見出し画像

嫉妬ではなさそうな胸がカァーってなるアレ、大事なのかもしれない

いつも通りインスタを眺めていたら、明らかに日本ではない美しい街並み。
学生時代に仲の良かった友人の投稿でした。

私は彼女と仲は良かったけれど、卒業後の進路については知りませんでした。彼女は繊細な人だと知っていたから、なんとなく就活の進捗なんてセンシティブな話題な気がして、聞けませんでした。

ある日の彼女のストーリーに出てきたとあるドーナツ屋さん。それは、海外にしかないお店でした。
そこで私は「あぁ、彼女は留学しているんだ」と気づきました。

その瞬間、胸がザワザワっとして、カァーっとなって、思考が止まってしまいました。

メッセージを送ると、彼女は1年間の留学に行っているとのことでした。語学か学部留学かはわかりませんが、1年と聞くと、結構しっかり留学するんだなと私は感じます。
彼女は、学生のときからその国に留学したいとよく言っていました。しかし、私たちの代はコロナで留学を断念した人が多かった学年。彼女もその一人でした。

友人として夢が叶ったことをとてもうれしく思う一方で、名前はないけど、もう一つ別の心の動きがありました。
嫉妬でもないし、もちろん怒りでもない。でも、「留学してるの?」と聞くとき、なぜだかドキドキしてしまっていた。

「あぁ、私も行きたかったのにな」

知らんがな。自分でもそう思いました。
現状に満足していれば、他人が夢を実現していようが「よかったね」で終わります。しかし、私は嫌々就職して、結果やっぱり毎日仕事に対して不満が募っているというのもあり、余計「私はこんななのに」的な何かがあるのでしょう。知らんがな。

私も大学卒業間際、就職せず、大学院や留学・ワーホリに行くのもいいな、むしろ許されるならその方がいいなと思っていました。
でも、結局就職を選んだのは、新卒ブランドプラチナ級の日本で、新卒カードを捨てて留学することや、就職に有利になるとは言われていない文系の院進に対して、底なしの不安があったからです。
だから、私は卒業後の留学という道を選ぶことができた彼女を、とても尊敬します。

私の知る限り、彼女はぶっ飛んだタイプではないし、我が道を行くタイプの人でもありません。留学を決意するまでには葛藤があったのでしょうが、それでも夢を実現することを選んだのは、まぎれもなく彼女の強さです。
逆に言えば、今日も私が嫌々電車に乗っているのは、夢と不安を天秤にかけて不安が勝ってしまった当時の私の弱さのせいです。

厳しい親のもとで育った私は、やりたいことをやらせてもらえたことがありません。だから私は、自分がやりたいことができないことを、子の好きなようにさせてくれない親のせいにすることができました。そして、今日の自分の有り様も親のせいにし、思い通りにならなければ親を恨んでいればよかったのです。

社会人になり、親元を離れた今、私には自分で人生を創っていく自由と権利があります。
それは私が何年も望んでいたものです。「それさえあれば、私は幸せになれるのに」とさえ思ってきました。
しかし、その念願の自由と権利を手にしてやっと気づくのです。同時に、これから何度も選択の場に、ある種の賭けの場に立たされることに。
これからは、自分の人生に関わる選択の機会の度に、様々なことを考え、不安や恐怖に向き合わなければいけません。
私が望む人生を生きられないのは、もう誰のせいでもなく、自分のせいなのです。
私が留学できず、好きでもない仕事をしているのは、東京でのそこそこ楽しい暮らしと多少のリスクと我慢付の留学を天秤にかけて、前者をとったからです。私がリスクと不安さえ受け入れられていたら、費用なんて問題にならなかったでしょう。上京費用や娯楽費を充てればよかったのですから。
今日の不満は過去の私の弱さが招いたものです。
友人の夢を叶えた姿を見て、私はそのことを再認識しました。
そして、私はもう自分の決意次第で、どんな道にでも飛び込むことができるんだなということも、改めて実感しました。

私は、「本当はやりたいことがあるのにできない」という人の中には、複雑な事情があって、“本気度” やら “やる気” やらでどうにもできないこともあると思っています。
私自身もそうだったと思っていますし、今も親のせいだと思っています。
「でもそれ選んだの自分でしょ?」とか「やりたいならやればいいじゃん」とか、軽々しく言う人には(視野・・・)と思いますし、それでやってこられた自分が恵まれているだけだということに気づかない、きわめて強者側の意見だなと思って、悲しくなります。

でも、強者のみなさまも、背後に安定した基盤があるのだとしても、きっと大きさの差はあれど、人生の節目節目でリスクを背負いながら決断をしてきたのだと思います。
その人たちとの違いは、「ダメでも何とかなる」と思うか「失敗したら人生終わる」と思うか。
思考のこの部分はこれまでの経験の積み重ねなので、急に変わるものではないでしょう。だから、私のような人は、ダメだったときのセーフティネット、プランBを自分で作りながら、小さな挑戦、小さな賭け、小さな決断を積み重ねていくしかないと思っています。

それに、きっと今満足そうに生きている大人たちも、「あのときこうしていれば」が沢山あって、それでも「次は後悔しないように」と今できることをやって、人生を築いていっているのだろうな、なんて想像しています。

他人の幸せそうな姿を見て、ポジティブな感情が湧いてこない。スルーさえできない自分に気づくと、自分の性悪さに自己嫌悪に陥ります。
でも、胸がカァーっとなるあれ。自分の秘めた望みやサインかもしれません。
“本当に幸せ”になるために、見て見ぬふりをしないほうがよいのではないかと思います。そこにヒントが隠されているような気がするから。
日々生きていて、「すごく辛いかと言われたらそんなことはないし、そこそこ満足のいく生活をしているけど、たぶんこれじゃないんだろうなぁ」という違和感のようなものがある人は、そんな心の動きに目を向けてみるのはいかがでしょうか。

この話で一つ救われたのは、学生時代、彼女にとって私がロールモデルだったと教えてくれたこと。
私は私のやりたいことの一つも叶えられていないんじゃないかと焦ったり、努力できない自分が大嫌いだったりするけれど、周囲の人の目には「行動力があって、いつも目標のために努力を惜しまない人」と映っていたようです。「人によい影響を与えられる人になりたい」という目標を掲げて、いかにも “いいこと” ということをやっていた時期もありましたが、自分の人生に没頭していれば、人は勝手に刺激を受けてくれるものなのだと学びました。
私が彼女の夢の人生の一部に少しでもなれているのだとしたら、そんなうれしいことはありません。

自分の人生のディレクター兼プロデューサー兼アクターになった今、やりたいこと、全部欲張りに叶えていきたいです。


「主よ、変えられないものを受け入れる心の静けさと、変えられるものを変える勇気と、その両者を見分ける英知を我に与え給え」

「ニーバーの祈り」


この記事が参加している募集

#スキしてみて

525,870件

ぜひサポートをお願いします🕊