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ローマ帝国とポルトガル(4)経済活動

00.はじめに
ここでは、ポルトガルの歴史についてお話しした際のメモ書きを公開しています。今回はローマ時代を扱った部分です。なお、メモ書きは、アンソニー・ディズニー著『ポルトガルとポルトガル帝国の歴史』に基づいて作ってあります(ほぼ翻訳になってしまっていて、反省ですが)。関心のある方は、Anthony Disney, A History of Portugal and the Portuguese Empire(2009)をご覧ください。

前回までに、現在ポルトガルと呼ばれる地域が、ローマ帝国に支配される過程と支配後、属州に分けられ支配されたことを、そしてそのなかでローマ化する都市の出現について確認してきました。

前回の記事

今回は、ローマ帝国に支配された現在ポルトガルがある地域における経済活動について確認していきます。

ローマ時代の現在ポルトガルにあたる地域における経済活動

『ポルトガルとポルトガル帝国の歴史』を書いたディズニーは、ローマ時代における現在ポルトガルと呼ばれる地域における経済活動について、ローマ帝国全体にあったウィラや北部に展開したカザウ、それから鉱業を取り上げています。以下では、ディズニーの研究に基づいて、それぞれについて簡単に確認していきます。

01.ウィラ

前回言及したように、現在ポルトガルにあたる地域でも、ローマ帝国の様式の都市が発展していったわけですが、この地域における生産活動のひとつは、「ウィラ」が担っていました。

ウィラは、荘園、ラティフンディア、プランテーション農園といえる空間で、ローマで全般的にみられました。

ウィラの模型
--Immanuel Giel 12:24, 21 August 2007 (UTC) - 自ら撮影, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2597111による

現在ポルトガルと呼ばれる地域では、ウィラは前一世紀の後期に出現していました。

最初に出現したウィラは要塞的なものだったようですが、生産拠点として特化していったといわれます。

ポルトガルにあるウィラは、母屋の周りに、小麦畑やオリーブ林、ブドウ園そして果樹園、さらには牧場などがあり、生産活動を行えました。

また、ウィラのなかには、一部の製品に特化した生産拠点ともなっていました。

石材を作るための石切り場を開発しているウィラや、レンガ、タイル、そのたの陶器を生産するウィラもありましたし、沿岸地域では海産物の加工に特化したウィラもあります。たとえば、アルガルヴェの沿岸やテージョ・サド河口には魚の塩漬けや、ガルム(魚醤)の製造が行われていました。

ポルトガルにあるローマ時代のガルム製造地跡
By Igiul - Own work, CC BY 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3955633


ウィラは後一世紀までにはポルトガルのいたるところに存在するようになったとされます。

ディズニーは、こうしたウィラの発展は、ローマ帝国の発達した技術移転によるものと考えているようです。ウィラでは、休閑、施肥(肥料撒き)、作物の輪作などの農業知識が導入されたり、ローマで開発された新種の家畜が持ち込まれました。また、大規模な土木工事が必要な灌漑施設も作られました。ポルトガルのウィラでも、ローマ帝国でみられる水道などが備えられ、温水浴場まで作られていました。

ところが、後2世紀になると、ウィラはたんなる生産拠点ではなくて、生活の場、娯楽の場となっていきました

エリート層の土地所有者は都市に居住地を持ちながらも、ウィラに居つくようになりました。それによって、都市生活を楽しむよりも、金も私的な田舎の居住地を飾り立てることに使われるようになりました。ウィラは次第にぜいたくな暮らしをする場になっていったのです。

この時代に目立ったウィラのひとつに、ミウレウMilreuのウィラがあります。ミウレウのウィラは、現在のファロ近くに位置していました。

ミウレウのウィラができた後1世紀には、シンプルなプリスタイル建築でしたが、3世紀末から4世紀に拡張され、再建築が行われました。

その結果、ミウレウには何部屋もある大きな母屋となる建築物に加え、神殿や巨大なテルマエを備えた施設となりました。それらはモザイク画で素晴らしく飾り付けられて、豪華絢爛な外観だったと考えられています。

ミウレウの図  A - 居宅エリア  B - テルマエ C - オリーブオイル搾油機 D - ワイン倉庫 E - 墓地 F - 労働者居住エリア G - 神殿 H -商業エリア I - 庭園エリア
By Prof. Dr. Felix Teichner - Felix Teichner: Zwischen Land und Meer – Entre tierra y mar. Studien zur Architektur und Wirtschaftsweise ländlicher Siedlungen im Süden der römischen Provinz Lusitanien. Stvdia Lvsitana 3 (MNAR) / Madrider Beitr. (DAI) 2008, ISBN 978-84-612-7893-0, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=61188460

ところで、こうしたタイプのウィラがどれだけの土地を所有していたのかはあまりわかっていないようです。ただし、ウィラの維持には数千ヘクタールは必要としたと考えられています。ポルトガルのローマ後期のウィラは、ウィラの所有者やその家族から、使用人(奴隷も含む)にいたるまでそのコミュニティを維持する生産力を備えていたからです。

02.カザウ

以上で述べてきたウィラは現在のポルトガルと呼ばれる地域の生産活動を支えるひとつの様式だったわけですが、ディズニーによれば同地にはカザウcasalと呼ばれる場所も多く存在したといいます。

カザウは、基本的には家族が運営する小規模で、農地の小さい農場でした。したがって、そこでは家族以外では、奴隷や賃金労働者が労働に加わる程度でした。

カザウは北部や中部で多かったとされます。とくに、北西部の人口密度が高い地域では、しばしば一つの村の2、3キロ圏内にカザウが点在していました。

03.鉱業

以上のように、ポルトガルではウィラやカザウなどの生産拠点として機能していたわけですが、ローマ帝国側からの視点から重要だったのは鉱業でした。

イベリア半島が、帝国におけるもっとも重要な金属生産地域の一つでだったからです。ポルトガルはなかでももっとも重要な地域でした。当時、金属のほとんど、つまり鉄、銅、スズ、鉛、そしてなにより金と銀が、ポルトガルで生産されていたのです。

金については、トラス・オズ・モンテにあるトレス・ミナスTres Minas(ヴィラ=ポウカ・デ・アギアールVila Pouca de Aguiar)の金鉱山が中心に開発されました。

トレス・ミナスの位置
Google Mapより

ローマ帝国の鉱山運営は間接的に進められることがほとんどでしたが、トレス・ミナス金鉱の場合は、直接運営されていました。

トレス・ミナス金鉱では、2000人の奴隷を労働力とするほか、軍隊を置いて、採掘を監視していたのです。また、大規模な土木工事などを行い、坑道を整備するほか、採掘のためのダムや水路、あるいは水門なども備えていました。

ローマ時代の鉱山跡(トレス・ミナス)
Por Pedro from Maia (Porto), Portugal - In the Roman galeries III, CC BY 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=97969599


もう一つの重要な鉱山は、バイショ・アレンテージョのウィパスカVipascaの鉱山でした。ウィパスカ鉱山は、青銅器時代以来、主に銀や銅を産出していました。

ウィパスカも、トレス・ミナスと同じように、帝国に直接管理されていました。ウィパスカは皇帝の所有物だったとされ、皇帝の代理人が管理していました。そして、代理人のもとで、民間業者に作業が委託されていたようです。なお、この鉱山の記録からは、労働者として、自由人、罪人、奴隷などのほかに、児童労働の存在も指摘されています。

ところで、トレス・ミナスとウィパスカの両方の鉱山は、ローマ帝国の進出以前から稼働していたようです。ローマ帝国はそれらを開発し、かつてよりもはるかに大規模にしたとされます。そして、ふたつの鉱山は、紀元前1世紀末から3世紀ごろまでの200年間も活発に稼働していました

しかし、一方で、そうした鉱山がしばしば環境破壊の元凶となったことも指摘されています。採掘によって土などが掘り返されたり、作業ででる廃材も多くなったり、あるいは生産の過程で木材や木炭を大量に消費したりしました。その結果、森林破壊が起こり、作業が成り立たなくなったポルトガルの鉱山産業は3世紀に衰退してしまいました。

「ローマ帝国とポルトガル」(5)につづく

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