レコードのススメ 〜音楽は聞くな 触れ〜
私達がレコードで音楽を聞く必要があるのは、紛れもなく、それが物質であることが理由である。
音楽を聞くという行為は、何も、ただ何がしかの媒体から放たれた空気振動が鼓膜を揺らすということに終始するものではない。鼓膜が揺れる瞬間までに何があったのか。その文脈も含めて、音楽を聞くという行為は説明されなければならない。
新宿駅の前などを通りかかると、ストリート・ミュージシャンが演奏している場面に頻繁に出くわす。中にはその場でCDを販売している人もいる。
彼の歌っているその曲に注目してみよう。
たまたま道端で出会い、なんとなく聞いてみたその曲。なんだかぐっと来るものがあったので、CDを買い、ときたま聞くようになったとする。
あなたにとってそのCDから流れるその曲は、あの日あの時あの場所で、あの感情と共に出会った曲であるため、何度聞いてもそのときのことが思い出され、胸にぐっと来る。
ある日、友人を家に招く。音楽の趣味が合う彼にその曲を聞いてもらおうと、CDを流す。しかし彼は、「いい感じだね。」などと相槌は打つものの、どうもそれ以上の感情を持ち合わせてはいないようである。
前に一緒にCDを買って、一緒に家で聞いたときには同じ感情を共有していたはずなのに、今回は違うようである。
なぜなら、文脈が違うからである。
ストリートでその曲と運命的な出会いをし、CDを買って帰ってきたあなたと、あなたの家でその曲をちょっと紹介されただけの彼とでは、今ここでその曲を聞くまでにたどってきた道のりが全く違うのである。
厳密に言えば、この時、あなたと彼は同じ曲を聞いていないのだと、私は言いたい。確かに、同じ音波が鼓膜を揺らしてはいるが、その実、脳細胞がその振動を処理する際に用いる文法は異なっている。その曲が心に作り出す現象は違っている。
レコードの話に戻る。
レコードとは何か?
それは黒い円盤で、紙でできたスリーブに入っている。ある程度の重さがあり、中古品であれば独特の匂いを漂わせていることもある。部屋に置いておくにはスペースが必要で、表紙がこちらを向くように設置すれば、一枚のポスターのような役割も果たす。
これを使って音楽を聞くためには、まずこれを購入しなければならない。これは今日日、インターネットでも可能だが、市場に出回っているレコードのほとんどが中古品であり、そうである以上、実際に実物を見て、その盤面の状態を確認するのが定石である。そうして厳選した一枚を電車に揺られて持ち帰り、レコードプレーヤーに設置する。再生機器の電源を入れ、ターンテーブルを回し、針を盤面に落とす。
数秒間のノイズ音の後、一曲目が再生され始める。スピーカーの前に置いた椅子に腰をかけ、スリーブや歌詞カードを眺めながら、その音に耳を傾ける。
これがレコードであり、レコードを聞くときの文脈である。
ユーチューブで音楽を聞く場合も併記してみる。
スマホのロックを解除し、アプリを開く。曲名を検索し、サムネイルをタップ。ちなみにこのとき、ベッドで寝転んでいるため、天井を向いた右耳だけが音を拾う。
この両者の間には、同じ音源にたどり着くまでに果てしない文脈の差がある。それはちょうど、観光地をグーグル・マップで下見することと、実際に現地に出向くことほどの差である。
ストリートビューを使い、目的地周辺を一覧すれば、一応、その場所がどのようなところかを確認することができる。しかし、やはり現地に出向かないと発見できないものも膨大にある。それは例えば、道端に咲く花のゆらめきといった小さく具体的なものから、空気感といった大雑把なものまで様々である。
また、私達が、ストリートビューで見ただけの場所には、「行ったことがある。」などと決して言うことが無いことからも分かるように、実際に現地に出向き、実物を見たという事実は、ただ情報を確認するという以上の意味を私達に対して、もう少し具体的に言えば、私達の”心”に対して持っているのではないだろうか。
「身体的な経験として、そこに存在している物質と実際に対峙する」という事実に対して、私達は無意識のうちに大きな価値を見出しているのではないだろうか?
この事実を裏付けるものは世に溢れているが、一例を上げるのならば、それはお土産屋さんの存在である。
おそらく世界中、どこの街に行っても、そこに少しばかりでも観光資源があれば、お土産屋さんは存在している。キーホルダーやマグネット、ボールペンやお菓子の累々。その場所にゆかりのあるものを中心に、時には全く関係の無いものまでところ狭しと並んでいる姿は、一度でも旅行をしたことがある人なら容易に思い浮かべることができるだろう。
沖縄の国際通りなどを歩けば、本当にお土産屋さんしかないようなセクションも散見される。ここで、改めてお土産とは何なのかを考えてみたい。
お土産とは何か?
例えば、シーサーのキーホルダーを例に取ってみよう。ニッコリと笑顔をたたえた小さなオレンジ色のシーサーが2つぶらさがっている、可愛らしいキーホルダーである。友人との沖縄旅行の最終日、自分のためのお土産にと、那覇空港で買ったのだ。
しかし、家に帰って荷解きをしていると、このキーホルダーをどこにつけようかと悩んでいる自分を発見する。スマホにはつける所がないし、かばんに付ければ、いかにも”行ってきました感”が出てなんだか恥ずかしい。思いあぐねたあげく、結局はとりあえず机の引き出しにしまっておこう、という結論になる。
大抵のお土産の末路は、結局はこのようなものである。もちろん、お菓子などは食べるだろうが、それ以外のあらゆるグッズは、殆どの場合、一生引き出しや押し入れの中にしまわれ、実際に使用されることはまず無い。
つまり、ちょっと冷めた目で見てしまうと、お土産というのは、本来はほとんど必要の無いものなのだ。
また、別の視点で言うと、お土産は旅行の思い出を大きく変えるものでもない。旅の最後でキーホルダーを一つ買おうが買うまいが、シュノーケリングをしたことが楽しかったという気持ちが変化するということはない。
しかし、私達はお土産を買うのだ。そして、世界中のお土産屋は(少なくともコロナ前までは)繁栄し続けてきたのだ。
これこそが、上記した「身体的な経験として、そこに存在している物質と実際に対峙する」という事実に対して、私達が無意識のうちに大きな価値を見出しているということの証拠である。
つまり、特に使用用途もなく、旅行の経験を変えるものでも無いものを、お金を払ってまで手元に置いておきたいという一見不可解な欲求の存在は、その裏に、そのような形で、実際に何か物質を持って置かなければ補完できない感覚が私達の中にあるという事実が潜んでいるということを証明している。
言い換えれば、別に必要では無い物だけど、なんとなく持っておきたい。という気持ちは、その、「なんとなく持っている」ということに私達が価値を見出しているということを裏付けているのだ。
そしてこれは、旅行の思い出に限った話ではなく、音楽においても同じことが言える。
先程、レコードを聞く際の文脈を書き連ねたが、これは、レコードが物質であるという事実に起因するものばかりだった。ユーチューブの例と比べていただけると分かりやすいはずだ。
どんな感じの曲なのか。その情報を得るだけであれば、適当にスマホで流して聞くだけでも十分である。しかしながら、実際に物質として、”触れられるもの”としてその音楽を所有しているという事実が、人間にとっては大事なのでり、音楽を聞く際の文脈を大きく形作るものなのである。そして、「音楽を聞く」という経験そのものを大きく変えるものなのである。
だから、我々はレコードで音楽を聞く必要があるのだ。
本当にその曲が好きで、「その曲聞いたよ!」と、視聴経験を語るためには、その背景に身体性を伴った文脈を確保する必要があるのではないだろうか。そうしなければ、いつまでもストリートビューに留まってしまうことになるのではないか。そしてそれは、歴史に名を残す天才たちが生み出してきた数々の傑作に"触れる"上で、この上なくもったいない態度ではないだろうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!