーサーが「真摯な絶望」から、象徴的な「父」である司会者をTVスタジオで射殺するように、山上徹也は衆人環視のもと選挙演説する安倍晋三を射殺したのだろうか。山上徹也の「絶望」と、たとえば
秋葉原事件の加藤智大のような無差別大量殺人者のそれと重なるところはあるのか。

 典型的な中流家庭の子供で進学校の生徒だった山上徹也の運命は、父親の自殺をきっかけとする母親の統一教会への入信と家庭の荒廃、度重なる巨額献金による困窮のために大きく狂いはじめる。大学受験を断念した山上徹也は、三年間の自衛隊勤務以外はアンダークラスの非正規不安定労働者プレカリアートとして、格差化/貧困化が進行する二一世紀日本社会の底辺を漂ってきた。兄と妹を貧困から救うため保険金目当ての自殺を企てたこともあるが、その兄はのちに自殺している。悲惨としかいえない個人史だが、それでも測量技士補や宅地建物取引士の国家資格を取得するなど、人生を安定した軌道に戻すための努力は懸命になされた。しかしあらゆる努力は無駄に終わって、銃撃事件にいたるまで派遣社員という不安定な状態でもがき続けることになる。

「オレは事件を起こすべきだった。当時話題だったサカキバラのように。/それしか救われる道はなかったのだとずっと思っている」(二〇一九年一二月七日)。酒鬼薔薇聖斗と称した少年は、一九九七年二月―五月の事件当
時に一四歳、そのとき秋葉原事件の加藤智大は一四歳、山上徹也は一六歳だった。山上徹也が「残念ながら氷河期世代は心も氷河期」(二〇二一年二月二八日)とツイートしているように、この世代は学校を卒業し社会に出る時期に就職氷河期に遭遇し、氷河期世代あるいは失われた世代ロストジェネレーション(ロスジェネ)として語られるようになる。

 山上徹也の事件の背後に二一世紀日本の新しい貧困、プレカリアートとアンダークラスの社会的困難を見る点で、いずれも失われた世代ロストジェネレーションに属する杉田と五野井は共通する。バブル経済の崩壊直後に到来し二〇〇五年まで続いた就職氷河期、構造不況の長期化による新自由主義的改革と非正規雇用の急激な拡大、プレカリアートの激増、格差化/貧困化の進行、日本経済の衰退と社会の構造的劣化、これらの重畳としての失われた三〇年……。

 偶然かどうか安倍銃撃事件の一八日後、七月二六日には東京拘置所で加藤智大の死刑が執行された。加藤から山上徹也まで、ロスジェネの非正規労働者あるいは失業者、無業者による無差別殺傷事件はしばしば起きている。「自由の国」アメリカでは日常茶飯事である、銃乱射大量殺人を念頭に置いたらしいツイートが山上徹也にはある。「ここが自由の国なら、オレはとうの昔に自分の頭を打ち抜くか乱射事件でも起こしてた人間だよ。ただし、撃つ相手は選ぶがな」(二〇一九年一一月二三日)。

 イタリアのアクティヴィスト、フランコ・ベラルディは『大量殺人の〝ダークヒーロー〟』で、資本主義批判の一環として無差別大量殺人について論じている。「私がスペクタクル的な殺戮を伴った自殺について語るのは、これらの殺人者たちが、われわれの時代の主要な傾向を、極端な形で体現しているからである。私は、彼らをニヒリズムとスペクタクルの愚かさの時代――すなわち金融資本主義の時代――の〝ヒーロー〟とみている」。

 その第一章では先に触れた二〇一二年のオーロラ銃乱射事件が検討されているが、資料的制約のためか分析は大量殺人とメディア、スペクタクル、シミュレーションの関係など主として外面からのもので、大量殺人を惹き起こした犯人の内面については、神経心理学者ドミニク・キャロンによる次のような見解を紹介しているにすぎない。「キャロンは、ホームズは他人と気持ちを通じあうことに困難を感じていたという意見を述べている。(略)ホームズはひどく迫害され排除されたために〝ジョーカー〟のキャラクターに自己同一化したという仮説も提起している」。

 無差別大量殺人者による魂の表白としてベラルディが注目するのは、死者三二名を算かぞえるヴァージニア工科大学銃乱射事件のチョ・スンヒの事例だ。手紙や手記などをほとんど残していないホームズと違って、チョは事件
の朝、動画、写真、手帳、手記など大量の資料をNBCに送っている。「ポスト・モダン時代に心の秘密を打ち明ける唯一の相手はメディアであり、彼はNBCニュースを選んだのである」。

 韓国からアメリカに移住したのは八歳のことで、チョは学校では話せない英語で書くことを強制され、家庭で話している韓国語は書くことができないという特殊な、精神的な負担の過大な環境で成長した。学校でも家庭でも不自然なほど無口で無表情だったのは「新たな文化環境のなかにおけるデラシネ感、言語的・文化的な喪失感、孤独、無力感」の結果だろう。「ここにはマージナル化、ハラスメント、屈辱、怒り、復讐への欲望が垣間見える。チョの物語は、世界中にいる幾百万もの移民の物語そのものであると言わねばならない」。移民ではないが、加藤智大をはじめとする日本の無差別殺人者にも同じことはいえる。

 ベラルディは事件後に自殺した大量殺人者、自殺に失敗した者、大量殺人者としての「名声」を確認するため意図して逮捕された者などを、とくに区別することなく論じる。もろもろの形態の拡大自殺と急増する自殺や引きこもりは同根の社会現象で、そこには二一世紀の絶対資本主義が露出させた死の欲動が不気味に渦巻いている。

 チョ・スンヒがNBCに送った手記には、たとえば次のような箇所がある。「あなた方にとって、私はおそらく一片の犬の糞にすぎない。あなた方は私の心を破壊し、私の魂をレイプし、私の意識を何度も何度も燃やした」。

あなた方のおかげで、私はイエス・キリストのように死ぬことができる。そしてあなた方が手酷く扱う〝弱者〟や〝見捨てられた人々〟――私の〝兄弟〟、〝姉妹〟そして〝私の子どもたち〟――を鼓舞することができるのだ。

 ヴァージニア工科大学で三二名を射殺した直後に自殺した二三歳の韓国籍学生は、「私は、モーセのように海を割って道を開き、私の人民――あなた方がこれまで手酷く扱ってきて、これからもつねに手酷く扱い続けようとするあらゆる世代の弱者、見捨てられた人々、無実の子供たち――を永遠の自由に向かって導くのだ」と宣言していた。少なくともチョ本人にとって、大学のホールで荒れ狂った無数の銃弾は「神の暴力」の発露だったろう。

 ニューヨークの貿易センタービルを倒壊させた「同時多発テロ」と、実行者のモハメド・アタについてもヴェラルディは論じている。チョの場合とは違って、アルカイダの軍事攻撃を聖戦ジハト、アタの行動を「神の暴力」と見なした者は世界に何十万人と存在したろう。あるいは何百万人か、それ以上かもしれない。「世界には、ホームズのような人間がいっぱいいる」というブロガーのコメントを、ベラルディは紹介している。まだ大量殺人に踏みきってはいないが、チョと同じような成育史、境遇、性格の者は大勢いる。しかしチョが「キリストのように」、「モーセのように」行動したと信じた者は、本人以外に存在したのかどうか。

 中島岳志は「秋葉原事件を起こした加藤智大は、山上と同様、母親との間に不和を抱え、地元の難関校に進みながらも、四年制大学は受験せず、その後、職を転々とした」(『テロルの原点』文庫版まえがき)と述べている。

 加藤は、深い生きづらさを抱えていた。しかし、その苦しみが何によって生じ、何によって強いられているのか、本人には見えなかった。彼は、湧きあがる憤りと暴力衝動を、どこに向ければいいのか、わからなかった。その結果、彼にとっての「世界の中心」だった秋葉原で、無差別殺傷事件を起こすに至った。

 アメリカの韓国籍学生チョのデラシネ感と喪失感、孤独と無力感、あるいは「マージナル化、ハラスメント、屈辱、怒り」は、貧困と先の見えない不安定な暮らしを強いられている日本の非正規労働者、加藤や山上徹也のものでもあるだろう。あるいは平井玄が「擦りつぶされた粉塵」と呼んだ拡大自殺志願者たちの。

 失われた三〇年は戦後日本の「九割中流」社会を解体し、労働の非正規化と社会の格差化/貧困化を促進した。新卒採用・終身雇用・年功序列の安定した正規職に就いて、結婚し子供を持ちマイホームとマイカーを手に入れるという、かつて日本人男性の「九割」に現実的だった人生も、二一世紀の今日では選別された特権層にしか許されない。とりわけ就職氷河期に直撃されたロスジェネには、戦後福祉国家のミドゥルクラスから階級脱落デクラセ化した「弱者男性」が多い。

『ジョーカー』のアーサーは、リベラル化した二一世紀のアメリカ社会では特権性と差別性を批判されることの多い白人/男性だ。しかし病身の母親を一人で介護する不安定労働者で、精神疾患まで抱えた冴さ えない中年男の
前に登場する黒人/女性はカウンセラーや医師をはじめ、いずれもアーサーを見下ろすような社会的地位にある。

 現実のアメリカ社会では弱者白人/男性である者よりも、さらに弱者である黒人/女性がほとんどだとしても、アーサーが構造的に抑圧的・差別的なマジョリティのなかの被抑圧的・被差別的なマイノリティ、弱者白人/男性であることに変わりはない。

 では弱者白人/男性と、さらに弱者である黒人・女性が連帯することはできないのか。しかし事態は反対の方向に流れやすい。弱者日本人/男性の一部がネトウヨ化し差別主義や排外主義を剝き出しにして、在日朝鮮人やアイヌや沖縄、フェミニストと女性、それらを支持するリベラルや左派に敵対することは珍しくない。「弱者男性」と自己規定して発言する者は、しばしばネトウヨ的な排外主義、差別主義の傾向を帯びている。

 山上徹也にもリベラルやフェミニストに冷笑的、韓国人や在日朝鮮人に敵対的なツイートが少なくない。その点に注目すれば、山上徹也の発言はツイッターに溢れるネトウヨのそれと変わらないようだ。しかし『鉛の魂』
には、「暗殺者のヘイト言説は一つ残らず『統一教会=韓国人=朝鮮半島』という短絡に根を持っている」(「晶篇1 夏の散弾」)という指摘がある。「それを擁護すると見なしたリベラルや左派、特権的と見なすフェミ
ニストやLGBTQへの憎悪は、そこから伸びた枝葉にすぎない」。

 五野井郁夫の解釈によれば、山上徹也は新自由主義的な自己責任論を内面化しすぎて孤立し、周囲に助けを求めることを自分に禁じて、殺人による私怨の解消しかない極点に追いつめられたことになる。しかし山上徹也の行動を、自己責任論の帰結として理解することはできない。

 自己責任論を内面化した弱者男性の「マージナル化、ハラスメント、屈辱、怒り、復讐への欲望」が被害者意識にとどまる限り、おのれの弱者性は逃れることのできない運命だというような、出口のない無力感に圧倒されざるをえない。そこから生じる否定的な態度は第一にシニシズム、いわゆる「冷笑」だ。ネットに溢れる冷笑的態度は、癒やしがたい無力感と敗北感の心理的反映にすぎない。

 第二は陰謀論的思考による「敵」の発見で、捏造した藁人形に安全な場所から罵声を浴びせ続けることになる。いずれも被害者という自己像を変革できない無力感の産物で、実効的な決断と即物的な闘争による自己変革/世界変革とは無縁だ。被害を蒙っているという事実の認識と、自他攻撃的な被害者意識を混同してはならない。自己憐憫にまみれた被害者意識は、被害者である事実を超えていく思考と行動の不能性の帰結である。

 私怨が私怨である限り被害者意識の域を出ることはない。私怨を解消するための行動、復讐の拳を握るには被害者意識を超えなければならない。復讐のためには、被害者だった自身を加害者に転化することが前提だからだ。
かつて復讐は正義だった。正義とは均衡である。被害が生じたとき均衡は失われる。均衡を戻すには、受けた被害と厳密に等量の被害を加害者に加えなければならない。「目には目を」の同害報復によって、均衡としての正義は維持されていく。

 社会契約に応じた諸個人は暴力の権利を国家に委ねる。しかし、私の理不尽な被害のために乱れた均衡を法/権力が是正しないのであれば、被害者は同害報復の権利を行使できる。主権を侵犯する私的暴力を行使した場合、合法的な暴力の独占者である国家は復讐者を法廷で罰するだろう。しかし、法/権力が放置した均衡の乱れを是正した点で、正義は国家でなく復讐者の側にある。このように復讐権は、抵抗権や革命権と並行的な権利として捉えることができる。それが正当な同害報復である限り、復讐が実行されたとき私怨は解消される。均衡としての正義が回復されるとき、私怨は消滅するからだ。

 もしも被害者が被害に甘んじて正義を求めないなら、その権利と尊厳は毀損されたままだろう。主体性を傷つけられた状態は不快で屈辱的だから、復讐の正義を実行して奪われた権利と尊厳を回復しなければならない。いつからか山上徹也は復讐に向けて進みはじめた。法/権力が正義を行わないのである以上、自身の手で乱れた均衡を元に戻さなければならない。

 主権国家のもとで復讐の権利は否定されているし、また安倍晋三の殺害が同害報復といえるのかどうかも、ここでは問わない。問題は山上徹也が復讐の正当性を確信し、被害と加害を比較計量したろうことだ。警官に押し倒された瞬間の「安堵」の表情には、ようやく正義を実行しえた、権利と尊厳を回復できたという思いが込められていたのではないか。このような山上徹也の思考と行動を、自己責任論の内面化として理解してはならない。

 いわゆる新自由主義的な自己責任論とは、資本家や投機家の自己責任を原型として、それを過大に一般化したにすぎない。新自由主義社会では労働者も自己資本の所有者と見なされるからだ。しかし復讐者の関心は均衡の回復による正義の実現であって、不均衡の瞬間的な極大化を利益の最大化に転化しようと企てる者とは発想が正反対なのだ。このように考えると、たとえリベラルやフェミニズムを愚弄するようなツイートが多いとしても、山上徹也はインセルやネトウヨとは一線を画している。先にも述べたように冷笑や陰謀論は弱者性と無力感の産物で、被害者意識にまみれている限り失われた均衡の回復も、そのための正義の実行も縁遠い話だからだ。

 杉田俊介は「現代の弱者男性/非モテ/インセルたちは(略)その刃や銃を『下』や『横』にばかり向けて『上』に向けない」という。また別の著作では「女性や社会的弱者を憎むのではなく、あるいは承認欲求をこじらせてダークヒーローになるのでもなく、(略)小さな、それゆえ偉大な尊厳を守り抜こうではないか」(『男がつらい!』)と呼びかけてもいる。こうした杉田の主張に、山上徹也はツイッターで次のように応じた。

だがオレは拒否する。「誰かを恨むでも攻撃するでもなく」それが正しいのは誰も悪くない場合だ。明確な意思(99%悪意と見なしてよい)をもって私を弱者に追いやり、その上前で今もふんぞり返る奴がいる。私が神の前に立つなら、尚の事そいつを生かしてはおけない。(二〇二一年四月二八日)

 山上徹也が「拒否する」のは、杉田による「その刃や銃を『下』や『横』にばかり向け」てはならないという主張ではない。暗殺者の銃口が「上」に向けられたことは明白だ。「誰かを恨むでも攻撃するでもなく」という言葉に、復讐の権利を棄てろというメッセージを読んで、それを「オレは拒否する」と記した。「撃つ相手は選ぶ」という言葉からも明瞭であるように、山上徹也は加藤智大のような無差別殺人とは最初から無縁だった。もちろん「撃つ相手」とは「私を弱者に追いや」った統一教会の中心人物だ。

 ジェームズ・ホームズやチョ・スンヒによる大量殺人は無差別的で、「標的」の選択をめぐる意図は認められない。しかし近年ではゲイを標的とした二〇一六年のオーランド(死者五〇名)や、黒人が犠牲者の大半を占める二〇二二年のバッファローの銃乱射事件(同一〇名)など、人種的マイノリティや性的マイノリティを標的にした大量殺人が相次いでいる。二〇一八年のインセルによるトロントの大量殺人もその一例だ。これらの事件は、トランプ時代に勢力を拡大した反移民、反イスラム、反女性、反LGBTの白人至上主義、キリスト教原理主義過激派、Qアノン陰謀論者など極右勢力による政治テロや大衆暴動に隣接している。その最大の事件が、トランプ派の極右大衆による二〇二一年のアメリカ議会議事堂襲撃だろう。

 かつて中島岳志は、加藤智大による無差別殺傷事件が「今後、ターゲットを明確化していったらどうなるか。秋葉原事件の延長上に政治テロがありうるのではないか」と憂慮していたという。

その後、事件の性質が徐々に変化してくる。「津久井やまゆり園」障がい者施設殺傷事件、(一六年)、京都アニメーション放火殺人事件(一九年)、小田急乗客刺傷事件(二一年)では、それぞれ障がい者や企業、女性などが憎悪の的となり、殺意が向けられた。(略)そのような中で、安倍晋三元首相の殺害事件が起きた。

「暴力のターゲットが、この一〇年間の最大の権力者に向けられ、殺害が実行された。『最も恐れていたこと』が起きてしまった」と中島はいう。日本でもアメリカでも「深い生きづらさを抱え」た男たちの「湧きあがる憤りと暴力衝動による」殺傷事件は、しだいに「ターゲットを明確化」してきている。

 とはいえ反LGBTのオーランド事件の犯人や、白人至上主義のバッファロー事件の犯人と山上徹也を同一視はできない。山上徹也は銃砲店で購入した銃を無差別に発砲したわけではない。「この一〇年間の最大の権力者」
に、苦心の手製銃で散弾を放った。「yは二発十二個の散弾によって標的以外の誰一人として傷つけなかった」事実を平井玄は強調する。「標的」の意味がオーランド事件やバッファロー事件の犯人とは決定的に異なっているのだ、やまゆり園事件や京アニ事件の犯人とも。無差別大量殺人の秋葉原事件などと、安倍銃撃事件を氷河期世代の非正規労働者による犯罪として安直に重ねる議論は、山上徹也が「標的以外の誰一人として傷つけなかった」ことを、意図してか見ようとはしない。安倍銃撃事件は弱者男性が「マージナル化、ハラスメント、屈辱、怒り、復讐への欲望」に駆られて惹き起こした無差別大量殺人ではない。この点は決定的に重要だ。

 それは私怨の暴発ではなく、「敵」を明確化したテロだからだろうか。ベラルディは二〇一一年のノルウェー連続テロ事件も論じている。イスラム移民によるヨーロッパ「侵略」を非難する白人至上主義者で極右派のブレイヴィークは、オスロ中心街を爆破し、続いてノルウェー労働党のサマーキャンプが開かれていたウトヤ島での無差別銃撃で死者七七名、負傷者三〇〇名以上という大惨事を引き起こした。「チョ・スンヒはたいへん誠実な人物で、真に苦痛に苛まれており、その苦痛を非常に率直に語ってもいます。これに対して、ブレイヴィークは、私の目には、愚か者に映ります」と巻末に収録されたインタビューで、ベラルディは廣瀬純に語っている。

彼は、自分が苦しんでいるとは決して言わず、その代わりに、ヨーロッパは他よりも優っている、白人は優等人種であると言う。ブレイヴィークは、自分自身の苦痛を、偽りのイデオロギー的概念に翻訳してしまっており、本当のことを語らないのです。

 イスラム移民や難民を受け入れる労働党政権に懲罰と打撃を与えようとしたブレイヴィークにテロの標的という点での紛れはない。あたかも軍事作戦に従事する兵士のように、この人物は一方的な殲滅戦を敢行した。この男の顔には、先鋭な活動家に相応の陶酔と使命感が、そのための「気負い」や「ギラつき」が浮かんでいたろう。ブレイヴィークによる死者七七名という記録的な大量殺人は、精神的欠損を肥大化した倒錯的観念で埋めあわせようとしたテロリズムにすぎない。

 しかし人生を奪われ尊厳を傷つけられた山上徹也は、その苦しみをツイッターで率直に語っている。そこに現実的な世界喪失を観念的に自己回復するための、肥大化した「イデオロギー的概念」は認められない。ネトウヨ
的な感想をツイートしていても、ブレイヴィークのように極端な政治イデオロギーを信奉し、そのために暗殺を企てたとはいえない。

 としても謎は残る。どうして統一教会ではなく安倍晋三を標的として選んだのか。厳重な警戒のため韓鶴子襲撃は断念し、統一教会には最大の広告塔だった元首相を新たな標的とした。事件の結果として統一教会は多大の打撃を蒙ったのだから、標的の変更は合理的な判断だったろうし、元首相暗殺は圧倒的な政治的効果をもたらした。このようにいえるだろうか。

 二〇二二年七月八日に大和西大寺駅北口前で起きた銃撃事件では、動機と行動の関係はかならずしも明瞭ではない。山上徹也の動機と行動のあいだには複数の偶然が介在し、不透明に混濁している。韓鶴子襲撃の断念、手製銃の製作と完成、安倍晋三のビデオメッセージを目にした時期、新型コロナの流行とクレジットカードさえ失効しそうな経済的窮迫、さらに意志と緊張の限界の自覚、その他もろもろ。

 四〇歳を過ぎて体力的にも精神的にも限界を感じはじめた山上徹也の脳裏には、受けた被害を主体的決断による加害で相殺することも、権利と名誉を回復することもなく、屈辱を抱えたまま無力に朽ち果てる未来が過よ ぎっ
たのかもしれない。「もう何をどうやっても向こう2~30年は明るい話が出て来そうにない」(二〇二二年六月一二日)と呟いたのは、暗殺決行の一ヵ月ほど前のことだ。

『鉛の魂』の「12 紙と錘」(二〇二二年九月)は、「ちょうど一年前の二〇二一年一〇月。/『ジョーカーたちはいつも行き先を間違える』と題したのは連載の第二回目だった」と書き出されている。しかし「ジョーカーはついに『正しい敵』に到達した」。「正しい敵」を撃ったジョーカーとは、いうまでもなく山上徹也のことだ。

「私を弱者に追いや」った統一教会は、岸信介元首相の支持と支援で日本に進出し、岸派を源流とする清和会を中心に自民党と癒着することで肥大化していく。統一教会による選挙支援を含めて祖父と父の政治的遺産を引き継いだ安倍晋三こそ、人生を賭けた復讐の標的にふさわしい。こうした判断から安倍銃撃が決行されたなら、「ジョーカーはついに『正しい敵』に到達した」といえるかもしれない。しかし、それは事実に反している。岸信介から安倍晋三にいたる統一教会との癒着にかんしてなら、はるか以前から山上徹也は把握していた。政治的ご都合主義として納得できない気持ちを残しながらも、しかし安倍政権への評価と期待は維持され続けた。

 では、どのような意味で「ジョーカーはついに『正しい敵』に到達した」のか。もしも韓鶴子暗殺に成功していても、「被害者」側の統一教会は非難を浴びることもなく一部からは同情さえ集めて、日本での教団活動は何事もなく続いたに違いない。しかし、だから安倍晋三こそ「正しい敵」だったというのは、有効性をめぐる機能的な判断にすぎない。失われた正義と奪われた尊厳の回復を切望する復讐者には、有効性の度合いなど二次的な問題にすぎないだろう。

今日は朝からずっとこれを聴いている。いずれ日本も革命的な何かが起こると思う。(二〇二二年一月二二日)

 山上徹也のツイートにある「これ」とは、トム・フーバー監督『レ・ミゼラブル』の冒頭場面で歌われる「囚人の歌ルック・ダウン」だ。傾いた大型帆船を荒れた海から、無数の囚人たちが何十本もの太い縄で、ドックに引き揚げようとしている。躰からだを半ば海水に浸して、喘あえぎながら縄を引く囚人たちに、冷たい大波が容赦なく落ちかかる。重労働に喘ぐ囚人たちは、ドックの上で監視する警官に「下を見ろルック・ダウン」と悲痛な声で叫ぶ。ドックの空間的な下として表象される「下」とは、社会的な下層、主人公のジャン・バルジャンを含む一九世紀フランスのプロレタリア貧民たちが押しこめられた社会の底辺に通じる。

 定職からも結婚からも排除されたロスジェネの非正規労働者が、ミュージカル映画で描かれる一九世紀の悲惨な人々レ ・ミゼラブルの絶望と怒号にひたすら耳を傾ける。この光景を暗殺事件に重ねないわけにはいかない。一月二六日には「恵まれた者、勝ち残った者、それがエゴに染まった時、己が義務を忘れた時、その富と名誉は必ず失われる事になっているんだよ」とも記している。

 貧困に喘ぐ氷河期世代の非正規労働者は、山上徹也本人を含めて小泉内閣以来の新自由主義政策の被害者ともいえる。もしもロスジェネ活動家が、小泉の後継政治家で自民党最大派閥の長である安倍晋三を撃ったのであれば、その日から猛烈なテロ非難と極左バッシングが吹き荒れ、攻撃の矛先は合法主義のリベラル左派にまで及んだに違いない。しかし安倍晋三は韓鶴子の代理として標的に選ばれたにすぎないし、安田善次郎を暗殺した朝日平吾のように、山上徹也は社会正義の意識からテロを決断したのでもない。自覚されていた動機は、あくまでも統一教会への私怨をはらすところにある。

 統一教会に人生を破壊された宗教二世、ロスジェネの非正規労働者、安倍政治を評価していた自民党支持者、反リベラルで反フェミニズムの弱者男性、ネットでの発言はネトウヨ……。これら無関係の、ある場合にはたがいに矛盾する諸要素が重畳して、安倍銃撃事件は日本社会に奥深い衝撃を与えた。

 ただし、この事件は秋葉原事件のような無差別的な暴力の爆発ではない。山上徹也を「ニヒリズムとスペクタクルの愚かさの時代――すなわち金融資本主義の時代――の〝ヒーロー〟」と捉えるのは間違っている。「マージナル化、ハラスメント、屈辱、怒り、復讐への欲望」などの点で山上徹也と加藤智大に共通するところがあるとはいえ、長期間に及ぶ周到な準備を前提として、一瞬のチャンスを逃すことなく、狙いすませた一撃で標的を倒した山上徹也の行動は、加藤のような、あるいは無数の無差別大量殺人者のような拡大自殺とは根本的に異なる。この点で山上徹也は、朝日平吾のようなテロリストを思わせるのだが、しかし、やはり違う。

 事件をめぐる不透明な印象は、山上徹也の行動が多数の要素の偶然的な交錯の結果だからだ。ある要素に焦点を絞れば明確な犯人像が構成できる。しかし別の要素からは、まったく違う人物像が導かれてしまう。事件の性格にかんしても同じことがいえる。

「山上徹也の革命……だが……」で杉田俊介は述べている。「山上徹也の行動、それは日本近代史と戦後史に切断線を走らせる歴史的な一撃だった。一つの小さな革命だった。そのことの意味を矮小化し、歴史修正するべきではない」。

 革命とは、ある歴史状況のもとでは絶対に不可能だと感じられていた決定的な出来事を、神仏にも運命にも頼らず、人間の地上的な力によって到来させることだ。人々の想像力の限界を書き換えることである。(略)暗殺の暴力を劣化コピーしたり暴発や誘爆に陥るのではなく、我々はいかにこの革命を別様に反復しうるのか。

 しかし革命を「到来させる」ことはできない。権力を打倒し歴史を変えるほどの巨大蜂起は神的暴力である。そして「神的」である限り、それは彼方から「到来する」。人々は神的暴力が到来する瞬間を待ち望むしかない。

 蜂起者たちは到来した無量の力に摑つかまれ、なにかに憑つ かれたように行動する。もちろん蜂起する諸個人に意志や目的がないとはいえない。無数の情熱と決断と希望が化学反応を起こして諸個人を超えた歴史的な力となる。

 偶然など存在しない、すべては必然だという観点もある。たがいに無関係である諸要素が必然的に重なりあったとするなら、なんらかの超越的な意志が作用していたに違いない。もしも山上徹也という一人の男が、摂理によ
って奈良の私鉄駅前に導かれたのなら、その銃撃もまた摂理の暴力だった。山上徹也は孤独な蜂起者だったのかもしれない。

 孤独な蜂起の場合も、彼方から到来した力に摑まれて行動する点は大衆蜂起と変わらない。「ジョーカーはついに『正しい敵』に到達した」という平井玄だが、山上徹也の行動を「神の暴力」であると明言することなく、またしても「二発一二個の散弾は標的以外の誰も傷つけていない」ことに読者の注意を促す。

ここに私は暗殺者が苦しみながらも養った「義と技」を強く感じている。ツイートの悪口雑言を超えた末期の姿勢、この「鉛の魂」に信を置きたいのである。 

 アラブの春、ニューヨークのウォール街占拠、スペインのM15運動などで記憶される二〇一一年は、一九六八年に続く世界的な同時蜂起の年だった。その波浪は東アジアにも及んで、香港の時代革命、台湾のひまわり革命、韓国のろうそく革命などが相次いだ。中国でさえ白紙革命が突発する今日、東アジア諸国で主権権力を震撼させる巨大蜂起が生じていない国は牢獄国家の北朝鮮と、この日本のみである。経済的に衰退し社会的に荒廃する日本、沈みゆく巨船にも似たこの社会は、しかし異様なまでの平穏さを保っている。山上徹也の放った銃声が一瞬、この不気味なまでの平穏を揺るがしたことは疑いない。

 もしも二〇二〇年代の日本に香港や韓国に匹敵する大衆蜂起が到来するなら、「二発一二個の散弾」は神的暴力の、先取りされた微小なかけらだったことになるかもしれない。でなければ山上徹也の私的な復讐として、銃声の記憶は風化していくだろう。

《ジャーロ No.89 2023 JULY 掲載》



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