主的趣的ジャック

先ほど「詩的私的ジャック」を読み終えた。
3時間近く睨めっこをしていた。
森博嗣の本を読み終えると文字を起こしたくなる。
今もその流れに沿って文を書いているわけだが、
表層上では一体何を書きたかったのかを忘れてしまった。
換気扇の下から喫煙セットを机に移動して、
匂いを付けたくない衣類を浴室へもって行き、
PCをメインの机に戻した(現在は読書をメインにしている時期なので、
PCはすぐ脇の本棚に乗せていた)のにも関わらずである。
その重労働を今の時間(1:47)にワザワザやったということは、
現在残しておきたい言葉が
多少なりあったはずなのに、忘れてしまっている
(こんな蛇足的な文を書いているのも、
書きながら忘れてしまった内容を思い出すことを目的としているのだ)。
すっかり表象の影もない。
しかし脳の奥深くにソレは必ずある。
表層に出てこないだけで深層にはある。
これは経験上そうだと言えるし、
そして森氏もどこかで言及していたと思うので裏も取れている。
それなのに今思い出せないというだけで、ソレを諦めることが多々ある。
喪失と諦念と後悔を肯定する。
受験の弊害か、それとも何かの弾みで付いてしまった強迫観念か、
あるいは幻想としての正義感か。
それはもったいない。どこかに存在していて、
それが表面に出てきていないだけだ。
人間はコンピュータではない。少なくとも私はそうではない。
ただし私は馬鹿でもない(と思うことにしよう)。
それを思い出すまでずっと考える。そうしたら出てくる、
と信じることが大切だ。そのような博打を打てるかどうか、
不確かなことを確かなことだと居直れるかが、
馬鹿者と馬鹿者ではない者の線引きなのではないかなと最近考えている。

ここ2日間は手持ちがない。つまり金がない。ほとんど無一文だ。
今日は午前の終わり位の時間に起き、特に何もしてない。
何もしていないのに時間は経つのは不思議だ。
テレビに動画だろう。書くのも憚られる位に無価値なことしかしていないし、
毎日同じことの繰り返しでしかない。
しかしそのような無価値の蓄積の中にも価値あるものが後々見つかるはずだ。
それは誰だってそうだ。
自分は特別だ、と思うこと自体が特別ではない。
恰好をつけるのが嫌いだという人は、恰好をつけないことが
恰好いいと思っているので、つまり恰好をつけている。
恰好よさとは恰好をつけないことか。結局これらの論理は、
鶏が先か卵が先かといった袋小路の論理に帰着するので
考えすぎない程度でいい(と森氏も触れていた)。

数学的美しさ。完璧なイコール。幾何学的形態。醜さから超越した美しさ。
その美しさに人間は耐えられるだろうか。耐えられる者は崇高であり、
耐えられない者が人間だ。人間はクリスタルではない。
しかし、その美しさに漸近することはできる。
ないものをあると想像し、仮定し、そして意思することができる。
またフィクションの中にその美しさを見出し、憧憬することはできる。
通常の社会的な意味で使用される強さと弱さの定義は
この文脈では逆転している。(自由とは思考だ。
そして芸術的(実験的デザインも)なモノづくりは
思考を形にするひとつの手段である。)
前述した「信じる強さ(博打のたとえ)」の中に、
その美しさはある。実現できるかどうかはここでは問題じゃない。
西之園「先生、夢と希望の違いは何でしょうか?」 
犀川は、美しさと夢は同義だと定義したのだと思う。
すなわち、夢とは信じる強さのことであり、
より正確には現実には存在しえない美しさがあることを認め、
そしてその存在を信じる、あるいは存在の肯定はしないが
否定もしない思考のことである。サンタクロースの存在を否定すること。
それは美しいことなのだろうか。
実現できるかどうかという具体的な目標は希望であり、夢ではない。
物理的に実現可能な手段があるものは希望であり、夢ではない。
夢とは抽象的な概念であり、具体性をもたない崇高さのことであり、
美しさを信じる尊さである。
定義するものだけが存在する。

大分、ズレてきた。思ってもないことを口にしているなあと。
でもこれでいい。珈琲を継ぎ足したくなる高揚感と疲労感。
時間を気にしないで思考する愉しさをただ享受する幸福と不幸。
疲れを快いとする合理と滑稽。身体の疲労さえなければ、
ずっと浸っていたい。疲労が限界を規定する。
疲労の定義をどう定めるかが、この先重要になってくるだろう。

さて話を戻すと、金がないという話だった。一段落前、冒頭の文句。
金がないから今こうやって文章を書けている。
金があったら今頃酔っ払って寝ている。
時間を気にすることなく何かをしていられること、
そして本を読めることがポイントだ。
つまり金があったらできない、
それとはまた別の価値があることを今できている。
コップに半分しか水がないと考えるか、
半分も水があると考えるかといった、発想の転換のいち類型だ。
コップに半分しか水がないことも正しく、半分も水があることも正しい。
事実の後には解釈があるだけだ。
定義するものだけが存在するのである。つまり、いずれも正しい。
正しさをどう定義するかが人の価値観を決定する。

例えば、いわゆる右翼の人間と左翼の人間は価値観が異なる。
価値観とはつまり、二項対立を成立させる基準のことである。
なぜ異なる価値観が生まれるのか。
それは例えば、正しさ(/誤り)をどう定義するかが
人によって異なるからである。
(時計を見てみたら3:16。
つまり90分もこうしてキーをエンターしていたことになる。
体感の経過時間は60分にも満たない、いや30分程度だ。
本当にそんなに時間が経ってしまったのだろうか。
時間なんてそんなものだ。
何分間、何をやったのかということに意味はない。
もちろん90分という時間が経ったという客観的な事実は変わらない。
しかし主観的解釈では30分なのだ。
こうして文章を打っていることに対して、
90分も書いたと考えることにどれだけの意味があるだろう。
30分にしてもそう。好きなことをしている場合に、
経過した時間自体には価値がない。
ただ「そんなに時間が経ったのか」と思う程度のことだ。
時間と行為の関係はそもそもない。
社会習慣上は関係づけられていることが前提である。
しかし、個人の享楽的行為は時間とは本来、無関係であるべきだと思う。
なぜなら、行為にではなく、
時間に楽しさを見出す弱さが人間にはあるからだ。閑話休題。 3:31)
では、正しさを定義する基準はどこにあるのだろう。

それは嗜好としか言いようがない。0に享楽を見出すことが嗜好である。
1に面白さを見つけることは多くの人にできる。
2や3、10と数が増えるにつけ大衆性が増す。
対象の価値0を1に変換できる場合に、
人は興味・関心があると言えるのではないか。
面白さを見出すことができない対象は0のままだ。
話を再び戻すと、正しさを定義する基準は、
どれだけ多くの0を1以上に変換しているかで
定義できると仮想的に言える。


※以下の前提知識...
 ・解釈とは事実や仮定を定義する(解釈→事実・仮定)。
 ・しかし、事実はそもそも客観的なものであり、
 解釈より先立つものだ(客観的事実→解釈)。
 ・しかし、いかなる概念も解釈を経なければ認識することはできない(記号論/記号学)。
 ・そして解釈自体は嗜好性によって定義される(嗜好→解釈)。
  → 嗜好は解釈の土台となる深層エリアに存在しており、
 普段は姿を現さないし、現したくない場合もあるかもしれない。
 ・しかし、鶏卵の理論に陥ること(事実⇔解釈)を前提に、
 事実はそれ自体で客観的に評価されなければならない(事実→解釈)。

論理とは目に見えない道筋を可視化するものである。
論理は普遍である。もちろん、特殊な例外は多い。
例外の方が実生活では多いと思う。
しかし論理とは「思いこみ」を排除する、
俗的ではない、聖的なものだとは言えないか。
解釈とは関係なく、不動の事実としてどこかに必ず存在している。
人間にできることはそれを発見、可視化することだけ。
複雑な現象は複雑な論理(つまり数字や記号)の組み合わせを要するので
正確な発見は難しいが、しかし単純な現象も多く存在する。
単純な現象の推測は考えればできる。考えなければできない。
「実際に当たった!すごいですね!」という特殊能力ではない。
順当な論理的帰結でしかない。
(論理的に)考えるか考えないかの選択の違いでしかない。
少なくとも自分はそんな印象をもっている。

定義するものだけが存在する、とはつまり
解釈するものだけが存在するということである。
それは諸刃である。
まずは客観的事実を観察しなければ解釈も自ずと屈折する。
客観的とは誰がどう観てもそう観えるという状態を
「認める」ということであり、科学的には繰り返し再現が可能である
事柄や状況のことだ。そこに解釈が挟み入る余地は本来ない。
それが「認める」ということだ。

「現代社会ではポスト真実などといった危うい言説が幅をきかせているが、
 これは情報技術が急進的に発達した今、
 10年前よりも重要性を増している。
 グローバル化、金融革命、情報革命。
 ポスト真実といったポピュリズムが台頭しているのは、
 現代人の知能が低下したのではなく、
 人間の知能が現代の高級な技術に対応しきれていないだけではないか」

そう仮定したとして、しかしその主張が正しいか否かは客観的事実に照らし、
検討する他ない。だが、 それを仮定の証明に資する客観的材料かどうかを
判断する際にも個人の「解釈」が入り込む余地がある。
解釈とはふつう主観的な評価という意味合いで使われる。
思い込みを排するには、解釈行為をする私は
行為の主体でありながら(形式的主観)、
しかし一方では行為の実質的な客体でもあるという
二面性を演じなければならない。
つまり主観と客観との矛盾の間で引き裂かれる主体であらねばならない。
そして本質的には後者の客体も、
主体の呪縛からは行為的にも意識の上でも逃れられない。
私から発せられるものは、
責任の主体として私に帰属する他ないからである。
(この矛盾から脱出するためにも、
國分功一郎「中動態の世界」を早く読みたいのだが
貸出中でまだ読めていない。)


「解釈ありきで論理は後付けだ」と犀川は言っているが、
それは人間の論理的思考はふつう客観的ではなく、
元来、個人の特殊な嗜好性に左右されやすい性質をもつことを意味する。
それを自覚し、主観にまずは抗うことが情報社会や
不当な政治が蔓延する現代において大切である。
反対に、 解釈が入り込むのは当然だと非建設的に開き直れば、
解釈だけに、そして嗜好性だけに支配される。
当然それは他者の場合でも同じだ。互いに行きつく果ては個人主義、
信じたいものだけを信じるポストトゥルースの時代から抜け出せず、
争いに発展する。

解釈に主観は必ず入り込む。そして嗜好の違いは必ず残る。
個人プレーのSNSでだれもかれもが好きな主張をし、
居心地のいい者、嗜好が合う者同士だけで連帯できる現代において、
それは色濃く残り、人々はより深く分断される。
現代技術は高級なものだ。安易に扱えば、
個々の嗜好に支配された世界に没入することになる。

事実→解釈という順序を特に現代では覚えておかねばならない。
今は、解釈ありきの事実が厚顔無恥に闊歩する時代だ。
そこには主観的な解釈しかない。
「定義するものだけが存在する、とはつまり
解釈するものだけが存在するということである。」と前述した。
悲観的に言えば、論理的にも実質的にも事実も解釈の範疇でしかないのだ。
しかし客観的立場の挿入によって異なる解釈の差異は自ずと縮まる。
結果的に、共通項を互いに保有しやすくなる。
それは論理という共通のルールによって繋がるからだ。
解釈は異なれど、客観主義を互いに前提にすれば、
その自己特殊性を没する態度の共有によって摩擦は軽減する。
その意味で、客観主義は相手の意見を尊重する態度なのだ。
その前提がなければ、互いに歩み寄りができる可能性は
なくなると言っていいと思う。
<事実/解釈>は折り重なり、多層的である。
いずれが鶏で卵かは不定だ。
そしてそれらは、嗜好性の影響を免れない。
しかし、それを知っていることが重要である。
そして自分の嗜好の特殊性は一体何なのかを考えることも。(6:23)

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