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死についての思索(6)---重複の死・大衆への死の誘惑・日常は変化する

割引あり

今日も私は正直に語らねばならぬ。
正直に語ることは、本当にむつかしいことだ。
「私は、どうやって、いつ、どこで、だれと、死ぬのだろうか?」
ということは、私にとって一番重要な問題である。

そして、もちろん、死の問題は、あなたにとっても重要な問題であるはずだ。なぜなら『あなたも、いつの日か、どこかで、だれかと、どうにかして、その、死、を跨ぎこさなければならない』からである。

私は、死についての問題を過去の文章を引用しながら、加筆的に思索する。
そうして、いわば意図的に、過去の自分を否定的に批評しながら、更なる思索の深みへと向かって、その、在っている、を更新させてゆく。

『加筆とは、人生の方法である。加筆的人生とは、われわれの大半が所有するであろう。われわれは更新をやめられぬ存在者である。われわれは我々自身に対して常に批判を行う主体である。われわれは我々自身を非難はできぬが批判を行うであろう。非難は自己に対する占領であるという点において不可能である。批判は自らにおいて道を切り開く意欲を発見するという点において合理的な視線である』『己の根底に潜む悪を掴み、引き摺り出して自らの敵とし、闘争することは弁証法的である。この悪はまた己とは相反する運動原理を備えたもの、つまり己の原理と矛盾するものと捉えられるであろう。ヘーゲルの弁証法は故に闘争的であり、その核心を捉えたのがマルクスであった。闘争的弁証法は人格形成の、世界形成の、あらゆる形成のメカニズムであると近代は解釈してきたのである』

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