アメリカのSUSHIについて
アメリカに来た当初、私にとって許しがたかったことの一つが、カリフォルニアロールに代表されるアメリカのSUSHIだった。
日本と比べてはいかんと思いつつも、ネタの鮮度と味が圧倒的に劣る。だからでもあるのだろうが、揚げカスやらアボカドのようなこってりしたものが巻いてあったり、かけてあったり。また、マヨネーズ、スパイシーソースなど、味のしっかりしたソースがかかっていることが多い。
美味しいことは美味しい。でもさ、寿司っていうのは、素材の味を楽しむものなのよ。まぐろにスパイシーソース?そんなのかけたら、まぐろの味が消えてしまうやん、もったいない!なに、エビ天巻き?もはやそれは寿司とは呼ばないのだよ。
「ああ、アメリカ人はわかってないなあ」と、私は冷ややかな目で見ていた。夫は、日本の本当の寿司を知っているので、アメリカのSUSHIがそれとは別物であることはわかっているが、それはそれ、これはこれという仕切りをしていているようだった。そして、寿司であろうがSUSHIであろうがいずれも好きな夫が、定期的にSUSHIをテイクアウトしたがるので、私も付き合って食べていた。
でも、アメリカにある独創性豊かなSUSHIを食べているうちに、私は気付いた。
つまり、これは本家の寿司を目指して方向を間違えてしまったものではなく、初めから誰も作ったことのない新しいSUSHIとして発展を遂げてきたものだということ。鮮度と質で勝負する本家の寿司を、世界で受け入れられやすいように形や素材を変え、翻訳されたのがSUSHIだったのだ。
そういう見方に変わった途端、この全く別物のSUSHIを作り出してきた人々のクリエイティビティに敬意すら覚えた。寿司とはこういうもの、という固定概念にとらわれることなく、全く新しい発想でいまも進化し続けている。アメリカにある素材で、寿司職人でなくても作れて、人々の口に合うものになるように。もっと新しくて面白い境地を目指して。
実は、今夜もSUSHIをテイクアウトしたばかり。頼んだメニューはこれ(写真を撮っておけば良かった)。
かつての私が見たら、あまりの邪道さにめまいがしたと思う。
でも、この本道から堂々と外れて、独自の道を歩み、そしてこれからも弛まず歩んでいくであろうアメリカのSUSHIが、私の中で勝手に擬人化されて、カッコよく見えて仕方ない。
こんな人(?)に私もなりたい。
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