思い込みのパレード

疲れ感じることを死の前触れのように怖れている。

理由は翌日の授業に支障をきたしてしまったり、そもそも疲れや眠気を絶対に残してはいけないと思い込んでいるからではないだろうかと、ふと思いつく。

後者の線が濃厚だ。疲れや眠気は親の仇のように、あってはならない「悪」だと深いレベルで思い込んでいるに違いない。何故だろうか。疲労感や眠気には勝てないと経験的に「知っている」からではないか。すべきことやしたいことができなくなるばかりか、そもそもそれらは不快感をもたらすものだ。不快感は悪であり敵である。そう脅えているように思える。そう定義したい。


疲れることはしたくない。眠気を残すことも嫌だ。眠気を残さないようにするには早めに寝ることが大切だ。1時、2時まで夜更かししていたら翌日に響く。正確には翌日のことを心配しているよりも、いつだって眠気や疲れを感じる不快な状態にあってはならないし、そうなったらもうゲームオーバーだと認識していると言ったほうが近いかもしれない。純粋悪的な恐怖でしかないのだろう。しかし、人間は疲れもするし眠くもなる。社会的な生活をする上では避けられない現象であるから、疲れや眠気を過剰に恐怖することによって損をする事態は避けられない。できれば損はしたくない。であるならば、その恐怖を乗り越えて、疲れや眠気を許す必要があるだろう。


それらを許すことが中々できないのは、疲れや眠気に対する恐怖感だけでなく、自分の嫌なことは絶対にしたくないという私の性格というか純粋善的な価値観をもっていることにも起因しているのではないか。完璧主義とも言える。善悪で二項対立を作り上げた後には、それら対立概念は交わってはならないと考えているようだ。つまり矛盾を怖れている。完璧主義は、完璧に仕上げなければいられないという正の過剰主義者と完璧でなければ一切やらないという負の過剰主義者を同時に生み出す。そこにあるのは1か0か、である。私は前者の気もあるが、後者の性格が色濃くあると思う。疲れや眠気の話と、快/不快の二項対立はガッチリとスクラムを組んで、知らぬ間に私を蝕んでいると考えられる。躁鬱の兆候があるように思う原因はここにある。私的に良いと思えるものには労力と時間を割き(継続性がないという新たな課題がこちらにはある)、悪いと思うものには徹底して近づかないという、皮肉とも真面目とも付かない言葉で評せば、美学が根を張っているのではないだろうか。


このままでもいいが、しかし、それも頭打ちではないか。現に私は損しかしていない。得をしていないのだ。損のストックはある程度溜まったので、次はまだ経験していない得を得たい。損得と言うより、勝ち負けと言ったほうが正確かもしれない。新たな環境(物理的、精神的に)に引っ越しをしてみたい。


そのためにはどうすればいいか。今もっている二項対立の悪の項を積極的に受け入れるのはどうか。これは現在の手持ち(完璧主義)を逆転し、活用する方針である。単純に、悪を退けてきたからこそ負けたというのならば悪を好意的に引き受ければいいという論理だ。つまり疲れや眠気、嫌だと思うこと、不快なことを進んで受け入れるということだ。これは他者論にも繋がる論理でもあるが、私論・即自論に焦点を合わせた「戦略」である。私のために、不快なことを引き受ける必要があるという主張になる。それが結果的に他者論に接続されるかもしれない、という順番だ。


話が抽象的になってしまったが、まず具体的にやるべきは、疲れや眠気を感じてしまうことを許すことだ。これは生物としてはどうしようもないことで、当然のように存在していていいものだと許すこと。そもそもは、眠気と疲れの話であった。


もし積極的にそれらを受け入れたならば、夜に酒を飲まないことにも繋がるし、疲れや眠気の対処法を実践レベルで考えることや(あるのが当然だと解釈することで、また新たな解決策を考える必要性が出てくる)、恐れていたものは実は虚像に過ぎなかったと気づくキッカケになるかもしれない。諺でいえば、虎穴に入らずんば虎子を得ずだろうか。対峙しないで拒否することではなく、恐れながらも対峙することで、対象の実態を明らかにし(ここにも思い込みの作用がある)、思い込みを排し(思い込みによる悪手は最低である)、実践レベルで対策や計画を立てる姿勢のことだ。抽象的なことを考える前に、具体的な状況情報をまず得ることが先決だと西之園さんが言っていたではないか。憂慮はいつも誇大で、杞憂に終わるだけだよね。そういったものを想像力とは呼びたくない。それは不適切で過剰な心配というものだ。想像力とは客観的な条件を用意して、そこから生まれるものだ。

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