就活日記③思い出話
どーもKUMAOです。
就活難航しておりやす。
やっぱり転職サイトは掲載企業と転職サイトの間に代行業者が入りこんでいるせいなのかレスポンスが悪く非常に不便。
先日応募した会社は完全に応募前に条件が合わずに辞退した。
一社は釣り広告だったっぽい。ホントは存在のしない良さそうな求人を餌にして人を雇って、別の仕事に派遣する会社。(と、予想している)
仕事があるのかどうかも良くわからない感じだったし、メールでのやりとりが非常に曖昧だった。
ふと急に思い出した。
実は20代の頃こんな事があった。
(ちょっと今日の記事は長いです。すみません。)
愛知県豊田市に自動車製造のいわゆる「出稼ぎ」に行ったことがある。
高卒で最初に入った会社がブラック過ぎたので体を壊し、その後フリーターだったから、
とりあえず高い給料を稼いで何か強烈な変化と突破口を期待した。
求人情報誌に載っていた電話番号へかけて、それから数日で担当の人が面接に来た。即採用で、もろもろの段取りが進んだ。
実家住まいだったので対して荷物もないし、期限のある出稼ぎなので、荷物は大きめの旅行バッグ一つで済んだ。
北海道から自家用車と一緒にフェリーで名古屋を目指した。
フェリーで揺られること丸2日。
名古屋に着くなり送迎車で寮に移動させられ、数人の沖縄出身のオジイと一緒の生活がスタートした。(個室も与えられた)
最初は知らない土地に住むのが初めてだったし、ワクワクした。北海道とは大違いで凄く名古屋は暑かった。
それから数日経ったが、仕事の話が来ない。
当初の予定では3日目からは出勤だと聞かされていた。
1日、さらに1日。何もせずに寮にいる日が続いた。
仕事は無いが一応最低限の給料が保証されていたので焦りは無かった。
ただ、7万円しか保証されないルールだったので生活費は序盤からかなり節約した。
そしてまた1日。
仕事に朝出掛けていくハズの同じ寮のオジイ達が日中にどんどん増えている気がした。
最初は解らなかったのだが、どうやら派遣先の工場から仕事を切られて働く先が無くなった人が、徐々に寮に増えていたようだ。
なので正確には人が増えてたんじゃなくて、仕事に行ってなかっただけだった。
沖縄の人は底なしに明るい。
そしてお酒が好きだ。
仕事が休みになったからそこらじゅうで酒盛りを始めて、楽しそうにしてる。
なんか、ホントにこんな感じなんだなと驚いた。
最初は少しだけ付き合っていたけど、そもそもお酒が好きじゃないのと、お金が勿体ないので寮の部屋に籠もる事が多くなった。
そしてまた1日、
流石にこれはおかしいなって感じて、会社に電話して確認したが、「今派遣先を探している最中だからもうしばらく待って」との返事だった。
待つしかないか、、、
それから、寮から片道40分かかる激安スーパーにお弁当を買いに行って帰ってくるだけの生活がスタートした。
自家用車はあったが、自分が乗るとあいのり希望のオジイが大量にくっついてくるし、人間を選別するのも気が引けたので一切使わない様にした。
その地域では自分と同じ様に派遣の人達が沢山住んでるエリアだったらしく、そのスーパーには外国人も沢山来ていた。
1つ250円のお弁当は10時半から並び始める。争奪戦だ。敵は屈強なブラジル人達。揉まれながら手を伸ばし弁当を手にしていた。
こんなに混んでるスーパーは北海道では体験したことが無かったのでちょっと楽しかった。
お弁当はかなり大きく、2食分に相当する量だった。昼過ぎに半分食べて、残りを夜に食べた。
日替わりなのだが、大きなカツが入ってた時があった。
でもタレが味噌ダレだった。名古屋流の甘い味噌ダレ。ちょっとショックだった。
そんな生活をたしか4日くらい続けた。
そして5日目くらいだったか、寮で寮長(会社側の人間)とオジイ達が揉めていた。
ただ、寮長も沖縄出身で、オジイ達と話してる時は現地語が飛び交うのでさっぱり解らない。
一部も聞き取れない。
でもなんとなーく雰囲気掴めたのは、
仕事はいつさせてもらえるのか?って話。
この先かなり空くなら一旦沖縄に帰る!
って話してるっぽかった。
でも寮長は多分なだめていた。
多分。
そして私は決心した。
寝静まった頃逃亡しよう。
話しても拉致があかないし、最後の最後まで面倒見てくれる人間なんているはずない。
その日の夜もオジイ達は酒盛りをしていた。
ほんとに明るいんだ、あの人達は。
でも日本語があまり得意じゃないから世間から弾かれてしまったんだと思う。
同じ国内でそんな事があるなんて知らなかった。
食べかけのお弁当を食べきって、寮の個室の鍵を机に置いて、0時頃見つからないように車で寮を後にした。
とりあえず行く宛もないのでマンガ喫茶で泊まった。当時はスマホも無かったので車でウロウロして見つけたマンガ喫茶にいった。
翌日、会社から電話がかかってきた。言われた内容としては、
「常識のある大人のすることじゃない」「会社で負担した名古屋行きのフェリー代やもろもろのお金を請求する事になるがいいのか?」などなど。
こちらからは、
仕事が無いなんて聞いてない。この先7万円で何ヶ月も過ごすわけにはいかない。最初の話と違ったんだからもろもろのお金を払うつもりは一切ない。
と伝えて、それからは着信は無視した。
とりあえずフェリー埠頭で1番安いチケットを手配して、夜逃げから3日目経過後に名古屋から北海道へ戻った。合計2週間以上は名古屋で生活したと思う。
今思えば多少観光でもしたら良かったんだろうけど、この先さらなるトラブルがあった場合にお金が無くなってしまう事を懸念して、真っ先に帰る方を選んだ。この時の選択は我ながら素晴らしかったと後になってから気付く事になる。
(たしか当時地元には無かったガストには行った気がする。COCO'Sだったか、あんまり覚えてない。ハンバーグを食べたのと、孤独に食べたハンバーグは味気が無かったのを今でも覚えている。)
北海道へ戻ってから2日3日したころに
テレビでニュースが流れた。
リーマン・ショック!
からの、大量派遣切りのニュースだ。
あのニュースを見た時は震えた。
自分があのまま名古屋に残っていたらどうなっていたのか。
周りのオジイを堂々と見捨てて帰ってこれたかは自信がない。とってもいい人達だったから。
同情して助け合ったりしたら、その後出来上がった「派遣村」の住人になって、自分もホームレスだったかもしれない。車も現地で手放したかもしれない。
逃げたおかげで最悪の状況にならずに済んだ。
東京の方にもたしか派遣村ができて年越しをしていた気がする。あんまり覚えていないけど。
あれから15年も経ったのか。
その時のフェリー代やらなんやらの請求は結局こなかった。会社の名前も覚えていないし、あの騒動の後で生き残れたとも思えない。
彼らも被害者だし、私に請求する余裕も無かっただろう。
めでたしめでたし、、なのか??
いや、どうだろう。
こんな風に私達の運命は進撃の巨人に出てくる人間たちのように、不条理に、呆気なく、努力とは関係無く変えられてしまう事がある。
でも、その状況になりやすい方を選んだのは自分だ。世の中を知らなかった。
自分も目の前に人参をぶら下げられた馬のように、地元にはない高給につられて名古屋行きを決意した。
当時の私からすれば、
リスクを取って、あえて自分を追い込むことで、きっと明るい将来に繋げることができるかもしれない。
と、思っていた。
いざ蓋を開けてみれば、
条件の悪い労使契約の元、ピンハネされまくった給料で働く、自分を安売りする若者
だった。と言って差し支えないだろう。
(注、今の派遣労働は良く知りません。昔の派遣労働の話です。)
私の所属した派遣会社はリーマン・ショックという事故があったから仕事を斡旋できなかった。なのでちょっと事情は違うにせよ、
今でもこんなひどい求人広告があって、昔の私のような思いをする若者がいる可能性があるのか。
昔の私のように世の中知らなすぎる若者も少ないのか??
どうして、無くならないんだろう。
かなりの人数が不便したり、トラブルになってると思うのに。
どうして?
少なからず私のnoteを読んだ人が同じような思いをしないようにと願うばかりです。
お付き合いありがとうございました。
ではまた!!
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