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第6話:「うどん県」香川には、かつて大河が流れていた

ジオリブ研究所所長、ジオ・アクティビストの巽です。

香川がうどん県となったのは、雨が少ない上に讃岐平野には大きな川が流れていないために、水不足が深刻であったことが大きな要因です。しかし香川用水が1974年に完成し、吉野川から讃岐山脈をトンネルで通して香川県へ配水されるようになって(図1)、慢性的な水不足は緩和されているようです。

ところが実は、かつてはこの讃岐平野を通って瀬戸内海(当時はまだ海ではなく湖)へ注ぐ大河が存在していたのです。もしその状況が続いていたならば、讃岐平野でも小麦ではなく米作が盛んとなって、うどん県は成立していなかったかもしれません。

今回は、この「幻の大河」のお話をすることにしましょう。

さあ、ジオリブしましょ!

図6-1_讃岐山脈のコピー

吉野川は瀬戸内へと流れ込んでいた?

日本三大暴れ川の1つに数えられ、四国三郎と称される吉野川。四国山地の西部、愛媛県と高知県の境にその源を発し、流路延長194kmに及ぶ四国一の大河です。吉野川は、四国山地から流れ出ると讃岐山脈に阻まれて、徳島県三好市(旧池田町)で直角に向きを変え、中央構造線に沿って東へ流れて徳島から紀伊水道へ注いでいます。

この吉野川のかつての流路を示す地層が、なんと讃岐山脈を超えた北側の香川県で見つかったのです。

讃岐平野の南部、讃岐山脈の北麓には約300万年前に河川で堆積した地層(焼尾層:図1)が分布しています。そしてこの地層から、中央構造線の南側に聳える四国山地を形作る特徴的な石の礫が見つかったのです。三波川変成岩と呼ばれる、地下数十kmから持ち上げられたベラベラに剥がれやすい岩石です。一方でこれより新しい地層にはこの類の岩石は全く含まれず、讃岐山脈を作る砂岩などの礫が堆積しています。つまり、300万年前には讃岐山脈は存在せず、当時の「古吉野川」は四国山地から讃岐平野へと、図1に示したような流路で流れ込んでいたことになります。そしてその後讃岐山脈が隆起することで、古吉野川は流れの向きを東へと変えざるを得なくなったのです。

300万年前に、一体何が起きたのでしょうか?

ここで思い出していただきたいのが、以前(第4話)でお話しした、フィリピン海プレートの大方向転換です。もう一度簡単にこの大事件を振り返っておきましょう(図2)。

図6-2_PHP方向転換のコピー

かつては北向きに沈み込んでいたフィリピン海プレートでしたが、その東の端が地下で太平洋プレートにぶつかってしまいました。その結果巨大な太平洋プレートに押し負けて、300万年前にフィリピン海プレートは「45度カックン」と、やや西向きに運動方向を変えてしまったのです(図2)。

この大事件が起きたために、フィリピン海プレートに西向きの成分(図1のVP)が働くようになり、いわば地盤の古傷とも言える「中央構造線」が横ずれ断層として活動を始めました(図2)。そしてこの断層が生じたことで、フィリピン海プレートの南海トラフに直交する成分(図1のVN)によって、讃岐山脈が隆起を始めたのでしょう。

もしそうならば、現在吉野川が大きく方向転換する池田と、かつての北側への流路の起点であった地点との約20キロメートルの隔たりが、300万年間の中央構造線の断層運動でずれた距離を示すことになります。割り算をすると年間1センチメートル弱の猛烈な変位量になりますが、この値は、過去1〜2万年間に起きた地形の変化から求められた値とほぼ一致するのです。中央構造線は、フィリピン海プレートの斜め沈み込みによって生じる西向き、つまり南海トラフや構造線と平行な成分(図2のVP)によって、どんどんと西へとずれているのです。

このようにして隆起した讃岐山脈の麓には、山地に降った雨が湧水として湧き出すところがあります。そしてこのような湧水地域には、「うどんの聖地」と呼ばれる老舗の製麺所が分布しています(図2)。この湧水がうどん作りに不可欠な命の水です。

プレート運動と中央構造線の活動によって大河が消滅した讃岐平野では、これを逆手にとるように小麦を栽培し、瀬戸内海の塩と醤油、それにイリコを活用して独自のうどん文化を発展させてきたのです。

ここで思い出していただきたいことがあります。それは第4話でお話ししたように、瀬戸内海の誕生もフィリピン海プレートの「45度カックン」が原因だと言うことです。まさにうどん文化はフィリピン海プレートの恩恵そのものなのです。

讃岐うどんの背景にこんな大変動があったこと、ご理解いただけたでしょうか?
讃岐うどんを楽しまれる時に、ちょっとこの話を思い出してみてください。さらに美味しくいただけること請け合いです。

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