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タイ

私の中のタイは、とんがっている。

おそらくこれは、タイの仏像の印象が強く残っているからだろう。

日本のものと比べてタイの仏像は、頭に何かとんがったものが着いている。螺髪の上に、漫画で描かれる炎のような形の何かが乗っかっているのだ。また、顔のパーツや、身につけている装飾品も、細長くとんがっているという印象がある。

仏像は、人々の信心を呼び起こし、安心感を与えることが役目である。したがってその目的に沿うようにデザインされることがほとんどだろう。例えば、奈良の大仏が大きいのは、そういうものの方が”頼りがいがありそう”だからであるし、観音菩薩の顔が柔和なのは、その方が安心できるからである。

そう考えると、タイの人々は、あの、なんだかとんがっている仏像に安心感を覚えているということになる。

また、私の中のタイは金ピカでもある。

寺院や踊りの衣装などもそうだが、やはりこれも、仏像のイメージが投影されていると思う。

金ピカのものには迫力がある。仏像に威厳をもたせるにはもってこいの方法なのかもしれない。タイだけでなく、日本の仏像にも金ピカのものがたくさんあるが、これが理由だと思う。

また、少し話はそれるが、金ピカつながりで言うと、国際ゴシック様式と呼ばれる絵画には金箔が惜しみなく使われている。この様式では、キリストやマリア、王族などが描かれることが多いのだが、ここでも金ぴかの威厳を借りているのかもしれない。

これらを見ていくと、人間は昔から普遍的に金ピカのものに威厳を感じてきたのではないかという仮設がたつ。

しかしその一方で、金ピカで威厳をつけているという点では結びついている世界中にある様々なもの、例えば、タイの仏像と日本の仏像は、それ以外の部分では異なっていることがある。上でも述べたが、例えばタイのものはとんがっているが、日本のものは丸っこいのが多い。

人間が仏像という形で具現化したいものには共通性がある。上で述べたような、信頼感や安心感が持てるものである。

しかしながら、そのように同じものを求めていたとしても、人間は必ずしも同じ表現をするわけではないということが、タイと日本の仏像を見ると分かる。

金ピカという共通項があることによって両者の違いがより目立って見える。換言すると、人間にとって普遍的なものによって浮き彫りにされる非普遍的なものの存在。これが私が両者から感じるものである。これはいわゆる、文化の違いというやつだろう。

異文化理解という言葉がある。その本質は、自分を含めた全ての人間が普遍的に求めているものに対する理解と、その表現の作法の文化的な違いに対する理解ということなのかもしれない。


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