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1976年8月15日、夏の日の思い出(01)

60歳になり、一応定年を迎えることとなった。
ただこのご時世、定年を迎えたからと言って、定年退職する人は偏見かもしれないが公務員か大手企業の社員くらいだろう。
ましてや中小企業で退職金のない会社に勤めている私にとっては、あと数年は1年毎の雇用契約を交わし働かせてもらう。
これは会社側としても人手不足で仕事に慣れた者が退職しないで残ると言うことはメリットがあることなのだ。
少なくても私自身年金の受給は65歳からと考えている。定年前より労働時間が減りそれに伴い賃金も減るが安定した収入を得ることが出来る。
幸いひとり娘も大学を卒業するのでこれで一応金銭的な親の責任みたいものは終わる。夫婦ふたりが生活する上で質素な暮らしするのならどうにかなる。
そんなことを思いながら日々を過ごしていたとき、高校の時の同級生から『還暦を迎えて久々にクラス会をしようと思う。福岡県から北海道は遠いけど今まで1度も参加していないから今回はどう?何人かは亡くなったのもいるのでクラス全員が揃うわけではないがまだ元気なうちに1人でも多く参加してもらいたいと思う』という内容のメールが届いた。
私は、福岡県の南部に位置するみやま市というところに住んでいる。
みやま市というところは、福岡県南部にあり、瀬高町、高田町、山川町が合併し、2007年1月に発足した市である。
みやま市は、近隣以外からはどこにあるのと言われてしまうほど知名度は低い。ただ全国的に知名度のある地名でいうと大牟田市、柳川市、八女市と隣接して、その他に筑後市、熊本県の南関町、和水町とも隣接しているというとなんとなくだが位置がわかる。
休みの日の朝には、近くの清水山(みやま市)にトレッキングへ。
清水山の大観峠からはみやま市内、柳川市内、大牟田市の一部と有明海、そして、対岸の長崎県の雲仙岳や多良岳が望むことが出来る。
山の中の景色も季節の変化に応じて、椿、梅、桜、藤、紫陽花、ツツジなど花を目にすることが出来る。そして秋には紅葉も見られる。
標高300mちょっとと言ったところで、特に装備も必要なく、山歩きを楽しめることが出来る。
そして、周りには温泉地も多く、よく温泉へ行く。
そして、東京に住んでいたこともあるが断然物価が大都市圏と比較して低く、収入が低くても十分に快適な暮らしが出来ている。
私は、今ここに住んでいて良かったと思う。

帯広を家族で離れてから、始めは埼玉県の所沢市に住むことになった。仕事は東京都内で働くことにした。

何度かスキルアップのための転職と引っ越しをした。
かみさんとは、縁あって25年くらい前に結婚した。
結婚式はしないで役場に婚姻届を出しただけのこと。
結婚当初は、住まいを福岡県、仕事は東京ですると言った形だった。
かみさんが子どもをお腹に授かり、東京での仕事を辞めて、仕事も住まいから通える福岡県内の会社を探し転職した。
結果的にあっさりとスキルアップで積み上げた収入を捨て、年収が半分以下になってしまったが、妻と娘と3人で暮らすこと選んだ。そして今はこのみやま市で質素な生活を送っている。

私の父親の事業の行き詰まりと連帯保証人として多額の債務を被さったことが重なり、家や土地などの不動産、債券などすべて債権者に託して、ほとんど何もない状態で帯広から離れることになった。
自分自身、親友と言える存在は、決して多くはなかった。
帯広から離れて、3年くらい過ぎたころに生活が安定して来て、親友と私が思っていたふたりだけに居場所を知らせたのだ。そのふたりは高校の時に違うクラスだったこととしばらくは他の誰かに居場所のことは知らせないでくれと言っていたこともあって20年くらい同じクラスメートたちからは行方不明扱いされていた。
帯広から離れて20年くらい経ったころ、たまたま、同じクラスメートと私の住まいを知っている友人が飲んでいるときに私のことが話題になり、クラスメートに今住んでいる住所を教えていいかと言う連絡をもらい。
特に隠す必要もないと思いクラスメートに教えてもいいと言うとその後、同窓会名簿に『住所不明』とされていたが、そのことで現在の住んでいる住所が記載されることになった。同窓会などの案内や数人からの年賀状が送られるようになった。
クラス会だが福岡県から北海道まで行くとなるとかなり金もかかるので、今回も不参加ということにしょうと思っていた。
そのクラス会の案内のメールが来てから数日経って、数少ない自ら自分の居場所を教えていた友人からメールが来た。
『先日、雪さんが亡くなりました』という短いものだった。
私は、雪が末期癌で余命があとわずかだということは、このメールを送ってきた友人から聞いていた。
雪という女性は、私が中学生のときに仲良くしていた女の子だった。
雪と最後に会ったのは、雪が帯広から函館へ引っ越すときだった。
それから、10年後再び雪が帯広に住むことになったときには、私は帯広から遠く離れたところで暮らしていた。
雪は、30歳の時に未婚のまま子どもを産み、20年くらい前から帯広でスナックを営んでいた。
私の友人の1人がオープン当初から利用して常連となっていた。
彼は私の親友と呼べる友人で高校で出会ってからの付き合いなので、私の中学校の頃ことは知らない。

ある時、私のことが話題になった時、雪が『私』のことと酷似していることに気付き、色々確認するなかで雪が『私』だと言うことを確信した。
それで友人の携帯電話から私に電話がありその時雪と話したことがある。
雪は、帯広に戻って来てから、数年『私』の所在を探したが手がかりも見つからなかったから、探すことやめたこと。
今、スナックをしていること。
一度結婚を考えたこともあったが結婚はしないでその時の相手のとの間に出来た子どもを産んで1人で育ているなどのことを雪が言った。
私はと言うと簡単に帯広から離れた経緯や現在結婚して福岡県で暮らしているなどの他愛ないことしか話せかなかった。
雪は最後に「行方が知れなかったが生きていることだけが知れて良かった」と言った。
そして、それぞれの生活もあるので電話もこれが最後で会わないでおこうと決めた。
でもそれからもお互い気になるところがあり、時折友人から雪のことを聞いていたし、雪の方も友人から私のことを聞いていたようだ。
今になって、会わないでいたことが良かったのか、1度だけでも会ったほうが良かったかはわからない。
もう、雪と会うことが出来ないがもしクラス会などで帯広へ行くことがあるのなら墓参りくらいはしようと思った。

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