(メモ)表現すること
性格は人の前とひとり部屋にいる場合とでは異なる。
映画「式日」の藤谷文子はカメラを通して自己表現した。
原作者をメインキャラクターに据えているため、カメラも、「彼女(=藤谷文子)」が自然に言葉を話し、ありのまま振る舞うのを許しているように思える。
ありのままをそのままを映している。
我々は社会人であるから、ふつう自分の感性に従ってばかりはいられない。
でも「式日」のカメラはそれを撮影中に許すと同時に、映画としての価値も創り出すという二つの仕事をやってのけている。
人は常に自分丸出しでは生きていけない。それを演者はそれを分かっていながらも、目前にあるカメラの前では自由だ。
この、自由と不自由の境界に映画が位置している。
非日常と日常という対比構造が、劇中の主人公(彼女)と演者(藤谷文子)にそのままリンクするも、また一方で重なり合わない部分をも浮き彫りにする。
そして人がありのままでいることとはどういう状態か、自分とはどういう存在か、どう表現するのかなどを明らかにする。
映像の中では自由が許される。演者の刹那的なその美しさ(と私は感じる)に心惹かれずにはいられない。
表現すること、そして表現者である人間の刹那的、瞬間的な美しさ・醜さ。
きれいはきたない。きたないは美しい。
人は自分にとってのリアルを追い求めるのではないか。
自分の現実を映す鏡を探している。
自分にとってのリアルが「感性」を通じて、外界に通じていく。
自分を表現してくれる他者を常に探している。
分かってくれる、分かってくれない。
そんな価値基準で人と出会い、別れる。
絵、音楽や文章を好きになり、嫌いになる。
だから、好きと嫌いという感情は自分の存在意義を確かめられる感性として、否が応でも人間に重要な価値観として、意識的か無意識的か現前してくる。
人間は自分という実態からは逃げられない。
どこで確かめるかという違いは人それぞれだが、根本は変わっていない。
わたしは表現をするか、表現をしないか、もしくは表現手段を自ら放棄し諦めるか。表現できる、してもいいということに気づいていないのか。
社会に生きているのだから、常識や金銭的な現実的な問題が「表現」の行使を妨げる。
そんな障壁を乗り越えてでも、自分の価値・存在を認めるか否定することができれば、表現する方法にしがみつくんではないだろうか。
表現することは恥ずかしいことだ。他者にしてみればよくも臆面なくそんなことを大っぴらに表現できたな(私は我慢して黙っているのに)。
と思うかもしれないし、自分にしても時間が経って振り返ってみれば、こんな恥ずかしいことを他者にわざわざ伝える必要があるのかと表現した後に後悔するかもしれない。
でも正直にありのままの自分を表現したかったら、
いつもは隠している内面の自分を表現したかったら、恥ずかしさは伴うもの。
だから「表現すること」は恥ずかしいことなのである。
でも、だからこそ表現する意味があるのだとも思う。
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