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ディオゴ・ド・コウト~忘れられた歴史家の原点~

一度、ディオゴ・ド・コウト(1542年~1616年)について書きました。

ポルトガルのアジア進出の歴史である、『アジア史』を書いた年代記作家です。

今回はコウトの生涯について書いてみようと思います。

はじめに述べておくと、コウトは苦労人です。そして、だいぶ不運にも見舞われています。だからこそ、かれの著作は少し愚痴っぽいところがあります。そして、それが私がコウトに共感する部分でもあります。今後の記事は、そういう彼の人生について触れたいのです。

では、早速お話をはじめます。

コウトは1542年、リスボンに生まれました。

父は、ガスパル・ド・コウトといいます。息子が生まれる前、ガスパルは、ポルトガル北部のアマランテを出て、宮廷で当時のポルトガル国王マヌエルの息子であるドン・ルイス親王に仕えていました。彼は1535年にチュニス遠征に参加して功績をあげて、騎士に任じられました。そして、その7年後、ディオゴ・ド・コウトが生まれたわけです。

騎士となった父は、コウトにしかるべき教育を授けました。歴史家のウィニスは、「この未来の歴史家が個性的な経歴を持つことになると運命づけられたのは、その父がその出世にふさわしい教育を授けたことにあろう」と述べています。コウトは、イエズス会の神学校に送られて、たいへん有能な教師によって文法や修辞学を教え込まれたようです。

ドン・ルイス親王
Por unknown Portuguese - Scan from the book: Reis de Portugal: Manuel I by João Paulo Oliveira e Costa, Domínio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28405097

神学校での学びを終えると、コウトは宮廷にあがり、ドン・ルイス親王の息子ドン・アントニオに仕え、ベンフィカの修道院で勉学に励むことができました。そこで、ユマニストとして知られたドン・バルトロメウ・ドス・マルチレスから哲学とリベラルアーツを学ぶ機会に恵まれます。

ところが、1555年、コウトは突然の事態に直面します。コウトおよび父の後ろ盾であったドン・ルイス親王が亡くなったのです。49歳でした。そして、後を追うように、数か月後、父も逝去します。僅か13歳のときです。

この二人の死はコウトの行動に大きな影響を与えたと考えて間違いないでしょう。1559年、コウトは宮廷生活に区切りをつけ、一兵士としてインドに向かったのです。

後年、インドの文書館長を務め、年代記をまとめることになったコウトの行動を考えれば、かれはすでに学者として身を立てることを望んでいたかもしれません。また、そのための経験や知識を蓄える時期にありました。そこから考えれば、兵士としてインドへ向かうというのは、突飛押しもない行動に映ります。

しかし、事態は切迫していたのかもしれません。

現代の歴史家であるウィニスは、このときのコウトが「後ろ盾も、金もない」と書いていますが、その通りだったのかもしれません。状況を見れば、父は騎士に叙勲されたばかりで、頼みの綱のドン・ルイス親王も亡くなってており、出世はおろか生活にも支障をきたす可能性があったのかもしれません。

一方で、当時のポルトガル人兵士はインドで仕事に就けば給与と食事が与えられましたし、勤務状況によって植民地で役職についたり、帰国の際に特権を与えられることもありました。また、生活ぶりも、貧しいということはなく、どちらかといえば本国にいるより豊かだったようです。

すでに多くの者を失っていた年若いコウトには、兵士としての生活は唯一の道に見えたかもしれません。

その後、インドに向かうコウトは、わずか15歳、あるいは16歳でしかありませんでした。ちなみに、17世紀に出版されたインドへの渡航規定には、兵士は18歳以上と記されています。当時もコウトが兵士としては若すぎると考えられていたことでしょう。

このように、コウトはわずか13歳で人生の岐路に立たされる出来事を経験し、希望していた道を外れたように見えます。しかしながら、かれは結果的に歴史家として名を残すことになりました。そのターニングポイントはどこだったのでしょうか。それを語るにはまだ時間がかかりそうです。

そこで、今回はコウトがインドに発つまでとして、近くその後の彼の人生にふれたいと思います。


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