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海外生活の記憶 欧州2000’s 34 ローマ・古代遺跡

ローマでは地下に昔の建物が埋まっていてその上に家が建っているとか、土を掘れば遺跡が出てくると言われますが、今ひとつピンと来ません。もちろん遺跡とはそういうことだと言えばそうなのかも知れませんが、人がずっと住んで入ればそんなことにはならないはずです。普通遺跡とは廃墟となり、人から忘れられたところだから遺跡になると思うのです。

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ローマで一番有名というかシンボルにもなっているのが、このコロッセウムです。このコロッセウムは紀元前ではなく紀元1世紀後半に皇帝ネロの黄金宮殿の庭園の人工池の後に建てられたそうです。当時疲弊していたローマとローマ市民の為に円形闘技場とその隣に大浴場が作られ、市民を懐柔したと言われています。帝国が崩壊した6世紀にも修理したという記録があり、長い間、使われていたことがわかります。

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現在は内部が上からでもよく分かるようになっていて、猛獣を安全に出し入れする設備など、とてもうまく作られているのがわかります。実は中世にもこの闘技場は残っていて、ここから石を取り出して他に利用したようです。サン・ピエトロ寺院の大理石もここから来ているということです。という訳で現在の姿は放置された結果朽ち果てたのではなく、人為的に壊された結果なのです。

コンスタンティヌスの凱旋門は当時のままほぼ原形をとどめていますが、これは4世紀にコンスタンティヌスが当時の帝王を破り、即位したことを記念して建てられたものです。ということで高い建物が埋もれていることはないことはわかりました。

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しかし、フォロ・ロマーノに行くとまさに遺跡というに相応しい場所になるのです。この場所はローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国の首都がローマからラヴェンナに移ったことで異民族の略奪が進み、打ち捨てられて大半が土砂の下に埋もれてしまうのです。

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紀元前6世紀から、発展していたフォロ・ロマーノはこれだけの都市機能を持っていながら何故こんなにも無残に放置されたのか、住んでいた人は一体どうなったのでしょう。ただ1536年に教皇パウルス3世がフォロ・ロマーノの遺跡の石材をサン・ピエトロ大聖堂の建設に使用して良いという勅命を出しているので遺跡そのものの存在は中世にも認知されていたようです。

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この建物は十字架があるので教会と見られます。従い建物としてはローマ帝国の最後に近い4世紀ごろと想像されます。

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これは公共施設のように見えます。

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内部には井戸もありました。

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パラティーノの丘に近づくと遺跡は更に古くなります。ローマは紀元前7〜8世紀に盆地を取り囲む丘の上に人が住み始め、王政を経てローマ共和国が出来、紀元前3世紀にはほぼイタリアを統一し、地中海周辺へと領地を拡大し1世紀ごろには西はイギリスやスペイン、東はルーマニアやイラン西部、南は北部アフリカにまで及ぶローマ帝国となる訳ですが、全てがこれらの丘から始まったと考えると感慨もひとしおです。

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一般の家のようにも見えます。

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広場もはっきりわかります。

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これは中庭パティオでしょうか。

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レンガが薄く出来ていて高い技術力があったこともわかります。

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これは講堂のような建物なのかも知れません。

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アーチも大変美しく芸術的です。

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何故、こんなにも高い文化的生活をしていた人達が野蛮人とも思える人達に駆逐されてしまうのでしょうか?

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本当に立派な建築物です。とても日本が弥生時代だった頃だとは思えません。こんな立派な柱列が残っているということはサン・ピエトロ大聖堂建設では使い切れないほどの建物が残っていたということですね。

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凱旋門や高い柱列が更にその思いを強くさせます。

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下の小さな建物は現在も使われているように思えます。

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整然と積まれた石の壁にある彫刻の繊細さはもう感動しかないです。

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さて次からはアルジェンチン広場です。ここは紀元前4世紀ごろのものと言われています。

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遺跡としてはもう驚きませんが、この場所が都会の真ん中というのが不思議です。まわりを見てください。ここはビルに囲まれているのです。

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何故このような都会と思われる地域までも土砂で埋もれてしまうくらいの廃墟になるのでしょうか?紀元1世紀に人口が100万人に達したと言われるローマですが、イタリアの他の都市でその10分の1にあたる10万人を超えたのはミラノとヴェネツィアでそれも14世紀のことです。1世紀におけるローマの人口がどれほど異常なものだったかとということがわかります。ちなみにローマ帝国全体では6100万人以上で世界人口3億人の2割だったそうです。100万人が暮らせるだけのお金が当時のローマ帝国に集まっていたということです。ローマ帝国崩壊後ローマの人口が圧倒的な勢いで減少したことは間違いなく、1377年の時点では17000人まで減少していました。これはピーク時の2%以下です。つまりはエジプトやメソポタミアのように遺跡となる要素は十分にあったということかも知れません。

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下の写真はローマ帝国の時代に作られたアッピア街道に行った時の写真です。全ての道はローマに通ずと言われた街道の一つです。この上を馬車が走り、人が歩いていたのです。もちろん日本にも古い街道はあるのですが、これが弥生時代のころからあったものかと思うとやっぱりローマ帝国は大したものだと思わざるをえません。

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1377年に人口17000人だったローマですが、この年にそれまでコンスタンティノープルにあったローマ司教座聖堂がローマのサン・ピエトロ寺院に戻ることになります。コンスタンティヌス一世が建てた由緒あるサン・ピエトロ寺院ですが、その頃の寺院はみすぼらしい建物になっていたことは想像に難くありません。14世紀といえば詩人ダンテの再生に見られる通りルネッサンスにつながる時期でもあり、その後ルネッサンス運動が高まる中で大陸には資金力豊富な貴族も数多く生まれました。1505年に教皇ユリウス2世がサン・ピエトロ大聖堂の再建を決定したのはそんな背景もあったと思います。宗教改革の嵐も吹くなかで苦労はしたものの1626年のサン・ピエトロ大聖堂の完成は宗教都市ローマの再建でもありました。1732年には教皇クレメンス12世がトレビの泉を作り、1771年にはバチカン美術館が開設されるなど、ローマは教皇国家として繁栄して行くことになります。1850年にはローマの人口は175000人という推定もあり衰退のピークから見れば10倍増えたことになります。

ヴァチカンはイタリアの統一では最後まで抵抗勢力でしたが、教皇国家ローマが発展していたことが、イタリア統一にとって求心力になったことは間違いなく、ヨーロッパ全体の心の拠り所である教皇とイタリア共和国はある意味、別に存在することが自然なのかも知れませんね。

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