居眠り猫と主治医 ⒍ 濡れネズミ 連載恋愛小説
初挑戦のハイキングをクリアできたと意気揚々と下山していたら、ふもと目前で視界がグラつき、文乃はころびそうになった。軽い熱中症らしい。
水分を摂取してコース脇のベンチで横になり、落ち着くのを待つ。
新しいペットボトルを両手でつかまされ、ほうけたように祐の顔を見つめていると、血管を早く冷やすためには手のひら冷却法が一番効率的だとのこと。
「キンキンに冷えてなくていいんですか」
「冷たすぎると、血管が収縮する。熱がこもって逆効果」
「へー、そうなんですね」
人間のお医者さんもできそうだと、のんきなことを口走ろうもんなら、雪山ばりの空気になるに決まっている。
いつのまにやら学習して、それくらいの予測はつくようになっていた。
「あの…なんのためらいもなくさわりますけど、私も妙齢の乙女?っていうか、すくなくとも動物じゃない…」
鼻で笑われた。
念のため、首の両側に布で巻いた保冷剤を仕込んでくれた彼は、所作に無駄がない。指が長くてきれいだと、どうでもいいことを考えた。
***
「言うこと聞かないから」
「え…サプリ飲まないの関係あるんですか」
やっぱりかという目をされた。
「3食きちんと取るように、も言ったはずだけど」
正直、食べることにあまり興味が持てないので、それは少々ハードルが高い。
文乃は、塾で中学生に数学を教えている。
夜中にガッツリ働いているから、たぶん体内時計が狂っていて、そのせいで食事や睡眠がしっちゃかめっちゃかになっている。
獣医学部も医学部並みの頭脳が必要らしいから、地頭でも偏差値でも到底かなわない気がした。
***
クリニック御一行とは30分ズレただけなのに、そのわずかな差で雨に降られた。しかも土砂降り。
遭難せずに済んだだけでも、よかったのかもしれない。
「先生のおうち行っていいですか。拾ってください」
タイミング良くくしゃみが出て、捨て猫感が出た気がする。
女扱いされていないとわかっていたので、そんな大胆な提案ができたのだ。
実のところ、自力で帰る気力がわいてこなかった。
服が濡れたままだと夏でも容赦なく体温が奪われるらしく、抑えようとしても体が震えてくる。
熱くなったり凍えたり、頭がどうにかなりそうだ。
降りしきる雨の音が車を覆う。
ダッシュボードに入っていたタオルを文乃の頭にかぶせたあと、祐は表情を変えずにエンジンをかけた。
(つづく)
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