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表情筋に血を注いで仕事をするために
仕事をしているとき、自分は一体何をしているのだろうという感覚に陥ることがある。
自分が今注意を向け、その五感や手足耳目を導入している”これ”は、一体どういうものなのか、突然分からなくなることがある。
しかしながら、このように思ってしまう理由自体ははっきりしている。
それは、仕事というものが、その構造上、多数の要素からなる複合体だからである。
仕事を構成する要素としては、以下のようなものがある。
実際に行っている作業そのもの。一緒に働く従業員との人間関係(しばしば、単なる仕事上のつながりを超えた人間関係の醸成も含む)。承認欲求の充足。自己実現。生活費の取得。余暇を楽しむための資金調達。暇つぶし。社会貢献。嫌いなアイツへの嫌がらせ。会社の利益の追求。顧客の利益の追求。社会とのつながり。生きる意味や生きがい。
職場で供給さているものは他にもあるかもしれないが、ざっと書いただけでもこれだけの要素によって仕事という概念は構成されている。
だから、私は分からなくなるのだ。
自分が現在行っている作業(例えば、エクセルで何かのデータをまとめているとしよう)は、お金を稼ぐためにやっているのか、上司に気を使ってやっているのか、社会貢献につながるからやっているのか。はたまた、ただ単に嫌いな同僚を出し抜こうとしてやっているのか。
もちろん、全て兼ね備えている、同時に行っているんだよ、と言われればそれまでかもしれない。
しかし、自分の行っていることが、これだけ多様な意味を含んでいるということを逐一頭で処理しながら動き続けることは可能だろうか?
私には無理である。考え込んでしまって、手が止まる。
目標は明確にしないと達成できない、とよく言われる。
できるだけ具体的にイメージすることで、そこに近づいていける、と。
仕事でも、毎期の評価のために目標というものを立てる。
これこれの数字をここまで上げるように頑張ります。
具体的な内容が要求され、そのように記述し、一旦それを目指して今期を頑張るということにする。
確かにここに掲げた目標は具体的だ。そこには上記したような複雑さは無いように感じる。
しかしながら、その目標のもっと根本にある、なぜそれが目標になるのか?という問いは、全くの別物として、やはりそこに残り続けている。
自分がこの目標のために頑張るのは、お金が欲しいから?人間関係を悪くしたくないから?自己実現につながるから?社会に貢献できるから?生きる意味が欲しいから…?
結局はここのモヤモヤに再度突き当たってしまう。
意識というものには光と同じ性質があるようだ。
多種多様な色のついた光を集めると真っ白になるように、ごちゃごちゃした意識も、しばらく混ぜ合わせていると思考停止という真っ白な状態に落ち着く。
そして「とりあえず、やる。言われたから、やる。」
というくらいの思考しかできなくなってしまう。
多くの人間が無表情で(時には青白い顔をして)黙々と仕事をこなしているのは、このように意識が真っ白になっているからだ。
では、この状態から脱するためにはどうすればいいか。
ある特定の光を意図的に強くればいいのである。
赤い光を他の光の何倍も強くすれば、白味がかった意識が、ほんのり赤く染まる。
このように、自分の中で、これはこれこれのためにやっているのだ、ということを割り切って、強く意識しながら働くようにするのだ。
もちろん、そうしたところでその他の要素がなくなるわけではない。
いくら、お金のためだけ!と強く思っていても、人間関係や社会貢献を無視することはできない(それらは関連している)。
しかし、こうすることによって、その手を止めていた頭の中の霧は少し晴れるはずだ。
働くということは未だに複雑な構造をしているが、そこにある程度の序列を見出すことができ、一定の方向性を持って仕事に望めるようになる。
そうすれば、その表情筋にも、赤い血液が少しずつ注がれるようになるのではないだろうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!