詩(うた)、孤独の果てに
今朝、「岩手への旅」という記事を書いた。
この記事、はじめは今の2倍くらいの分量があった。僕が楽しかったこと、しんみりしたこと、旅のひとコマ……そういうものをぜんぶ詰めこんだ記事にしていた。それを公開してから、後悔した(しゃれ)。「自分の話になってるじゃん…」。
もともと、友人の詩の個展に寄せた記事だったのだし、東日本大震災に向き合うことが目的の旅だった。そこに焦点を合わせないのなら、自己満足の日記帳になってしまう。それで書き直した。
詩やエッセイ、本を書くときもだけれど、自己表現をどのくらいそこに入れたらよいかはむずかしい。あまり禁欲的だと、合理的な論文のようになりそうだし、読者との距離が遠くなる。でも、自分を入れすぎると読む方は「おなかいっぱいです…」って感じに。
ね🥳コマッタ
いつも読み手の目線に立つのがよいと思い直す。
商売の「お客さまが一番」と同じ。
話が少し変わるけれど、盛岡で見た友人の個展で「震災の経験はみんなちがう。一人ひとり、苦しさもなにを感じたかも、感じなかったかもちがう。そのため、誰もが話しづらい。お互いの思いを共有するのがむずかしいから…。でも、だからこそ「みんなつながっている」という姿勢を保つことが大切だ」というメッセージを、友人から受け取ったように思う。
友人が直接、上のような言葉を使ったわけではないけれど、詩や朗読、ふたりで話した時に彼が語ってくれたのは、「震災の経験がちがっても、ひとをへだてない」ということだったと感じる。
彼は東北にいたし、津波も見ていると思う。僕は東京にいて、揺れはしたが、けがひとつなかった。血縁やちかしい友人を津波で失ってもいない。
けれども、そういうことを言い出せば、深い苦しみも、さまざまな立場で感じる恐怖や不安も、ぜんぶフタをして言えなくなる。「もっとつらい人もいるから」「話をしても拒否されるだろうから」と。
彼の詩は、「みんなつながっている」とはっきり伝えていた。
日常でも、誰もが孤独を感じる。僕もときどき孤絶を感じる。どんな言葉も、態度もはねかえすか吸収してしまう壁に取り囲まれており、世の中から孤立しているように感じるときがある。
20代の頃はとくに24時間365日、孤絶しているというような、おおげさに言えばそんな感じだったから、自分が孤絶していることに気づくこともできなかった。その外がないから、孤独がわからない。
今は、友人といろいろな話をしたり、地域の仲間といっしょに活動する時間があるので、そうでないときに「ああ、この話を誰にも共有できないな」と考えるとき、自分が孤独だとわかる。
ひとりでない時間があるのは幸せなことだ。
それでも、やっぱり孤独の感覚は深く重い。
最初に戻ると、詩や表現で自己満足をやってしまうと、結局、自分も孤立してしまうし、読んだ方も作品を「遠く感じて」孤独を感じるかもしれない。やっぱり届くように言葉を紡ぐのがいい。
うたよ生れ 奥羽の山の峰越えて
孤独の果てに 届けこの詩
詩が心のかけ橋になれるなら、と願ってしまう。
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