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人間は癒しになり得るか

「好きなタイプ?うーん…癒し系、かな」

同じゼミの、顔の綺麗な男の子に好きな女の子のタイプを聞くと、そう返ってきた。

うーん。脈なし。

残念ながら私は、一緒にいて安らぎを与えたり誰かの癒し的存在になったりするスキルは持ち合わせていない。わがままマシュマロボディなのは否めないが、性格はスイーツよりカオマンガイ寄りだ。(どういうこと?)
多分彼も、私に癒しなど求めていないだろうが。

というかそもそも、癒し系とはなんなのか。

恋愛系サイトを見て回り、外見の特徴を調べてみると

・笑顔が柔らかい
・パステル系の服
・ふんわりしたシルエット
・ナチュラルなメイク

とある。外見はゆるふわで、人間の持ち得る攻撃力を極力排除した装いということだろう。毒性や危害性がないというのは、確かに安心感を与えるのかもしれない。

対して内面はというと、

・余計なことを言わない、詮索しない
・いつでも肯定的な態度
・がさつな面がなく上品
・ゆっくりとして優しい口調

とある。これも危害性を極力排除し、暴力や批判性とはかけ離れた人格だ。

こっちが恥ずかしくなるような清々しい都合の良さには目を瞑りつつ、一般的に「癒し」と定義される人間の特徴として、「包容力があり、角もなく批判も詮索もせず、見た目も中身も無条件に優しい」といったところだろうか。

そんな人間は実際に存在するのかと言われれば、意外といる。しかし、その一面だけが彼女の人格なのではなくて、異常に批判精神が乏しく流されやすいか、ごく自然に「癒し」を演技することができ、他方で彼らが知る由もない裏極域(裏の顔)を持つことでバランスを保っているのである。

しかし、人に「癒し」を求める人々は、本当に「癒されて」いるのだろうか。

「一緒にいて心が落ち着く」というのは、人間にとって特大の「癒し」であると言えるだろう。しかしその「癒し」の実存は、人格ではなく「関係」に宿る、と、私は思っている。

例えば仕事で疲れて家に帰る。「癒し系」の彼女は夕飯の支度をして待っている。(家事の出来は「癒し」に含まれるかどうかはわからないが)
同僚や仕事の愚痴を漏らせば、嫌な顔一つせずにうんうんと頷いて、「あなたはよく頑張ってるわ、あなたは何も悪くないわ」と優しく肯定する。
実際の功罪は詮索しない。優しい声で、傷を慰める。良くできたことを褒められ、あなたは温かいご飯を食べながら、みるみるうちに元気になる。

しかし例えばもしそれが、有村架純や深キョンのような可愛い女の子ではなく、ずんの飯尾ちゃんとか、大泉洋のような、ちょっと(だいぶ)ひょうきんなおじさんだったらどうだろう。彼らは自分たちの経験に基づいた深い知見で助言してくるかもしれない。落ち込んでいたら、ちょっとしたギャグで笑わせてくるかもしれないし、案外と同情して一緒に泣いてくれるかもしれない。ハイボールを飲みながら、「負けないで」を熱唱してくれるかもしれないし、気づいたら悩みなど忘れるくらい満たされて安心した気持ちで眠るかもしれない。

もしあなたの傍に深キョンや大泉洋ではなく、猫がいたらどうだろう。猫はどんなに呼びかけても基本的に返事をしない。眠りたいときに眠り、遊びたいときに遊んで、じっとあなたを見つめているだけだ。否定も肯定もしないで、ただ正直に、本能のままにそこにいたいからそこにいるだけ。しかし、その野生を許してあなたの膝に乗るとき、優しい言葉や微笑みがなくても、その信頼にあなたは緊張の糸を緩めて頭をなでるだろう。

癒しの本質は、風貌や振る舞いに依拠しない。癒しとは心を許すことであり、リラックスしたその関係そのものに宿るのだ。

「癒し系彼女」はまるで全てを許しているように見えて、無難に受け流しているだけかもしれない。ふたりは許しあっているように見えて、どちらかが一方的にもたれかかりたいだけなのかもしれない。毒性や攻撃性のない見た目に安心したいだけなのかもしれない。どれだけ自由に振舞っても、傷つかない保証が欲しいだけなのかもしれない。

だけど、シフォンのワンピースを着なくても、すっぴん眼鏡にボサボサ頭でも、髭が生えていても、私たちは話に耳を傾け、笑い、勇気を持って踏み込むことで、より優しい関係になれる。お互いに癒しあう関係を築くことができるはずだ。たとえカオマンガイのような性格でも。(どういうこと?)

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