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コロナ禍!京都旅行その3(嵐山その1 渡月橋〜天龍寺)

 旅行二日目、正午、嵐山に到着した。駅から出ると天気は快晴。今日も日差しが容赦なく照りつける。例のごとくグーグルマップを読み違え、普通は観光客が通らない道を進むと、川沿いの道に出た。そこで見つけた道路標識には「嵐山」の文字。その先には、かの有名な渡月橋と思しき橋も見える。

 川沿いを進んで行くと松並木が見え、これがなんとも言えない雰囲気を作り出している。渡月橋近くの川沿いに腰を下ろし、しばらくぼーっと川をながめていると、川面から一羽の鵜が顔を出し、またすぐに沈んでいった。この川では鵜飼もあると聞く。

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 渡月橋という名前がきれいだなと思い、由来を検索してみる。真っ直ぐな橋の上を月が渡っている様子からこう名付けられたのだとか。試しに目をつぶって夜の景色を思い浮かべてみる。渡月橋の上に広がる静かな夜空を月がゆっくりと流れていく様子を想像し、橋がかけられた時代に思いをはせると、なんとも言えない趣を感じた。これが古都の力なのだろうか。

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 渡月橋を渡る。このご時世、ここも非常に観光客が少ない。渡りきったところで昼食を済ませ、もう一度渡ってもとの岸へと戻ってきた。

 次の目的地は世界遺産、天龍寺である。そこには、渡月橋から歩いて10分もしないうちに到着した。山門をくぐってから本堂に行くまでに200mほどの石畳があるのだが、そこを歩き始めたとき、前方にちょっと無視できない人影を発見した。それは二人組の女性であったのだが、片方の女性は鮮やかな赤のワンピースを着ており、その右を並んで歩く女性は、真っ黒のワンピースを着ている。

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 ひらひらと裾をゆらしながら歩いていく彼女らをしばらく見ていると、私は以前にこのようなものをどこかで見たことがあるということに気がついた。金魚である。正確には出目金だ。

 高校の頃、放課後に友達に誘われて金魚屋に何度か通ったことがあるのだが、そのときに大きな水槽でひらひら可愛らしく泳いでいたあの出目金。涼しげに水中を踊るその姿を彼女らの後ろ姿に見た私は、こんな涼のとり方もあるのだなと、楽しくなった。

 天龍寺で最初に向かったのは法堂(はっとう)である。ここの天井には雲龍図という龍の絵が書かれている。中に入って天井を見上げると、雲中でとぐろを巻いた龍がこちらを見下ろし睨んでいるという構図なのであるが、不思議なことに、いくら歩きまわっても、その目はずっとこちらを見つめ続けているのである。歩いても歩いてもその眼光からは逃れられない。誰かに見て欲しい!と常に考えているような自己顕示欲の強い人にはもってこいの場所であるので、おすすめしたい。


 次に、大方丈と小方丈を観覧した。ここからは美しい曹源池庭園を眺めることができる。まずは大方丈の縁側に腰を下ろしてじっくりと庭を楽しむことにした。最初は10〜20人程いた観光客もいつの間にかいなくなり、気づくと私一人になっていた。

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 こんなに美しい庭を独り占めできるなんて、昔の貴族にでもなった気分だと浮かれた私だったが、すぐにこの空間の雰囲気に引き込まれ、心が静かになった。遠くにセミの声と、鳥のさえずりが聞こえている。大きな鯉がゆらゆらと泳ぐ池の上を、時おり燕と思しき小さな鳥が数羽、大きな弧を描いて飛んだ後、水面をかすめてまた飛び去っていく。肌に風を感じると、木々の葉がサラサラと擦れ合う音も聞こえてくる。

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 しばらくそこに座って、そういった目の前で起こる現象をただぼーっと眺めていると、この庭にはこの世の全てが凝縮されて表現されているように感じた。様々な生命(魚、鳥、虫、植物など)が、風と水と陽の光の中で相互に距離を保ちながらそれぞれの営みを全うしている。そしてそれを見つめている私もその一部である。私のような煩悩の塊でも、禅とは、そして悟りとはこういうものなのかと分かったような気になってしまった。


 小方丈へと向かう通路の周囲にも美しい庭が作られていた。その一角で私は足を止め、少しかがんでカメラを構え、シャッターを切った。私はそこから見える景色に、広大な山河を見た気がした。実際にはすぐ足元に作られた小さな庭の景色であるのだが、そこには庭を作った人々の、雄大な自然を再現したいという思いが込められているように感じた。

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 そこにある小川は渓谷を流れる川を、小石はその川の水を砕く岩を表現しているように感じたのだ。宿泊中の友人宅がある亀岡市から嵐山に電車で来る途中に山を超えるのであるが、その道中、車窓から、豊かに霧をたたえた渓谷とそこを流れる川を目にすることができる。この庭は、まさにその景色を私の心のなかに再現してくれていた。

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(トロッコ列車の車窓から)

 大は小をかねるということわざがあるが、この庭は”小に大をかねさせる芸術”、と言うことができるのではないだろうか。広い土地を確保しにくい中で、雄大な自然を身近に感じていたいという思いが、限られた空間に山河を、そして宇宙を表現する工夫を生み出したのではないだろうか。


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