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【読書日記】権 学俊『スポーツとナショナリズムの歴史社会学』

権 学俊(2021):『スポーツとナショナリズムの歴史社会学――戦前=戦後日本における天皇制・身体・国民統合』ナカニシヤ出版,341p.,3,200円.


著者の経歴は詳しく書いていないが,1972年韓国生まれで現在は立命館大学の教授とあり,博士課程を修了したのも横浜市立大学とある。ニューカマーとして家族で幼い頃に来日したのか,どこかの段階で留学という形で来日したのかは分からないが,オールドカマーの在日というわけではない。著者名で出身や経歴を想定して著書の評価をするというのは正当ではないが,本書は素晴らしく熱量がある研究で,かといって私情を挟まず冷静な学的探究により,スポーツという民衆と結びついたものがいかに戦前・戦後日本の軍国主義的な意識と結びつくナショナリズムに貢献したのかということを明らかにしている。第二章は書きおろしということだが,それ以外は2005年から2018年にかけて書かれた論文から構成されている。私が取り組むにはあまりに大きなテーマであり,すぐに投げ出してしまうだろうが,著者は15年以上をかけて目標に向かって着々と積み重ねて本書を作り上げた。通読して,自分自身こんな本が書けたらその研究人生に悔いがないだろうと思えるような素晴らしい読書体験だった。
もちろん,私のように著者名から多少著者の経歴を思い浮かべるだけで冒頭から予備知識なしに読んでもいいのだが,第十一章を読むと,本書の意義が納得できる。著者は2001年に「戦後日本保守政治家の歴史認識と韓日関係」という論文を書いている。北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』が2005年で,第十一章自体にも日本における嫌韓意識の高まりの大きなきっかけを2002年の日韓合同開催FIFAワールドカップとしているので,2001年に歴史修正主義による嫌韓意識の高まりを論じた(論文自体はまだ読んでいませんが)この論文はかなり早い時期のものだと思う。とはいえ,著者は本書の前,2006年に『国民体育大会の研究』という本を出しているので,元々スポーツ研究を専門にしていたようではある。ともかく,本書は歴史の古い順に構成されてはいるが,21世紀の日韓関係の悪化の根源を,歴史を遡りながら理解していったと想像することもできる。
ともかく,目次順に,日本の歴史を辿っていくことにしよう。

はじめに
第一部 天皇制国家における大衆の国民化とスポーツ・身体
 第一章 近代日本における国民形成と兵式体操
 第二章 皇室のスポーツ奨励と明治神宮競技大会の誕生
 第三章 近代日本のラジオ体操と「身体」の政治
 第四章 「幻の東京オリンピック」の祝祭性と政治性
 第五章 戦時下における国民体力の国家管理と健兵健民
 第六章 植民地朝鮮における皇国臣民化政策と秩序化された身体
第二部 戦後日本におけるナショナリズムとスポーツの諸相
 第七章 戦後初期スポーツ改革政策と国民体育大会の開催を通した戦後復興・民族再建
 第八章 1964年東京オリンピックの国民統合と国家意識の高揚
 第九章 戦後自衛隊のスポーツを通した国民浸透作戦と勝利至上主義
 第十章 国民総スポーツ運動の歴史的意味と国民主義エートス
 第十一章 日本スポーツにおける異質な「他者」と排外主義
 第十二章 2020年東京オリンピック・パラリンピックの政治性と国家主義
おわりに
参考文献
あとがき

本書は本当に各章が重要な議論をしていて,きちんと紹介するとかなりの文字数と私の労力を要するため,ごく簡潔に説明することとします。関心を持った方は実際にお読みいただくことをお薦めします。本書は既存の研究をしっかり確認しながらも過度にそれらに寄らず,適宜原資料にあたっており,研究者の態度としてもとても真摯なものを感じます。
第一部の前半は戦前のラジオ体操がメインの主題ですが,第一章ではそれに先んじる兵式体操なるものが議論されています。そして,クーベルタンが母国フランス男子の体力のなさを慮って,イギリスの教育で取り入れられていたスポーツを取り入れることを願ってオリンピックなるものを復活させたように,日本でも森有礼なる人物が,イギリスとアメリカの留学を経験し,文部大臣となり,日本の教育において身体訓練を導入しようと努力する。しかも,この時代といえば当然ではあるが,個々人の楽しみの運動ではなく,軍事訓練としての男子の身体鍛錬の方法をとったものである。まさにクーベルタンと同様に,日本の男子が欧米と比較して貧相で体力がないということを改善すべく,教育政策の改善に打ち込んだ。第二章では,そうしたなか,日本でも徐々にいわゆるスポーツに対する機運の高まりが生じてくる。日本のオリンピック参加は1912年のストックホルム大会が最初で,1924年に日本体育連盟が組織され,全国体育デーが文部省によって開催され,内務省は明治神宮競技大会を開催する。そうした中で,このスポーツなるものを国民に広く知らしめるために皇室が関わってくる。秩父宮ラグビー場の名前などはそうした皇室のスポーツへの関わりの痕跡である。第三章は第一章に続いて,兵式体操が1925年に開始されたラジオ放送という新しいメディアに乗って,1928年にラジオ体操に姿を変える。ラジオ体操に関しては学術研究を含めていくつもの著作が出ているが,なかには戦前と戦後を地続きでとらえているものもあるようだが,著者はそこには一定の留保をしている。戦前はやはりどうしても上から半強制的に与えられた形で軍事色が強いが,戦後はむしろその経験が基礎にありはするが,草の根運動てきな意味合いがある。それはともかくラジオ放送の影響は大きく,また単に軍人としての男子の体力増強という意味あいだけでなく,逓信省簡易保険制度との関わりが指摘されていて非常に興味深い。保険というのは当然健康と深い関わりがある。そして,ラジオ体操は学校の現場へ,そして「ラジオ体操の会」という組織が急速に広まり,集団化するという。現在でも工場のような場では残っていると思うが,戦後でも職場で朝礼と併せてラジオ体操をするようなところが少なくなかったようだ。そして,ラジオ全般の役割でもあったが,労働者の時間規律にラジオ体操は大きく貢献し,さらにはナショナリズムへとつながっていく。
第四章は,開催が決定されていたものの,返上・中止となった1940年の東京オリンピックを論じている。この「幻の1940年東京オリンピック」についてはそこそこ研究の蓄積があるが,それらを踏まえた上で丹念な史料を検討している。第五章は「厚生省」という国の組織について解説している。日本でも産業化が進み,都市人口が増えてくると衛生行政が重要となってくる。「衛生省」の構想が陸軍主導で進められたようだが,最終的には1938年に「厚生省」と名前を変えて設置される。同じ年に民間の団体として「日本厚生協会」が設立されるのだが,この「厚生」という言葉は「レクリエーションの訳語」(p.120)として与えられたものだという。つまり,行政側の衛生政策と,人民の体力向上,そしてそのために民間から積極的にレクリエーションとして運動をするという思惑が交差するところに厚生省と日本厚生協会とが作られ,国家主導のスポーツ大会が実施されていく。神宮大会については既に言及したが,1911年にはすでに大日本体育協会があり,日本各地で開催されていくスポーツ競技大会によって各競技団体が大日本体育協会に加盟していく。第六章では,当時日本が植民地として統治していた朝鮮半島の状況も解説しているのは,著者のこだわりでもあるが,とても重要である。当時の朝鮮は貧しい社会であり,日本以上に人々の体格は貧弱で健康状態も良好ではなかった。その後,朝鮮半島の人々は日本の侵略戦争や,各地の労働現場に連行されるわけだが,そういう意味でも一定の体格と体力,健康が求められるというのは当然かもしれない。日本本土で普及した体操は,朝鮮半島でも「皇国臣民体操」として学校を中心に広められた。ラジオ体操も1931年から始められたという。この章の最後には「戦後韓国社会への連続性」という節もある。
第二部は戦後の話に移るが,本書のサブタイトルの「戦前=戦後」という表現に注意をしたい。もちろん,戦前の状況と戦後の状況とが「=(イコール)」といいたいのではないと思うが,その連続性を強調したい気持ちはよく分かる。著者は私とほぼ同じ年代で,幼少期は韓国で過ごしたかもしれないが,成人してから長い時間を日本で過ごしていれば(そして常に韓国との強い関係性を保っていればなおさら),特に近年の軍事国家に回帰しようという政府の動きを目の当たりにすれば,戦前の国家意識=ナショナリズムが,自民党は戦後の1955年にできた党であるにもかかわらず,戦後の国家運営に色濃く反映していると考えるのがふつうである。端的にいえば,日本は国家として先の侵略戦争に対する謝罪をしておらず,反省をしていない。ましてや,部分的には歴代政権で謝罪の言葉があったり戦後補償をしたにもかかわらず,それを無化するかのように歴史修正主義の運動によって侵略戦争を正当化し,そうして修正した歴史を教育現場で強制するような事態にも陥っている。とはいえ,民間レベルのスポーツという意味合いにおいては,当然敗戦によってそれが全く途絶えた時期があった。国は米国の占領下におかれ,国民は日々命をつなぐので精一杯であった。しかし,なんと戦後直後の1946年から大日本体育会(戦後になっても「大日本」という名称を維持していたのは驚くほかないが,1948年に日本体育協会に名称変更された)が国民体育大会(国体)を実施したという。そして驚くことに,戦前に皇室がスポーツとの関りを深めたということは既に書いたが,戦後のスポーツは象徴となった天皇が地方を巡幸するのに合わせ,地方で国体を開催し,天皇が出席したという。1947年に開催された第二回の石川国体の様子が伝えられているが,開会式に参加した天皇を前に,当時は禁じられていた日の丸が掲揚されると,二万人の観衆が涙を流して君が代を斉唱したという。恐るべき天皇の存在と君が代・日の丸(なお,本文には「国家掲揚」(p.162)と書かれているが,敗戦によって国家と国旗の指定は日本にはなかった気がする。改めて指定されたのは1999年とのこと)。そして,戦後も皇室はスポーツと関りを持ち続ける。天皇一家がテニスのようなスポーツを(避暑地で)たしなみ,各競技の大会には「天皇杯」が次々と持ち込まれる。
第八章では1964年の東京オリンピックを論じる。こちらも既存の研究が多いので,本書ではナショナリズムに関わる側面に注力している。特に本書が強調するのは,オリンピックはどれだけ多くの国旗掲揚と国歌斉唱を公衆の面前で行えるのか,という点において存在する,と断言するほどだ。聖火リレーにも多くのページを割いている。ここでも沿道の日の丸や,沖縄,広島の扱い,テレビ放映で日本全国を映し出すこと。オリンピック自体は東京という一都市で開催されるにすぎないものだが,まさに国を挙げて行う国家イベントとしての印象づけるのに聖火リレーは相応しい。第九章は,1964年東京オリンピックに向けて,自衛隊の関りを論じていて,非常に興味深い。そもそも,戦力不保持を謳った日本国憲法によってスタートした戦後日本社会において,自衛隊の存在は国民にとっても(今とは違って)歓迎すべき存在ではなかった。そのマイナスのイメージを払拭するためにオリンピックが利用された。オリンピック以前から,自衛隊は民衆に良いイメージを持ってもらおうとする試みを展開する。音楽隊を結成し,講習を前に演奏を披露し,医療現場や力仕事を要する現場で支援にあたる。その極めつけがオリンピックという巨大なイベントへの支援であるが,それだけではなく,自衛隊員自体がオリンピックの出場するのだ。1961年には防衛省内に「自衛隊体育学校」が設立し,選手強化事業が行われる。実際に馬術や射撃などでは現在も自衛隊の選手が出場することが多いが,1964年で良く知られるのは円谷幸吉というマラソン選手だ。しかも,マラソンの1960年ローマ大会で(結局,1964年東京大会でも)優勝したアベベというエチオピアのマラソン選手が軍隊出身だったということが,日本で自衛隊員からオリンピック選手を育成するということのきっかけの一つとなったらしい。そして,円谷選手の自死で知られるように,国家を背負わせた勝利至上主義がその後蔓延する。現在でも自衛隊員選手に限らず,世界各地で開催されるオリンピックに出場する選手たちは金メダルを手にしないと祖国に帰れない,ようなプレッシャーを抱かせられている。
その一方で,第十章は市民が草の根的にスポーツを欲する姿が描かれており,ナショナリズムというものが上から強制されるだけのものではなく,下から醸成されるものでもあることを示している。日本社会は戦後に高度経済成長期を経験し,生産中心から消費へ,労働から余暇へと意識の大きな変化がみられる。公害の発生と住民運動,革新自治体の誕生,という時代の流れのなかで市民が自らの権利を主張するようになり,その権利の一つとしての余暇活動を要求し,その延長線上にスポーツ要求がある。政府側から作られた体育団体に対し,1963年に「全国青年スポーツ祭典」の第一回が横浜で開催され,1965年に「新日本体育連盟」が結成される。この時代は労働組合も強かったこともあり,1964年には「労働者スポーツ大会」も開催されたようだ。
第十一章は日本のスポーツ界における排外主義について論じている。オリンピックが国対抗のスポーツ競技大会であり,その出場資格には国籍が必要である。そしてオリンピックにかかわらず,そうした傾向は各競技で根強い。ここで取り上げられるのは,まず「在日韓国人四世で2007年に日本の帰化したサッカー選手李忠成」(イ・チュンソン)(p.260)である。サッカーにおいては,2002年に日韓合同で開催されたFIFAワールドカップ大会が日韓にとって非常に重要だったと論じている。一方では,お互いの国民がお互いの国の文化に関心を持ち,相互にファンを作り出したが,もう一方では特に日本側に嫌韓の意識を高めた。李選手の活躍に対する浦和レッズサポーターによる「JAPANESE ONLY」の横断幕が2014年のことで,サッカーにおける嫌韓は未だに続いているという。続いてが,相撲界である。こちらについては私もよく知っている事柄ではあるが,都合のよいように国技としての相撲という競技の中に外国人性をもちこんだり,排除しようとしたりが繰り返されている。そしてそれは相撲が単なるスポーツとしてではなく,日本的な伝統的儀式の一つとして,これまた都合の応じて扱われるという事情による。その他にも在特会(在日特権を許さない市民の会)やネット右翼に関する議論など,決して分量は多くないが,スポーツと関りの薄いが重要な解説があり,スポーツの分野で出現する排外主義的な動きの文脈がしっかり理解できるように解説されている。最終章は2020年東京オリンピック・パラリンピック大会の批判に充てられており,こちらも石原元都知事のナショナリスティックな思惑による招致継続から,安倍元首相による虚偽スピーチ,オリンピックを口実として共謀罪の成立など,オリンピックと国家との結びつきを中心に論を進める。オリパラ教育にもページを割き,小中高と作成されたオリンピック読本の内容をナショナリズムの観点から丹念に解説している。
本書には阿部 潔『彷徨えるナショナリズム』(2001年,世界思想社)に言及し,同じようにスポーツとナショナリズムの関係を論じているこの本からの影響は少なくないと思う。阿部氏のナショナリズム論はある意味で分かりやすく,ナショナリズムという感情について質的に論じたものである。しかし,本書はそれをかなり社会科学的に実証したものであり,とても説得的なものである。本書でも日本におけるスポーツとナショナリズムに関して十分に論じられていると思うが,「おわりに」では残された課題について,これまた非常に的確に論じている。確かに本書においてジェンダーの視点は十分でなかったと思う。そうした,将来的な展望についてもすでに明確に示されていて,後はいかに資料に基づいて論証していくかという時間と労力の問題ともいえる。それらの仕事について,著者は確実に進めていくだろう。

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