エジソンが言ったかどうかの真偽や誤訳なのかはさておき、 「天才とは1%のひらめきと 99%の努力である」というフレーズがある。 これを例えば、理論と実践について考える際の補助線としてみる。 理論は目に見えない。それは言語によって論理的に思考した時に現れてくる、 不可視のコードであって、実態はないし、可視化するために言葉が代用されているといえる。つまり理論を発見するかしないかに関わらず、カオスとコスモスの入り乱れたこの世界に、人知れず存在している。それが見えないだけだ。
先ほど「詩的私的ジャック」を読み終えた。 3時間近く睨めっこをしていた。 森博嗣の本を読み終えると文字を起こしたくなる。 今もその流れに沿って文を書いているわけだが、 表層上では一体何を書きたかったのかを忘れてしまった。 換気扇の下から喫煙セットを机に移動して、 匂いを付けたくない衣類を浴室へもって行き、 PCをメインの机に戻した(現在は読書をメインにしている時期なので、 PCはすぐ脇の本棚に乗せていた)のにも関わらずである。 その重労働を今の時間(1:47)にワザワザやった
疲れ感じることを死の前触れのように怖れている。 理由は翌日の授業に支障をきたしてしまったり、そもそも疲れや眠気を絶対に残してはいけないと思い込んでいるからではないだろうかと、ふと思いつく。 後者の線が濃厚だ。疲れや眠気は親の仇のように、あってはならない「悪」だと深いレベルで思い込んでいるに違いない。何故だろうか。疲労感や眠気には勝てないと経験的に「知っている」からではないか。すべきことやしたいことができなくなるばかりか、そもそもそれらは不快感をもたらすものだ。不快感は悪で
「昔書いた日記を読んでみると大分、今とは社会性というかそれに対する考え方が違っているなと感じます。昔は自分に対する評価が今よりもシンプルで分かりやすく正確であった、と思います。だからこそ、対外的に発せられる自分の言葉はある意味で取捨選択されることなく(言葉の選択の際の判断基準が複雑でなく)、自他ともに理解しやすいように思う。今では自分の言いたいことが何なのかも見失っているくらいには複雑な考えを持っているようです(皮肉る)。実際のところ複雑でもなんでもない。東北の南の方から、東
性格は人の前とひとり部屋にいる場合とでは異なる。 映画「式日」の藤谷文子はカメラを通して自己表現した。 原作者をメインキャラクターに据えているため、カメラも、「彼女(=藤谷文子)」が自然に言葉を話し、ありのまま振る舞うのを許しているように思える。 ありのままをそのままを映している。 我々は社会人であるから、ふつう自分の感性に従ってばかりはいられない。 でも「式日」のカメラはそれを撮影中に許すと同時に、映画としての価値も創り出すという二つの仕事をやってのけている。