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嫌いになんかならないで

あらすじ

父にはぶたれ、母には平然と無視される。父母と確執を抱えたまま社会に出た宣子は、結婚によりようやく月並みな幸せを手に入れたと思っていた。しかし、その幸せは突然に終わりを迎え、今まで押し殺していた自分自身と向き合わざるを得なくなる。


本文

 頬がじんじんと痛む。ぶたれた理由が分からず、動作が緩慢になる。
 父が部屋を出ていったあとで、とっさに歯を食いしばっていたことに気づく。強張りがほどけるのと同時に痛みが広がる。思わず両手で顎骨を覆い、繰り返す痛みの波が遠ざかるのを待つ。
 誰にも気づかれないように、部屋の隅に縮こまる。ぶたれた理由なんてない。ただの捌け口でしかないのだと、ぼんやりした頭で考える。
 父にとって私は母の連れ子だ。顧みる価値のないもの。私から父と呼ばれる筋合いはない。
 父も母も留守がちだった。食べるものと住む場所さえあれば、子どもが育つのには充分と考えている。お膳には毎日冷めた夕食がふたり分並んでいて、それを温め直す。ひとり分を食べ終えたら、自分の食器を洗って風呂に入る。ふすまで隔てられた自分の部屋で目を閉じるころ、母がひとり帰ってきた気配がする。ただいまも、おかえりもない。それぞれがたまたまこの家に帰ってくるだけ。レンジの電子音を聞きながら、そのまま眠りこむ。父は、帰ってこない。
 だから、父と家の中で鉢合わせるのはいつも想定外だ。踵を返して逃げ出せばいいのに、その場に固まったまま、きっと目だけは泳いでいたのだろう。わざわざぶたれる機会を与えているようなものだ。自分の態度が相手の加虐心を煽っているのを分かっていながら、それを改めることができない。
 次に鉢合わせた時のシミュレーションを重ねても、毎度同じ結果に終わる。一歩の後退りもできないのだからお笑いぐさだ。父を怖いと思っているわけではないのに、痛みへの恐怖心が私をその場にはりつけにする。
 高校に進学するころには、父はまったく家に寄りつかなくなった。母はあきらめてしまったのだろうか。パートに出ている時間以外、居間のテレビの前に陣取るようになった。テレビそのものに興味はないのだろう、画面を眺めるでもなくぼんやりとしている。かと思えばテレビの内容を急に大声で復唱して、こちらを驚かせることもある。自分が家にいることを、アピールしなければならないとでも思っているようだ。母が家にいるだけで、息が詰まった。
 母にとっても、私が家にいることは愉快ではなかったらしい。夕食を毎日ふたり分作ることは欠かさなかったが、動線が偶然ぶつかってしまった時にはおぞましいものでも見た顔をする。私が動くことが信じられない、といった目つきだ。ふすまを隔てた向こうに母が何を見ていたのか、今も分からない。

 私に落ち度があるとすれば、できるだけ相手に気づかれないよう息をひそめていたことだろうか。相手が私を認識しなければ、危害を加えられる恐れもない。それは、子どもながらに身に着けた処世術だった。
 学校でも、程度の差こそあれ同じようなものだった。父にぶたれる恐怖と母を頼れない心細さに、誰かにすがりたいと人一倍思っていた。しかし、ふたりの無関心は幼い私を想像以上に蝕んでいたのか、他人を頼ることを私自身が許さなかった。他人に何かを求めたところできっとしっぺ返しに遭うだろう。それならば助けを求めないほうがきっと賢明に違いない。誰も私に気づかないほうが、きっと私のためになる。そう思って、誰ともしゃべらずに大人しくしていた。
 いわゆる性教育があったのは、小学五年生だった。授業の内容は、すでに思春期の扉を開きかけていた私の背中を強く押した。父も母も気持ちが悪い。もともと、ふたりには親というよりもそれぞれの独立した大人としての側面を強く見出していた。その輪郭がより鮮明となり、それまで見えているようで見えていなかった男女の関係がむき出しになったのである。
 思春期といっても誰とも話すことはないので、もっぱら自分の中に閉じこもるだけだった。母に女を見るのが不快で、父の不在を嘆く背中に精一杯の侮蔑の眼差しを向けた。
 中学校に進んでもそれは変わらず、ふたりが私に無関心であることで適度な距離が保たれていることに感謝すらした。ひとりで迎える食卓に、今さら寂しさもない。向こうの機嫌を損ねることさえなければ、むしろ好き勝手できる。同級生のおしゃべりから漏れ聞こえる各家庭の過干渉ぶりに、いまいち現実感が湧かなかった。大袈裟に言っているのでもないようで、彼らとのあいだに一枚膜を隔てたような感覚を覚えた。それも、小学校のころから薄々は感じていたことで、改めてなぞり直しただけにすぎない。
 そう思えばこそ、私の思春期はあっけなく終わったのだった。父も母も、ふつうの大人であって、親である前にただの男女にすぎない。ふつうの大人のあいだには、たまたま子どもができることがあって、それが今の私であり、父母を含むその他全員がそうである。偶然でしかないそれらの産物に、何か役割を期待したり、こうあってほしいと望むことなど意味がない。おこがましくさえある。他の家庭では親が子に過ぎた期待をかけることもあるようだが、頼まれてもいないのに勝手に産んでおいて、恩を感じろと言わんばかりのあてこすりは御免こうむりたい。私がいる場所は、少なくとも最低の場所ではない。

 思春期が終わったぐらいから、次の進路を決めなければならなかった。それまでは、めいいっぱい子どもとして悩むだけでよかった。学校を卒業したら、大人にならなければならない。まだ、私は大人になれる自信がなかった。周りと違う道を選んで目立ちたくないとも、置いてけぼりにされたくないとも思った。母に恐る恐る進学の意思を伝えた時、最寄りの公立高校に合格してくれればいいと言われた。母は、私が高校に進学することを当然と思っていたようで、正直肩透かしだった。
 幸い、勉強は苦手ではなかった。担任もわざわざ私を気にかけることはなかった。他の問題があるとされる生徒の処置に奔走していたと思う。小学校のころ、頬にあざを作って職員室に呼ばれたことがあった。中学校に入ってからもあざを作ることはあったが、先生にそれを見咎められることはなかった。父は、例えば服で隠れる場所を殴るという配慮というか、自己保身ができない人だった。仮に通報されていれば、父も立場が危うくなっていたかもしれない。だが、私は誰にも何も訴えなかった。泣くこともなかった。私自身が、私に無関心であってほしいと願っていた。父が家に寄りつかなくなってからは、誰がいびつな家庭に気がつけただろうか。
 高校に進学しても、相手に深入りすることは意図的に避けた。席替え程度の変化で会話する機会が途絶えていく。ひょっとしたら、薄っぺらい人間だと馬鹿にされていたかもしれない。それでも、少なくとも人として扱ってもらえるという安心感が学校には常にあった。家に帰りたくない、と思ったのはこのころかもしれない。
 高校の次はどう進めばいいのだろう。大学や専門学校に進学するのだろうか。高校に入学した時から、すでにその先の進路が不安でたまらなかった。周囲と同じでいたいという、曖昧な気持ちのほかに高校にいる理由はなかった。だから、その先の進路も多くの人が進む道を選択したいと思っていた。一方で、進学は難しいとも思っていた。母は、これ以上私の面倒を見ることはないだろう。高校までやったんだから、それで充分だと思っているに違いない。私は、大人になる覚悟を高校の三年間で決めようと思った。高校卒業と同時に母が私を見放すのか、それとも私を縛りたいと思うのか、どちらに転がるとも知れなかった。
 高校の担任は私が進学しないことを表面上ながら残念がった。受験にも費用がかかると言ったら、それ以上の追求はなかった。夏には高校にいくつかの会社担当者がやってきて、求人票をもらった。指定校求人であっさりと内定し、秋には次の春からの就職口が決まっていた。
 母には、当初から就職することを伝えていた。高校進学の時は、母も当然と思っていたようだし、近くの公立に合格して何の異存もなかったのだろう。だが、就職となると母にも一家言あるようで、なかなか話が進まなかった。
 母は、私が言うことは聞かず、覆いかぶせるように話をした。話をするというよりも、一方的な演説に近かった。自分だったらこうする、仕事をするには恥を捨てなければならない、女子大に進学してもう一回就職からやり直したい。夢物語、あるいは愚にもつかないうわ言としか思えなかった。具体的な話をしたいと思っても、脱線ばかりで一向に本筋に戻ってこない。諦めて自分の部屋に戻ろうとすると掴みかかる勢いで引き止められる。そうかと思えば、私が目の前にいることが許せないのか、近くにあったリモコンだとかボールペンを投げつけられることもあった。父がどこにいるのか母にも分からないようで、殴られてもいいから父に帰ってきてほしいとすら思った。母をなだめられるのは父しかいなかった。

 いよいよ入社が近づき、健康診断を受けるよう指示があった。健診のついでに会社に立ち寄って、身元保証書を提出するように言われた。
「あんた、まだ就職するなんて言ってるの」
このころには、母も就職に納得しているはずだった。内定を得てからも煮えきらない母に、担任がしびれを切らして年末に説得があった。久しぶりの他人の来訪に母はひどく恐縮して、突然鏡面の前に立ちファンデーションを叩いたりした。担任が、お宅の宣子さんのことで、と切り出すと、次の言葉を待たずに言った。
「わたくしは、宣子のことをお任せしておりますので、いかようにでもお願いいたします」
三つ指をつくばかりの勢いに担任も気圧されて、しかし目的は達せられたので、そのまますぐに帰ってしまったのである。
「年末に先生にお任せするって言ったでしょう」
「そんなこと、言ってない」
「その前だって、何度も私就職するって言ってる」
「聞いたかしら」
「聞いた、聞いてないはもうどうでもいい。もう決まったことなんだから、早く署名して」
「大学に行きなさい」
「行けないの。受験してないんだから」
流し台に向かって、こちらの話を聞くのも馬鹿らしいといった態度だったのが、ぐるんと振り返ってこちらを睨みつける。
「なんで受験しなかったの」
「お金がかかるでしょう」
「お金なんか、お母さんがなんとかできたかもしれないじゃない」
今さらだった。二週間後にはこの家を出るつもりだった。そのために、会社近くのアパートまで借りた。担任とも会社の人事とも相談して段取りを進めていたから、もうこれ以上の問題は起きないと思っていた。
「もう決めたことだから。私、もうすぐこの家を出るから」
「誰もそんなこと許可してない」
「許可なんか、いらない。私が決めることなの」
「お母さんは、あんたをそんな子に育てたつもりはない」
誰が私を育てたというのだろう。衣食住に事足りれば、子どもが育つと本当に思っているのだろうか。母は私に何も教えてくれなかった。教えてくれたとしたら、それは希望のなさである。縋るもののない暗い毎日に、それに耐えられない母の衰えぶりに、紙くずのように破けてしまいそうな背中に、何を期待できるというのか。優しい母の手を待っても、返ってくるものはなかった。父から愛されたことは一度もなかった。私は私の中の自分を押さえつけるしかなかった。私のなかの小さなわたしが死んでいく。誰も気づかなかったし、気づいてほしくなんかなかった。なのに、今私の中で大声をあげているのは誰だろう。ずっと気づかれることのなかったわたしが、暴れていると思った。そのわたしを、私はこんなにも冷淡にあしらう。母を、弱りきってしまった女の人を、放り出せるはずがなかった。
 泣き喚くかどうかしたかった。涙は一滴も出なかった。

 母にはそれ以上言い返さなかった。無言で家を出て、公衆電話から会社に電話を入れた。採用担当だった原田さんに、内定を辞退したいと申し出る。電話口の相手の沈黙が、永遠に続くような気がした。
 翌日の夕方、六時ごろに会社近くの喫茶店に向かった。どうしても直接話がしたいと言われたからだった。控えめな照明に、微かなたばこの匂い。私以外に客はいない。テーブルの上にあるメニューをぼんやりと見つめていたら、入口の扉がからんからんと音を立てた。
「ごめんね、仕事を中抜けできなくて、こんな遅い時間に」
「いえ、こちらこそ、私のせいでご迷惑をすみません」
小刻みに頭をぺこぺこと下げる仕草が目につく。身なりに頓着しないのだろう、安っぽい薄手のジャンパーをシャツの上に羽織っている。
「とりあえず、僕お腹空いてるから何か頼んでもいいかな」
「お構いなく、どうぞ」
「のりちゃんも、どうかな」
「いえ、手持ちがないので」
「いやいや、お店にも悪いから。好きなの選んで」
のりちゃんと呼ばれることに嫌悪感はなかった。学校での説明会も、面接の時も、アパートを借りると決めた時も、原田さんはいつもぺこぺこしていた。先生だけではなく、私にすらぺこぺこする姿はなんだか可笑しかった。
「僕はピラフ食べようかな」
「私はコーヒーで」
「えっ、大人だね。僕コーヒー飲めないんだよ、苦くて」
子どもっぽい反応につい笑ってしまう。
「お砂糖入れてもだめですか」
「うーん、試みてはいるんだけどね」
「コーヒーフロートとかありますよ」
「カロリー気になっちゃうなあ」
結局原田さんは紅茶とピラフを選んだ。私は一番安いブレンドコーヒーを頼んで、すぐに提供されたそれに口をつける。
「本題に入るんだけど」
「はい」
「内定を辞退したいっていうのはどういう」
見切り発車のまま話をはじめて、その先が続かなくなってしまったようだ。原田さんの口元はゆがんだまま動かなかった。
「本当に申し訳ないと思っています。指定校だったし、学校にも迷惑かかりますよね」
「学校には連絡したの」
「まだです」
「よかった。僕も、まだ誰にも言ってないんだよ」
ピラフがやってきて、原田さんはそれを食べているあいだ何もしゃべらなかった。何を話せばいいのか、食べながら考えているようにも見えた。頭の後ろをかいたり、壁にかかった時計を見るような素振りを見せたり、落ち着きがなかった。
「のりちゃん、大人っぽいって言われない?」
「どうしてですか」
「僕、子どもっぽいって言われがちで。今ものりちゃん落ち着いてるなあと思って」
「そうですね、確かに原田さんそそっかしいですよね」
「ほら。今のシチュエーションだって、のりちゃんがそわそわしててもおかしくないのに」
「原田さんのほうがそわそわしてますね」
原田さんは苦笑いしながら紅茶にいくつも角砂糖を入れた。コーヒーフロートでなくても、結構なカロリー摂取だと思った。
 原田さんには、何を言っても怒られないような安心感があった。だから、自分を取り繕わずに思ったことをそのまま打ち返した。もう会うことのない人なのだから、正直なところどう思われたって構わない。大変な迷惑をかけるのだから、ドラマのように飲み物をかけられるくらい怒ってもらってもよかった。
「僕はね、やっぱりのりちゃんに来てほしいと思ってる」
「はい」
「辞退したいっていうのは、のりちゃんの気持ちなの。それとも何か別の理由なの」
原田さんの目はあくまで優しかった。私を責めたいという気持ちは微塵も感じられなかった。
「お察しかもしれないんですけど、やっぱり母が納得していないみたいで」
原田さんの表情が強張る。何かを言おうとして口を開きかけ、そのまますぐに閉じてしまった。
「身元保証書を、書いてくれないんです」
しばらく沈黙があった。原田さんは何度か紅茶を口に運んだ。私も耐えきれずすっかり空のコーヒーカップを何度か口元に運んだ。
「のりちゃんは、どうしたいのかな」
原田さんは私の顔を見てはいなかった。テーブルの上のどこかに目線を落として、あるいは目を瞑っていた。
「お母さんが、悲しむことはしたくないです」
何を言っているのだろう。母と呼ぶにふさわしくない女だと分かっているのに、いつまでも縋っているのは私のほうだ。いつか、母が私を見てくれるのではないかと今でも期待しているのか。原田さんはただの他人なのに、そのまますべてを吐き出してしまいそうな自分が怖くなった。
「のりちゃん、ちょっと外に出ようか」
原田さんは私のコーヒー代もまとめて支払ってくれて、喫茶店から少しのあいだを並んで歩いた。日が沈んで肌寒い。ビルの合間から生ぬるい風がときどき顔をかすめる。いつの間にか涙が滲んできて、原田さんに話しかけないでほしいと思う。口を開いたら、泣いていることがばれてしまうから。
「のりちゃん、何があったかは話してくれなくていいよ」
原田さんは前を向いたまま話しはじめた。
「これからも色んなことがあるから、そのたびに立ち止まっていいと思う。間違うこともあるから。やり直してみるのも手だよ。でも、ひとつだけできないことがある」
原田さんは言葉を区切って、言っていいかどうか逡巡するような素振りを見せた。こちらに向き直って、私の目を見て言った。
「ずっと同じ場所にはいられないんだよ。いつか、何かが起こって、変わらざるを得なくなる。それがいつになるかは分からないけど」
私は声をあげずに泣いていた。恥ずかしいのに、原田さんから目をそらすことができなかった。原田さんは真剣な目をしていた。
「だから、その時に備える必要はあると思う。のりちゃんの場合は、自活がその一歩だと思う」
「自活?」
「自分で自分の身を立てることだよ。お母さんを支えることができるように。共倒れしないために」

 原田さんが身元保証人になったことに、母は驚いた様子もなかった。私の就職に、それ以上反対することはなかった。
「これで、あんたにお金をかけなくて済むようになる」
母が、この言葉を私に聞かせようと思っていたかどうかは分からない。思い浮かんだ言葉がそのまま口をついて出ただけかもしれなかった。それでも、私は母にとって荷物でしかなかったと思うには充分すぎた。
 分かってはいたことだった。母が私に愛情をかける価値を見出していないことは明白で、私自身それを理解していた。一方で、私を手元に置いておきたいという気持ちが、母のどこかにあるはずだと信じてもいた。それが束縛であったとしても、私の就職を反対するのはそういう気持ちの現われだろうと期待していたのだ。もう、母を母だと思う必要はない。身元保証人になるのを嫌がったのは、就職に反対する意図ではなく単にお金の問題だったのかもしれない。母から突き放されたことは悲しくても、かえって何の未練もなく家を出ることができる。母のことを考えるのはもう止そうと思った。
 原田さんはその後も私のことを気にかけてくれた。配属先までしょっちゅう顔を出してくれた。原田さんは本社勤務、私は工場経理だったため、わざわざ工場まで様子を見に来てくれていたことになる。
「原田さん、あんたのこと好きなんじゃないの」
「まさか、自分が採用した人間がちゃんと働いているか、偵察してるだけじゃないですか」
私が工場に馴染むまで、そんなに時間はかからなかった。若手の多くは製造現場に入っていて、私が座っている事務室には年の離れた女の人しかいない。毎月の棚卸では力作業もあったが、特に苦痛ではなかった。仕事に慣れるのが早かったのか、それともいいように使われていたのか、いずれにせよ仕事を任されるのは悪い気はしない。この工場に務めて十五年になるというパートのおばさんは、原田さんが顔を出すたびに私を冷やかした。それも、まんざらでもなかった。原田さんという新しい保護者のもとで、はじめて伸び伸びと生活をしていると思った。
 今まで、私は母にとらわれていた。母は毎日、私に夕食を用意した。制服も買ってくれたし、修学旅行にも参加することができた。大したことはない学生生活の思い出も、母の援助があってこそである。だからこそ、私は母に毎日引け目を感じていた。私さえいなければ、母はお金も時間ももっと自由に使えたはずだ。父を追いかけることもできただろう。父が家に寄りつかなくなって、母の精神状態が悪化したことは間違いなかった。私のせいで、母は女であることを辞めざるを得なくなった。母のもとを離れることで、私はようやく母との関係を見つめられるようになるのかもしれない。母が今どうして暮らしているかを考えるたび、私の犠牲になった日々を思うたび、心を掻きむしられるような思いがした。それも一瞬のことで、自分のために毎日働いて食べることに埋没する。働くというのは、自分が自分でないような、いち歯車として麻痺するような感覚があって、何も考えなくていいというのは一種の快楽ですらあった。
 就職して丸一年が経ち、原田さんが工場に顔を出すことも滅多になくなった。郵送で済むはずなのに、せっかくだからとパートのおばさんに背中を押されて書類を本社に持参したことがあった。書類を手渡し、紙の上でしか知らなかった面々に挨拶をしていたところ、原田さんが通りかかった。久しぶりに会う原田さんは少しやつれていたと思う。
「具合でも悪いんですか」
原田さんは面食らった顔をして、頭の後ろをかいた。
「悪いというか、ちょっとトラブルがあって」
「人事ってやっぱり大変ですね。私の時も、きっとすごく大変だったと思いますし」
「いや、それは全く気にしなくていいんだよ」
工場に戻ろうとする私を、原田さんは引き留めた。
「久しぶりだし、工場の様子を聞かせてくれないかな」
時計は午後三時を指していた。本社から工場まで、電車を乗り継ぎ最寄りから自転車をとばして二時間ほどである。電話を借りて、本社から直帰する許可を得た。いつものパートのおばさんは電話口で黄色い声を上げた。勝手な盛り上がりに閉口しつつ、次の出勤時にお伝えします、と適当に電話を切って原田さんを待った。
「ごめんね、急にお願いして悪かったよね」
原田さんはいつも謝っている。この人なら何をしても怒らないと思って、何でも言ってしまう。だから、色んな人から無理を頼まれて、追いこまれてしまうのではないかと思った。
「原田さんは、謝りすぎです。無理だったら断ってますから、気にしないでください」
原田さんはまた驚いたような顔をして、鼻をすすりながら苦笑いした。
「のりちゃんにはかなわないね」
小さな打合せ室で、他愛もない話をした。高卒採用が上手く進まず、頭を抱えているのだそうだ。
「だから、さっき具合が悪そうって言われてどきりとしたんだよ。見透かされてるんじゃないかと思って」
「単にやつれてたからですよ」
「いや、のりちゃんはちゃんと人のこと見てるよ。のりちゃんの仕事ぶりを聞いていても、そう思う」
時々、欲しい言葉をくれる人がいる。その時は素直に受けとめられなくても、しばらくしてから温かい気持ちになることがある。原田さんはそういう人だった。
「あんまり八方美人だと、信用されませんよ」
「痛いところ突くなあ。肝に銘じます」
最後は原田さんがおどけて、駅まで送ると言った。
 日が傾いて、駅に向かう人が増えはじめていた。
「のりちゃんは、仕事が好きかな」
「好きかどうかは分からないですけど、嫌いではないです。向いてるのかな、とは思います」
「そうか」
原田さんはあの日と同じようにこちらを見ず、何かを言い出しかねているようだった。
「今日、何か言いたかったんじゃないですか」
あの日と違うのは、私が泣いていなかったことだ。涙をこらえる理由もなかった。だから、強く出ることができたのかもしれない。原田さんは頭をかいて、力なく笑った。
「のりちゃんには隠し事できないね」
原田さんが立ち止まったので、こちらも道の邪魔にならないように歩みを止める。
「連絡先、教えてもらってもいいかな」
あさってを向きながら、小さな声が震えていた。人事なら電話番号はおろか住所だって把握しているだろう。ましてや原田さんは私の身元保証人である。そこまで考えて、原田さんが言っているのはそういう意味ではないと気づく。
「意外です」
顔を赤くした原田さんはこちらに向き直る。
「そういう趣味とは知りませんでした」
「やめて、そんな言い方しないで」
慌てて言い訳しようとする原田さんを、はじめて可愛いと思った。連絡先を交換して、今晩電話をかけると原田さんは言った。電車に揺られながら、パートのおばさんにどう説明しようかと思いながら、それも幸せな悩みだと思った。

 一年後、原田さんと結婚した。結婚式も挙げず、二人だけでささやかなお祝いをした。私は成人したばかりで、ほとんど貯金もなかった。
 原田さんは相変わらずすぐに謝るし、困ったら頭をかきながら目が泳ぐ。はじめて私が何でも話せると思った人。原田さんにとって、私は庇護すべき対象からいつの間にそういう存在に変わっていったのか、教えてはくれなかった。それでも顔を真赤にしながら、花束を買ってきてくれた日のことは忘れない。
「結婚してください」
付き合いはじめてすぐに社内に噂が広まった。原田さんは聞かれるとすぐに何でも答えてしまう。ある日、機嫌が良かったのか鼻歌を歌っていて、同僚に彼女でもできたのか、とからかわれると素直に認めてしまったらしい。その同僚に聞かれるまま全て話してしまった。その同僚は秋山さんといって、営業部だったので工場にも顔を出すことがままあった。秋山さんがにやにやと近づいてきて、何も言わずに私の肩を小突いていった時、ばれてしまったんだな、と思った。
 あっという間に噂が広まったのには呆れたが、話題の中心に自分がいるというのは嫌な気持ちはしなかった。どちらかといえば明るい話題ではあったし、秋山さんは私の入社時の事情もそれとなく知っていたから、温かい気持ちで見守ってくれているのだと思った。原田さんも早い段階で結婚を考えていると言ってくれた。原田さんの両親はすでに他界していて、私の母を除けばハードルは何もなかった。許可を取る必要はないが、水をさされるのも不愉快で、母へ連絡するのは一段落ついてからでいいと思っていた。
 結婚が決まって、新居を探していた矢先だった。一人暮らしもあと数ヶ月なのだと感慨にふけっていた帰り道、母からの着信に気づいた。留守電が二件、不在着信が三件。恐る恐る留守電を聞いてみると、父が死んだという。慌てて道を引き返し、電車に飛び乗った。
 警察署の廊下に、母がぽつんと座っていた。トラックにはねられて即死だという。母は身元確認を済ませたところらしかった。特に問題がなければ、そのまま火葬場に遺体を送るそうだ。葬式は、と尋ねようとして、父を見送る人はいないのだと気づく。父が何を考えているのか私には分からなかったが、父が誰も必要としていないのは子どもごころに感づいていた。それはおそらく生涯変わらなかったのだろう。母に連絡がいっただけで、充分だった。
 遺体安置室の前は人通りもなく、しんと冷えた空気が横たわっていた。痩せたパイプ椅子に腰かける母の背は記憶より小さい。母の隣に座って、時間が過ぎるのを待つ。
「あんたは来なくていいよ。どうせ血はつながってないんだから」
母はいつも唐突だ。話し合う気がないから当たり前なのかもしれないが、突然呼び出された身としては腹が立った。
「じゃあなんで呼んだの」
「呼んだつもりなんてなかった」
「それなら、電話なんかしないでよ」
「いつも口答えばっかりして、腹の立つ」
「それはこっちの台詞でしょう」
言い返しながら、思ったよりもしっかりとした受け答えに安堵する。正直なところ、母はもっと取り乱すと思っていた。母にとって、父はすべてだった。父を追いかけるきっかけを私のせいで失って、それを恨んでいるとも、あきらめた自分を責めているとも知れなかった。父が家に寄りつかなくなっても母は父をどこかに探していて、それが今目の前で死んでいるのだと言われて、正気を保っていられるか私には自信がなかった。
 淡々と手続きを待つ母を見ていると、結局はその程度だったのだと馬鹿らしくなった。母にとって、父はその程度の人間だったのか。小さい私の手に届かなかった母は、その程度の気持ちしか持ち合わせていなかった。私は、それにも劣る存在だったのだ。そもそも、母は人を愛することができないのかもしれない。追いかけることでしか満足のできないかわいそうな人。なのにどうして、私は期待してしまうのだろう。涙がこぼれる。決して悲しいのではない、私が母にとって何の値打ちもないという、ただそれだけの事実が悔しいのだ。
「お母さんは、お父さんが好きだったの」
母は答えない。聞いていないのかもしれない。
「私、お母さんに謝ってほしい」
「何を急に」
母は気怠そうに、前を向いたままだ。
「私、お父さんにも謝ってほしかった」
「だから何を」
「分からないの?」
母の肩に手を置いて、無理やりこちらを向かせる。私が泣いていることに気づいて、一瞬目の奥に動揺が走ったようにも見えたが、表情は変わらなかった。
「ずっと我慢してた。お母さんはお父さんが好きで、私は邪魔になると思って、甘えたらいけないと思ってた」
母は決して私の目を見ようとはしない。ここまで軽んじられて、私は自分を止められない。
「お父さんに手をあげられても、私は誰にも言わなかった、お母さんが困ると思ったから。ずっといい子にしてたのに、お母さんは私のことずっと無視してた」
「毎日ご飯も作って、高校までやったでしょうが」
「それだけで本当に充分だと思ってるの。そんなわけないでしょう。私がいるだけで嫌な顔をして、ため息ついて、これ見よがしな態度ばかりとって。分からないはずないでしょう」
何が言いたいのか自分でも分からなくなる。確かに、母は育児放棄していたわけではなかったのかもしれない。私が母に何を求めていたのか、明確な言葉で伝えることができない。
「お母さんは、お父さんのことが好きだから、私を邪険に扱うんだと思ってた。でも、お父さんのことも好きじゃなかったのなら、私って一体何だったんだろうって」
「だから、謝ってほしいなんていうの?」
「謝るだけじゃ足りないよ、返してほしい、私の全部、返してほしいの」
そう、返してほしい。私はわたしを返してほしい。私の中で泣いていた、小さなわたしを、あの涙を返してほしい。私の中で死んでいったわたし、私以外に誰も弔うことはできないわたし。父も母も、わたしのために一言でいいから謝ってほしかった。
「ごめん」
母が、はじめて私の目を見たと思った。一瞬のことだったが、涙が溢れて止まらなくなる。母はそれ以上何も言わなかった。母の両肩を掴んだまま私は嗚咽をあげた。母は私の手を振りほどこうとはしなかった。
 手続きが終わると、私は母にもう一度火葬に立ち会う必要はないのか確認した。
「死人は謝ってくれないよ」
思いがけず笑ってしまうと、母もつられて笑った。母が私に笑ってくれたのは、あとにも先にもこの時だけだった気がする。
「私、結婚するの」
「そう、おめでとう」
「何も聞かないの」
「もう大人でしょう。お幸せにね」
母はそう言ってタクシーに乗りこんだ。どうして結婚することを伝えようと思ったのか、あの場の雰囲気にのまれていたのだろうか。ともあれ、それからほどなくして新居も決まり、私は原田宣子になった。

 結婚したら、生活が一変するのだと思いこんでいた。実際はそれまでの生活の延長線上でしかなくて、いつまでたっても二人暮らしには慣れなかった。私は、原田さんのことを原田さんと呼び続けた。私にとって、原田さんはいつまでも原田さんだったのである。原田さんのためにご飯を作るのも、洗濯をするのも、すべてがどこかおままごとじみていた。いい奥さんであろうとするほど、本当のわたしではないような居心地の悪さを感じる。原田さんは、結婚前と変わらず優しかった。
 結婚を機に、私は工場経理から本社経理に異動になった。通勤距離を鑑みて、上司が働きかけてくれたらしい。その前から経理間の異動の話は出ていたから、本社としても渡りに船だったそうだ。パートのおばさんは泣いて送り出してくれて、退職するわけでもないのに大きな花束をくれた。つい目頭が熱くなって、花束に顔をうずめた。
 原田さんは人事部のままだった。年齢があがって採用業務の多くを担い、帰りが遅いのは当たり前だった。私は本社経理の業務に慣れるので精一杯で、原田さんを気遣う余裕はなかった。
 結婚してからも、秋山さんは私と原田さんのことを度々からかった。
「原田は頼りないところがあるから」
原田さんは優柔不断というか、相手を慮ろうとするあまり決めきれない節が確かにあって、それが頼りなく映ることもあった。一方で、だからこそ安心して何でも言うことができるのであり、私はそれを欠点とは思わなかった。秋山さんも、軽い憎まれ口をたたくのが癖で、どこまで本気で言っているのかは分からなかった。後輩の面倒見もよかったから、人にちょっかいをかけてはその実様子を窺っていたのかもしれない。
 当時私を悩ませていたのは、子どもに恵まれないことだった。結婚して三年、私は二十三歳、原田さんは三十歳になっていた。そのうち授かると思って一年、二年が経ち、ひょっとすると難しいのかもしれない、と不安にかられるようになった。原田さんは子どもが好きだった。私は父母との不和も手伝って、自分が子どもを持つことが果たして子どもにとって幸せか、答えを出すことができずにいた。原田さんもそれを分かっていたのだろう。私に子どもがほしいと言うことはなかった。だが、子どもを見かけるたびに自然とほころぶ原田さんの横顔に、私はどうしても子どもを産みたいと思うようになっていた。
 毎朝基礎体温を測ってみる。幸い生理周期は安定しているほうだった。困ったのは、原田さんがあまりに淡白だったことだ。仕事で疲れているのだろう、家に帰ってくるなりそのまま玄関で寝てしまうこともあって、そういう日はどうしようもなかった。タイミングがあわないまま数ヶ月が経っていることもあって、生理が来るたびに憂鬱になる。子どもが欲しいなら協力してほしいとも思ったが、私がどうして子どもを望むのか、うまく説明する自信はなかった。現実から目をそむけていたのは私のほうかもしれない。
 複合機の前でコピーが終わるのを待っていると、秋山さんが話しかけてきた。
「のりちゃんは相変わらず忙しそうだね」
「締日が過ぎたので、今は落ち着いてますよ」
「原田のことで、ちょっと時間とれるかな」
「何かあったんですか?」
「そこの打合せ室で待ってるから、手が空いたらおいで」
 コピーした書類をまとめて綴じて、急ぎ打合せ室に向かう。秋山さんは缶コーヒーを片手に、珍しく落ち着かない様子だった。
「改まって、どうしたんですか」
「のりちゃん、最近原田に変わったことあった?」
質問の意図が分からず怪訝に思う。
「特にないと思いますけど」
「残業がやたらと多いとか、仕事の愚痴とか、なんか聞いてない?」
「残業は前からずっと多いですけど、以前と比べて特に変わったことはないと思います」
原田さんとは随分ご無沙汰だったことを思い出す。秋山さんの質問に対して、真っ先にそれが浮かぶ自分が恥ずかしい。気にしているつもりなどなかったのに、心の底では寂しいと思っていたのだろうか。
「ちょっと気になってて、いや、のりちゃんは気にしなくていいと思うんだけどさ」
秋山さんは声を潜めた。
「本当に仕事が忙しいのか、確認したほうがいいと思う」
「仕事以外で忙しい可能性があるってことですか」
「いや、もしかしたら、何かに悩んでるのかもしれないし、俺の取り越し苦労だったら笑ってほしいんだけど」
「はあ」
「とにかく、何か変わったことがあったら教えてよ」
「まあ、できる範囲でなら」
秋山さんは話を終えるとそそくさと会議室をあとにした。気にしなくていいと言いながら、そのくせ何かあったら教えてほしいとはどういうことなのか。要領を得ず、仕事に戻っても頭の隅で何かが引っかかっていた。

 夕飯を作るのは、原田さんより帰りの早い私の仕事だ。自分の持ち場の仕事を終えたら、一直線に家に帰る。その日も夕飯を作り、自分の分を食べ終えて風呂に入る。惰性でテレビを観ながら歯を磨き、ベッドに入るころにようやく玄関で鍵を回す音がした。
「おかえり」
「ただいま、遅くなってごめんね。先に寝てていいからね」
「ご飯は?」
「軽く食べてきたけど、もしあったら食べたいな」
「お鍋に残ってるの、温めて食べて」
「いつもありがとうね」
ここまではいつもの流れだ。原田さんは疲れているから、私はそれ以上話しかけないのが常である。無理を押してまで聞いてみようと思ったのは、昼間の秋山さんが言ったことがどうしても気になったからだった。
「いつも帰り遅いけど」
「うん」
「本当は何してるの」
どう聞いていいのか分からなかった。だから、そのまま聞くしかなかった。仕事だよ、とすぐに返答があると思ったら、原田さんは何も言わなかった。いや、何も言えないでいるのだ。目は泳ぎ、明らかに動揺していた。さらに言葉をかけるべきか一瞬悩んで、適当な答えで濁されるよりも原田さんが落ち着くのを待ったほうがいいと思った。
「今すぐに答えなくていいから、またちゃんと教えて」
原田さんは何か言いかけたようにも見えたが、私が寝室に戻っていくのを引き止めはしなかった。
 原田さんがご飯を食べて、お風呂に入っているあいだも、ずっと眠れなかった。昨日まで隣で寝ていたはずなのに、赤の他人が家にいるような居心地の悪さを覚える。今まで、原田さんが考えていることは手に取るように分かった。そう、思っていた。内定をもらった時から、入社してお付き合いするまで、プロポーズの時も、いつも私は原田さんに安心しきっていた。いつの間に、秘密ができてしまったのだろう。それともはじめから、私の勘違いだったのだろうか。
 日曜日、原田さんは早くから外出した。予定がなければ昼過ぎまで寝ていることもたびたびで、わざわざ目覚ましをかけて出かけていくのはとても珍しい。行き先は分からなかった。午後三時をまわった頃にようやく帰ってきて、少し歩きたいと言う。有無を言わさない雰囲気の中に緊張しているのが伝わって、こちらもつい神妙になる。軽い羽織だけとって、つっかけのまま家を出た。
 原田さんは道中何もしゃべらなかった。重苦しい空気を変えたくて、何でもいいから話をしたいのに、言葉がうまく舌に乗らない。
「ここでいいかな」
家の近くの、いつも客のいない喫茶店を原田さんは指差した。いつも前を通るだけで入ったことはなかった。無言で頷くと、原田さんは慣れた様子で店内に入っていく。原田さんは入ったことがあるのかもしれない、と思った。
「何か飲む?」
「じゃあアイスコーヒーで」
「僕も」
すぐにコーヒーが二つやってきて、原田さんはガムシロップをふたつ自分の分に入れた。ストローでそれを無表情にかき回し、何も言おうとはしない。原田さんから言い出しづらいのであれば、こちらから切り出すしかない。
「どうしたの」
原田さんはこちらを一瞥して、すぐに目線を落とした。
「このあいだ、言ってたこと」
「うん」
「考えたんだよ」
「うん」
「僕は、最低だ」
原田さんはコーヒーに口をつけず、そのまま黙りこんだ。左手は固く握ったまま、少し震えていたかもしれない。
「どういう意味か、説明してくれないと分からない」
今まで見たことのない姿に、つられて私も動揺してしまう。もっと優しい言葉を選ぶことができたかもしれないのに、原田さんの苛立ちがこちらにも伝染したのだろうか。
「のりちゃんのことが、好きかどうか分からなくなったんだ」
会話の内容がうまく頭に入ってこない。考えることが、できない。
「どうして」
「僕は、ずっと、のりちゃんの保護者だった。今でもそう思っている。それは、好きとか、そういうのじゃなかったのかもしれない」
「同情だったの?」
自分から蔑む必要はなかったのに。一度口にした言葉はそれが本当であるような気がして、涙が滲む。同情、その言葉のむごさに自分で驚いた。
「同情、ではなかったと思ってるよ」
原田さんも、同じことを思ったのだと思う。男の人が泣いているのをはじめて見た。
「井上さん、分かるかな」
「顔は分からないけど、知ってる」
同じ会社に、私より三歳年下の井上さんという女性がいた。私と同じ高卒採用で、工場経理を担当している。つまりは私の後釜である。知らないはずはない。
「二年前、だから結婚して一年ぐらい経ったころだけど、君と全く同じ境遇だったんだ」
聞けば、井上さんも家庭が複雑で、入社までに何度か揉めたのだと言う。
「だから、井上さんの身元保証人になったんだ」
「どうして私に相談してくれなかったの」
「相談しようと思った。だけど、どうしてだかできなかったんだ」
その時からすでに予感があったのだろうか。
「のりちゃんのときは、お父さんの急死はあったけど、その後は特にトラブルもなかったろう。井上さんは、入社後も色々あったんだ。ご家族で刃傷沙汰もあって、井上さんが一時的に不安定になったりして」
原田さんが一生懸命説明しようとしてくれているのは分かった。なのに、私には何も響かない。
「井上さんが不安定なあいだは、僕が支えてあげようと思ったんだ。誰か、支えていなければ、彼女が折れてしまう気がして」
「井上さんは他人でしょう」
「他人かどうかなんて、関係ないよ。自分の目の前で、誰かが困っているのを放っておけなかったんだ」
「私は、井上さんと同じ?」
原田さんの目が、おびえている。椅子に座りなおして、頭の後ろをかきながらまた言葉を探している。
「私と結婚したのは、私が困っていたからなの?もし私が不幸に見えなかったら、結婚しなかったの?」
「そうじゃない。確かに、のりちゃんと親しくなったのは、のりちゃんの家庭が複雑だったからかもしれないけど、僕は本当に、のりちゃんを好きだと思っていたんだ」
「じゃあどうして好きかどうか分からなくなったなんて言うの」
「井上さんが、好きになってしまったんだ」
絶句した。
「僕が困っているのを、井上さんも分かっていたと思う。僕が結婚しているのも知っていたし、何かある度に僕を頼ってしまうのを、井上さん自身が申し訳ないと言っていたから。僕は構わないと言ったんだけど、井上さんからもう終わりにしたい、その代わりにお願いがあると言われたんだ」
その続きを原田さんの口から聞きたくなかった。私は、自分の言葉で原田さんが話すのを遮った。
「井上さんと寝たんだ」
原田さんは静かに頷いた。
 グラスはいつの間にか空になっていた。氷が溶けたあとの水をストローでずるずると吸い上げる。別の飲み物を注文すればいいのに、すべてが億劫だ。
「情が移ったんでしょう。私と井上さんは一緒なんだ。かわいそうな、保護すべき対象でしかないんだ。好きとか、そういうのじゃないって気づいたんだ」
原田さんは、否定しなかった。
「やっぱり同情だったんだ。はじめから、好きじゃなかった。かわいそうな私に優しくして、それで満足してたんだ。私がかわいそうじゃなくなったから、どうでもよくなっちゃったんだよ」
原田さんは私が話すのを遮ったりはしなかった。唇を強く噛み、目をつぶったまま、この時間が過ぎるのを待っている。
「私は、好かれるような人間じゃなかったんだ」
「それは違うよ、そんなふうに思っていいことなんてない」
「何が違うの。原田さんが私を好きじゃないことは、もう明白なのに」
「違うんだよ。確かに僕は、のりちゃんを好きだった。それは信じてほしい」
同情からはじまる恋に、好きも嫌いもあったものだろうか。かわいそうな私と同じ場所まで降りてきたという、いわば奉仕精神のようなものに、自分に酔っていただけではないのか。
「僕が最低なのは、その通りだ。だからといって、のりちゃんに価値がないなんて思わないでほしい」
無茶苦茶だ。原田さんが私を好きであると思うからこそ、自分をぶつけることができていたのに、今はすべてが怖い。この瞬間も、原田さんを傷つけて、更にはもっと傷つけばいいと思う自分が空恐ろしい。今までのすべてが同情のもとに成り立っていたのなら、私は誰にも愛されてこなかった。あまりにも惨めだ。
 原田さんが井上さんに惹かれていることを知らないまま子どもを望んでいたことも、自分の身の程知らずさに鳥肌が立つ。原田さんは単に子どもが好きなだけで、私との子どもなどはなから望んでいなかったのかもしれない。そもそも、自分が子どもを持つということを、軽く考えすぎではなかったか。なのにどうして、毎日基礎体温を測っていたことを、生理がくるたびにひとりトイレで泣いていたことを、こんなに恨みがましく思い出すのか。涙で前が見えないくらい、悲しくなるのはどうしてなのか。もう、原田さんと身体を重ねることはないだろう。お互いの身体が汚らわしく思われて、それでも寂しいと思う自分の弱さに吐き気がする。
「ずっと、逃げていたと思う。気の迷いであればいいって、少し経てば忘れられると思って。でも、のりちゃんに言われて、中途半端なままのりちゃんに触れちゃいけないって思ったんだ。遅くなって、本当にごめん」
「私に言われなければ、ずっと黙っているつもりだったの?」
「分からない。このままじゃいけないとは思っていたけれど、正直怖かったんだ。のりちゃんとの生活を、壊したくなかったから」
身勝手だと思うのに、それでも原田さんのことを責めきれないのは、私も同じだからだろうか。私だって、何かが変わってしまうことが怖くて、原田さんが私を見ていないことから目をそむけていたのかもしれない。
「私は、原田さんとの子どもがほしいと思ってた。でも、もう分からない」
原田さんが息を呑むのが分かった。驚いたのだろう、見開かれた目から涙がぽろぽろとこぼれていた。
「のりちゃんは、子どもなんかいらないんだと思ってた」
「そんなこと、一回も言ってないよ」
「何というか、のりちゃん自身に色々あったわけだし、親になることそのものに抵抗があると思って」
やっぱりそうだったんだ。お互いが遠慮して、せっかくの機会をふいにしていたのだ。私が基礎体温を測っているのは、妊娠したいからではなく、妊娠したくないから、と思っていたのだろう。原田さんが淡白に思われたのも、私を気遣ってのことだったのかもしれない。そう思えばいよいよ虚しい。原田さんを待って過ごした夜が一気に去来して、私の胸を締めつける心地がした。もう一度抱いてほしい、なのに原田さんも私も汚れてしまった。
 原田さんは、私の気持ちに沿いたいと言った。離婚するもしないも、私の自由だという。卑怯だと思ったが、それが原田さんにとって精一杯の誠意らしい。その夜、私は原田さんと同じ部屋にいることに耐えられないと思った。たったひとりの家族だと思っていたのに、誰よりも遠く感じる。原田さんは家には帰らず、近くのビジネスホテルに泊まった。ふたりだと手狭に思われた部屋が、ひとりだとがらんどうだ。私の中も、空っぽになってしまった。

 私には、原田さんのほかに頼れる人がいなかった。中学校も高校も、卒業後誰とも付き合いがない。私自身が人と向き合うことを拒否していたのだから、当然の結果だった。
 今まで、私は自分のすべてを原田さんにぶつけていた。父も母も、私に見向きしなかった。私の中でくすぶり続けて、蓋をしても隙間からこぼれていく気持ちを、原田さんはひとつずつ拾ってくれた。そう思っていたのは幻想だったのか。原田さんをすり抜けて、どこか遠くでわたしは泣いているのかもしれない。
 母に、会いたいと思わなかったわけではない。原田さんに出会うまでは私の唯一の家族だったのだ。父が死んだ日、一瞬でも心が通った気がした。母に電話をかけようとして、何とか思いとどまる。どんなに手を伸ばしても、母は私のことを受けとめてくれはしない。話を聞いてくれることもないだろう。過ぎた日々を美化するのは悪い癖だ、どれだけ手酷い扱いを受けてきたのか、もう忘れてしまったのか。母と同じく夫から見捨てられた私を母は笑うだろう。私は誰にも顧みられない。
 次の日、私はいつも通り出社した。原田さんも、ホテルから出社したのだと思う。あるいは井上さんと会っていたのだろうか。信用できないのなら、原田さんを家から追い出すべきではなかったかもしれない。それでも私はひとりになりたかった。どんなに寂しくて、家の中の静寂を抱えきれなかったとしても、原田さんと一緒にいるということに私は耐えられなかった。
 仕事をしているあいだは何も考えなくてよかった。泣きはらしたまぶたも昼ごろには目立たなくなった。仕事があることに心から感謝した。
 午後になって仕事が一段落すると、井上さんがどんな人なのか急に興味が湧いてきた。以前の私と同じ仕事をしていることは知っていたし、毎月の締めや棚卸業務で彼女の名前を見かけることもあった。どんな顔をしているのだろう。私に、似ているだろうか。ひょっとすると、過去の社内報か何かに写真が残っているかもしれない。気になりはじめると居ても立ってもいられず、共用のキャビネットに保管されている社内報のファイルを漁った。
 二年前の春号に、採用されたばかりの社員が並んだ写真を見つけた。隅に、事務服に身を包んだ女の人が写っている。他にも女の人は何人かいたけれども、おそらく彼女が井上さんだろう。少し身を引いて、居心地悪そうに、それでもどこかはにかんでいる様子が自分と重なる。きちんと化粧をして、私よりずっと垢抜けていた。なのに、私とどことなく似ていると思うのは、原田さんに好かれていたいと今でも思っているからだろうか。どうにかして彼女との共通点を見出そうとしてしまうのだろうか。写真の下にはそれぞれの社員の抱負が記載されていて、井上美紅、という名前の下に「精一杯頑張ります」と当たり障りのない言葉が書かれていた。
 原田さんはその日も家に帰らなかった。私がいいと言うまで、帰らないつもりかもしれない。井上さんの家にいるのではないか、と被害妄想じみた考えが頭をよぎったが、それを打ち消すだけの材料も、原田さんに連絡する勇気も、私はどちらも持ち合わせなかった。ふたりの家に、私ひとりだけがいる。もうひとりは、二度と帰ってこないのかもしれない。
 数日が経って、原田さんが出社していないことを知った。人事部と経理部はフロアが分かれているため、お互いが顔を合わす機会は多くない。上司から原田さんの様子を聞かれても、言葉を濁すしかなかった。原田さんがどこにいるのかすら、私は知らない。原田さんを探すべきだろうか。探す意味が、私にあるだろうか。私は、原田さんと一緒にいる資格を持っているのだろうか。原田さんが私を好きではないのなら、一緒にいるほうがお互いに辛くなる気がする。私は原田さんを解放すべきなのかもしれない。
 金曜日、秋山さんと偶然廊下で出くわした。秋山さんは、何もかも知っていたのだろうか。少なくとも、思うところはあったのだろう。そうでなければ、私に探りを入れたり、忠告したりしないはずだ。
「秋山さん」
「ああ、のりちゃん元気?」
挨拶もそこそこに聞きたかったことをぶつけた。
「秋山さんは知っていたんですか」
「何を?」
「原田さんのことです」
秋山さんは眉間に皺をよせて、周りに人がいないか気にする素振りを見せた。
「のりちゃんは本人から聞いたの」
「はい」
「今日、時間あるかな」
「仕事終わりですか」
「うん、終わったら外で待ってて」
秋山さんは、前回と同様そそくさとその場を去った。仕事を定時に終え、地下鉄の入口で秋山さんを待った。秋山さんと社外で会うのははじめてだ。ほどなくしてネクタイを解いた秋山さんが現れ、一緒に地下鉄の階段を下る。
「のりちゃんはお酒飲めるの」
「少しなら」
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれるかな」
地下鉄で二駅すぎたところで降りて、地上に出てみれば知らない街が広がる。原田さん以外の人とはもちろん、原田さんとですらほとんど外出しなかったことに気づく。家と学校、会社との往復のほかに、私は何も知らないまま大きくなった。遊びに行くことも、寄り道をすることも、悪いことのように思えた。いつも家にはりつけられて、犠牲を強いられてこそ、私の居場所だと信じて疑わなかった。それ以外の場所に足を踏み出すことは、人生のレールから外れてしまうような恐怖すら感じていたし、そもそも考えつかなかったというのが正直なところである。はじめて秋山さんと知らない街に降り立って、心が粟立つと同時に、わたしではない私に期待している自分がいた。
「俺は生で、のりちゃんは?」
お酒はほとんど飲んだことがなかった。秋山さんに聞かれて、先に飲み物を決める必要があるのだと知った。壁に貼られたメニューを見て、とっさに梅酒ソーダを注文した。梅酒なら、家でも飲んだことがあるから平気だと思った。
「俺、お腹空いてるから適当に頼むね」
飲み物が提供されると、秋山さんは乾杯もそこそこにいくつかの料理を注文した。私は所在なさに小さなお通しをつまむ。美味しいとは思わなかった。
「のりちゃんは、原田から聞いたんだよね」
「はい」
「俺は、全部は知らない。原田本人に確かめてもいない」
枝豆がやってきて、秋山さんはそれを次々に口に放り込みながら続けた。
「でも、工場で噂になってるんだ。いつまでも原田が井上さんに会いに来ているって」
「はあ」
「工場の連中とはのりちゃん親しかっただろ。だから、いつどんな形でのりちゃんの耳に入るともしれないと思って」
「工場の皆さんは、どこまで知ってるんですか」
「知ってるというか、あくまで噂だけど、原田と井上さんはできてるって思ってる人はいる」
恥ずかしかった。秋山さんだけでなく、複数の、それもある程度の数の人が原田さんと井上さんのことをそういう目で見ている。しかも、それは噂の域を出ていなくてもほぼ事実と相違ない。私はかわいそうな人として多くの人から同情を集めるだろう。同情。また同情されるのだ。私は、そんなにかわいそうな人間なのか。かわいそうでなくなることは、不可能なのだろうか。理不尽だと思う。何に対して怒ってよいか分からず、勢い手元の梅酒ソーダを一気に飲み干した。炭酸が鼻に抜けて痛い。
「いい飲みっぷりだな。今日は、気が済むまで飲んだら」
秋山さんもビールを飲み干して、次の飲み物を注文する。味の濃い料理にお酒が進んで、お手洗いに席を立つと足元が覚束なかった。いつの間に酔いが進んでいる。
「秋山さんは、井上さんと会ったことあるんですか」
こんなことを聞いてどうしようというのだろう。もう、どうしようもないところまで来ている気がする。今さら井上さんがどんな人かを知って、井上さんと出会う前の原田さんに戻れるわけでもないのに、それでも知りたいと思う。
「俺は工場で見かけたぐらいで、直接話したことはほとんどないんだけど、ちょっと幸薄そうというか、そういう感じはある。放っておけないというか」
社内報の写真を思い出す。写真を見た時は私に似ていると思ったのに、本当は似ても似つかないことを思い知らされる。私は、かわいそうとは思ってもらえても、誰かに世話を焼かれるような人間ではなかった。原田さん以外は、いつも私を素通りしてきた。とっくに分かっていたことだけれども、私は井上さんにはかなわない。これから先も、ずっと。
「のりちゃんは、これからどうするの」
「分かりません。今は考えられない」
「そっか」
グラスの氷がだらだらととけるのをずっと見ていた。何をするのも億劫で、食べるでもなく飲むでもなく、このまま動きたくない。秋山さんは、何も言わずそれに付き合ってくれた。私が何度目かのお手洗いから帰ると、秋山さんは会計を済ませて私を待っていてくれた。

 その後、どうしてそういう流れになったのかが思い出せない。店を出た時点でお互いに相当酔っていたことは間違いない。私の足がもつれて、秋山さんにぶつかる。秋山さんの大きな手が私の頭をなで、私が小さく謝る。秋山さんには聞こえなかったかもしれない。
 近くのホテルで、ふたりで一晩を過ごした。同じベッドに座って、お互いの服を脱がせる。今なら引き返せるかもしれないと思い何か話しかけようとしても、原田さんとは違う腕に引っ張られてなし崩しになる。私は、原田さんではない別の人に抱かれる。遅かれ早かれやって来る未来だったのかもしれない。原田さんと別れてしまえば、私は自由だ。現に、原田さんだって別の人と関係しているではないか。結婚していても、好きではないと言われてしまえばそれは終わっているも同然だ。目の前にいる人が原田さんでも原田さんではなくても、もうどうでもいいと思った。
 原田さん以外の人に、抱かれたことがなかった。原田さんとは違って、秋山さんは舐めるように私の身体を抱いた。疲れ切って、これ以上何も出てこないと思うのに、秋山さんは飽きずに何度も私を抱く。いつ終わるのだろう、と天井を見上げていたのを覚えている。最後は声も出なかった。何の感情もない。虚しいと思うのに、抱かれているあいだはどこかで安心している自分がいる。そのあいだだけは、誰かとつながっている、と思った。
 翌朝、言葉少なに秋山さんと別れた。ひとり地下鉄に乗り、しわくちゃのスカートが恥ずかしいと思った。
 家に帰ると、玄関に原田さんの靴がある。いつの間に帰ってきたのだろう。壁にかけた鏡に自分の青い顔が映る。昨晩の嬌態を重ねて、後ろめたさよりも充実感すら感じていることに我ながら驚く。私を見くびらないでほしい。陰日向で哀れみを受けるだけが能ではないのだ。思い切りよくドアを開けると、原田さんが椅子に座って待っていた。
「帰ってたの」
「うん」
「いつ」
「昨日の晩だよ」
「そう」
私がそれ以上聞こうとしないのに慌てて、原田さんは私の腕を引いた。とっさにそれを振りほどいてしまい、原田さんよりも私自身がそれに驚いた。
「井上さんと、別れてきたんだ」
「会社を休んでまでして?」
「勝手に何日も空けてごめん。僕がけじめをつけないことには、のりちゃんだって、何も決められないだろうと思ったんだ」
今さら、殊勝な態度で機嫌を取ろうとしても無駄だ、そう思うのに、原田さんを見ると情が移って身動きが取れない。原田さんが私との関係を望むなら、それを今壊す必要があるだろうか。たとえ、私のことを好きでも嫌いでも、これからも原田さんは私の保護者なのだ。
「会社はどうするの」
「僕は来週から出勤する。井上さんは、昨日付けで退職した」
突然の告白に動転する。
「井上さんは、退職したの?」
「僕は、のりちゃんを傷つけたんだ。だから、けじめをつけないといけない」
「けじめって、井上さんがつけるものなの?」
原田さんは言葉に詰まった様子だった。しばらくして、それ以外に方法が浮かばなかった、と小さな声で答えた。
 どうして井上さんが犠牲になるのだ。彼女はひとつの家庭を壊したけれど、そもそも原田さんが井上さんに応えなければこんなことにはならなかった。原田さんが自分の感情抜きに私にすべてをゆだねても、その陰で井上さんが割りを食うことは納得がいかない。一方で、社内の噂が下火になっていくだろうと安心している自分がいる。自分が浅ましいと思う。浅ましいくらい、自分の気持ちに素直になったほうが、奔放なくらいが可愛いのだろうか。自分の可愛げのなさはよくよく分かっていて、秋山さんとの情事がふと思い出される。相手に情がないほど、自然に振る舞えるのだ。どう思われても構わないから、自分の浅ましさに目を向けずに済む。
「僕は、のりちゃんに従うよ。離婚するもしないも、のりちゃんが決めてくれていい」
原田さんはどこか他人事だ。自分が蒔いた種を井上さんに刈り取らせて、自分は何も決められない。
「原田さんは、一度でも私のこと、好きだった?」
原田さんは私と目を合わさずに言った。
「分からない」

 原田さんは翌週から出勤し、私は毎日ふたり分の食事を用意した。洗濯もするし、掃除もする。今までと変わらない生活を続けた。人事通報が廊下に貼り出されていて、井上さんが確かに退職したことを知った。それ以外、何も変わらなかった。
 あの日以来、秋山さんとは会っていなかった。鉢合わせしないように、向こうが気を遣っていたのかもしれない。もともと、社内でときどき顔を合わせるぐらいの関係だったのだ。もし原田さんが秋山さんの同期でなければ、声をかけられることもなかっただろう。原田さんと生活を続けるうえで、あの日のことが引っかからないわけではなかったが、お互いを好きではないのに気にする必要があるだろうか。原田さんと今後も生活を続けるかどうか、すでに私の中で答えは出ていた。
 異変があったのは、一ヶ月過ぎたころだった。朝方に少し出血があって、下着にナプキンをあてたが一向に生理がやってこない。とうに生理が来ておかしくない時期だったので、今月は調子がおかしいとは思っていた。秋山さんのことが頭をかすめ、まさかと首を振る。たった一夜のことだ。今まで、原田さんとの子どもをどんなに望んでも授からなかったのに、そんなことがあるだろうか。会社を早退して向かった婦人科で、妊娠七週だと告げられた。中絶は、二十二週未満に実施する必要があるらしい。
 秋山さんには言えないと思った。向こうはそんなつもりはこれっぽっちもなかっただろう。雰囲気に流されて用意のないまま受け入れてしまった自分が情けない。こんなことになるなんて、想像もしなかった。
 家に帰るとまだ日が高い。西日が家の中を照らしていて、どうしようもなく寂しい気持ちが募る。私の中に新しい生命が宿っているのに、誰にも歓迎されない。望まれずこのまま葬り去られる運命を、誰が呪わずにいられよう。この子ではなく、私が罰せられるべきなのに、私はこれからものうのうと生きていく。私は、わたしだけではなく私の子どもまで殺してしまうのだ。
 原田さんにはすべてを話す必要があった。婚姻中は、中絶するにも夫の同意が必要だったからだ。相手が夫ではない時、どういう取り扱いになるのかは病院でも確かめなかった。手術費用も馬鹿にならない。どうあがいても、原田さんに黙っておくわけにはいかなかった。
「原田さん、話があります」
夕飯を食べ終えた原田さんに声をかける。最近は用がなければお互いに話すこともなかったから、どうしても改まった言い方にならざるを得ない。原田さんもこちらの様子を見て、姿勢を正して椅子に座り直す。
「妊娠しました」
原田さんの目が見開かれるのが分かる。何が起こったか分からなかったのだろう、カレンダーを見て、怪訝な顔をする。察しがついたのか、こちらの顔とカレンダーを交互に見比べ、顔がみるみるゆがんでいく。
「別の人の子どもです」
突然、原田さんが立ち上がった。口をぱくぱくとさせ、手は拳を胸のあたりで上げたり下げたりしている。そのまま、何も言わずに家を出てしまった。
 しばらくして家に戻ってきた原田さんに、中絶するには夫の同意が必要なこと、手術にかかる費用を伝えた。原田さんは話半分、どこか虚ろで何も聞いていないようにも見えた。風呂にも入らず布団をひっかぶって、そのまま寝てしまった。私はまんじりともせず、居間で一晩を明かした。お腹の子どもを思うと、何もできなかった。
 少しずつ、つわりの症状が出はじめた。日中もやたらと眠い。段々と匂いが気になるようになり、湯気にあたると吐き気をもよおした。このままでは周りに気づかれるのも時間の問題である。一刻も早く手術を受けたいのに、原田さんは私の話を聞いてはくれず、病院からもらった書類にも目を通してくれなかった。お腹の子どもが日に日に大きくなっていくと思うと怖くなる。もし、私が手を下さずにすむのなら、子どもをこの手に抱くことができるなら、とありもしない姿を思い浮かべて泣きたくなった。このままでは誰も幸せにならない。
 妊娠したことを母に伝えるべきか、悩んでいた。母はどうして私を産んだのだろう。覚えているのは血のつながっていない父ばかりで、実の父親は顔も知らない。気づいた時には私は母の連れ子だった。どんな経緯で私が生まれ、実の父親と母のあいだに何が起こったのだろう。実の父親が生きているのかすら分からなかった。今さら、母が、父が、恋しいと思う。私を産んだ瞬間、母は嬉しかっただろうか。それとも、恨めしいと思っただろうか。私は、望まれた子どもではなかったと思う。母は私をひとりで育てなければならず、その姿は苦痛を伴っていた。結局のところ私は母と父を隔てる障害でしかなかった。それでも、私を授かった時、あるいは産む瞬間、少しでも幸せだったろうか。
 病院に行って二週間が経とうとしていた。医者からはもう一度受診するように言われていたが、なかなか足が向かない。内診を受けた時、小さな丸い何かが懸命に脈打つ姿を見て言葉が出なかった。この二週間のあいだに、更に成長しているに違いない。もし、人の形をした姿を見てしまったら、本当に中絶できるか自分に自信が持てなかった。母なら、どうしただろうか。望まれない子どもに、手を下すことができただろうか。どうしても聞いてみたいと思った。
 父が死んでからはじめて、母に電話をかけた。コール音だけが聞こえる。何度目かで急に胸騒ぎがして、着の身着のまま駆け出した。電車を乗り継いで三十分程度の道のりがこんなにも長い。人いきれに気持ち悪くなりながら、最寄り駅にたどり着いた時には夕方になっていた。家路につく人たちの、背中に奇妙な哀愁が漂う。いくつもの背中を追い抜きながら、今この瞬間がスローモーションで再生されていると思う。私の家は確かにこの先にあって、今までもこれからも、結局私は母と暮らしたあの家から逃れられない。私は、母から逃れられない。
 家の鍵は開いていた。扉を開けると熱気がむんとこもっていて思わずむせる。狭い廊下に母の鞄が転がっていて、土足のまま居間に駆け上がると母がうつぶせに倒れていた。肩を揺すっても何の反応もない。救急車を呼ぼうと携帯電話を握る手が震えた。
 救急隊員の呼びかけに現実に引き戻される。担架で運ばれる母をよそに、私は居間に座りこんだままだった。救急車に一緒に乗せられ、総合病院へと向かう。道中、原田さんに電話をかけたけれど、原田さんは出てくれなかった。留守電に要件だけ吹き込んで、電話を切った。甲高いサイレンが鳴り響く中、ふわふわと高揚感すら感じる。今起こっていることが、本当なのか分からなくなる。目が覚めてしまえば、すべてはなかったことになっていて、母も私もいつも通り、あの家に閉じこもっているような気がする。もう二度と戻れないことに本当は気づいているのに、とりとめのないことばかりが浮かんで目の前の出来事がよく飲みこめない。
 母は、病院で死亡が確認された。脳梗塞だった。脳梗塞が二回目だったこと、日頃から高血圧で通院していたことを聞かされたが、寝耳に水だった。母はまったくおくびにも出さなかった。私が家を出て数年しか経っていないのに、母はあっという間に老いていなくなってしまった。時間外の病院で、ひとりぽつんと待合のソファに腰かける。隣には、父も母もいない。本当に、ひとりぼっちになってしまった。母は私の妊娠を知らないまま死んだ。私が知りたかった答えは、二度と得られない。私は、望まれて生まれたのか。母だったなら、お腹の子どもに手をかけることができたか。悲しさよりも、虚しさがしみのように拡がっていく。
 夜の八時をまわったころ、私は母と暮らした家に戻った。私がいた時よりも、家は随分ものがなくなっていた。あるのは鏡台とダイニングテーブルぐらいで、テレビやそのほかの家具はほとんど処分したらしかった。押入れから母の布団をひっぱり出し、泥のように眠った。身体は重く、吐き気も忘れるほどの疲労困憊ぶりだった。
 翌朝、インターホンの音で目が覚めた。原田さんだった。原田さんは、母の死亡手続きをすべて代行してくれた。簡単な葬儀もした。そのころ、私はつわりでほとんど動けなくなっていた。これ幸いと忌引で会社をまとめて休み、原田さんがあちこちの手続きを進めてくれるのを他人事のように眺めていた。手のひらほどに収まる骨壺だけが、私の手元に残った。
「のりちゃん、これ知ってる?」
原田さんが私に手渡したのは、弁護士事務所からの封書だった。母の家にあったものらしい。もちろん覚えはなく、中身を改めようとして差出人の名前に既視感を覚えた。
「確認することがあるから、預かるね」
中身を見るのが怖くなって、そのまま自分の鞄にしまいこんだ。翌日原田さんが出勤してから、家でひとり弁護士事務所に電話をかけた。その人は、私を訪ねてくると言った。
 母が死んで、病院に行く間もないまま会社を休み続けている。もう、時間はなかった。でも、その前に、この人には会っておく必要がある。

 食べものの匂いに敏感になっていたので、喫茶店などで待ち合わせることは難しかった。無理を言って、家の近所の公園に来てもらうことにした。
 砂場の近くに親子が座っていて、時々小さな歓声が上がる。子どもが母親に抱きとめられながら、楽しそうに笑っているのを夢のように眺めていた。約束の時間を過ぎたころ、ひとりの男性が現れる。公園には不釣り合いな、立派な背広。はじめて見る顔に、自分の面影は見つけられなかった。
「はじめまして」
「はじめまして、になるのかな。のりちゃんにとっては」
「そうですね、私は、ごめんなさい、覚えていないです」
男性は私が腰掛けているベンチの隣に、少しスペースを空けて座った。藤棚からこぼれる日差しに、思ったより若い印象を覚える。
「お母さんが亡くなったんだね」
「はい」
「脳梗塞のことは、知らなかったのかな」
「父が死んでから、連絡をとっていなかったので」
「そうだったのか。もともと高血圧だったから、お母さんも覚悟していたのかもしれない。お母さんから僕に連絡があって、遺言を残したいって言われたんだよ」
「あの、聞きたいことがあるんですけど」
「何でも聞いてほしい」
「母とは、今までも連絡をとっていたんですか」
男性は、遠くのほうを見やった。ひょっとすると、砂場の親子を見て私と同じことを思ったのかもしれなかった。
「必要最低限の範囲でね。のりちゃんが進学する時とか、本当に限られた機会だったけど。だから、のりちゃんが結婚していたことは、最近まで知らなかった」
「そうだったんですね」
聞きたいことが、言いたいことがありすぎて、何から話し出せばいいのかが分からない。それは、目の前の男性も同じだろう、お互いにきっかけを探している。
 男性は、父や母とはまるで違った。この人は、ちゃんと私を見ている。話が途切れたまま遠くを見ているその姿に、今までの葛藤をぶつけたいとも、何も言わずに穏やかな時間に身を委ねたいとも思う。
「どうして、私に会いに来てくれなかったんですか」
この人がそばにいたなら、私は今よりももっとわたしと向き合えたかもしれなかった。
「僕のことを、嫌っていると思っていたんだよ。今思い返せば本当に短絡的だった。お母さんの言うことを鵜呑みにしていた。いや、これも言い訳だね。ごめん。怖かったんだよ、面と向かって拒否されることが。だから逃げてしまったんだ」
「お父さんは私をぶったし、お母さんは私のことなんか嫌いだった」
「お父さんに難があったことは知っている。のりちゃんがあざを作ったことも聞いた。でも、お母さんのことを思うと、どうしても僕から会いに行くことはできなかったんだ。ごめんね。辛い時に一緒にいれなかったこと、本当に後悔してる」
「お母さんのことが、好きだったんですか」
「好きだった。今でも好きだよ。ほんの短い期間だったけど、僕とお母さんは本当に愛し合っていたと思う。だから、お母さんが僕のもとを去っても、それまでのお母さんを心から愛したし、今でもその気持ちは変わらない」
男性は、目の前に母がいるかのようだった。優しい目には、昔の母が映っているのだろうか。
「僕が、実の父親だとどうして分かったの」
「結婚する時に戸籍謄本を取り寄せたから、名前は知っていました。だから、封筒に書かれた名前を見て、連絡しないといけないと思ったんです。それまでは、生きているかどうかも知らなかったから」
男性はああ、と息をついた。
「えっちゃんは、最後まで僕のこと嫌いだったんだね」
それは、私には分からない。でも、目の前の男性を傷つけたくないと思った。
「母は、誰かを好きになることそのものに、困難を抱えていたと思います。多分、誰を好きになっても、自分でそれを壊してしまうというか」
「お母さんは、悦子は、確かにそういうところがあった。恋に恋するというか、自分で自分を振り回してすべて台無しにしてしまうというか。娘にも分かってしまうだなんて、いつまでも子どもだったんだね。のりちゃんには苦労させて申し訳なかった」
「あの、何とお呼びすればいいのか分からないんですけど」
「ああ、そうだよね。名字で、佐々木で構わないよ」
「あの、佐々木さんとお母さんはどうして別れたんですか」
「えっちゃん、悦子とは学生結婚だったんだ。悦子がのりちゃんを妊娠したころ、僕はまだ苦学生だった。司法試験に受からなくて、ちょっと自暴自棄になっていたかな。悦子も不安だったと思う。そのころに、篠原さん、のりちゃんのお父さんと悦子は出会ったみたい」
「じゃあ、お母さんはそのままお父さんと駆け落ちしたんですか」
「いや、悦子も身重だったし、そのころはまだそういう関係ではなかったと思うよ。のりちゃんが産まれて、三歳の時にお母さんは出ていったから。お母さんと別れることになったのは、お母さんが、悦子が悦子自身でいられなくなったからだと思う」
佐々木さんは慎重に言葉を選びながら続けた。
「のりちゃんが産まれたからではなくて、どのみちそうなる運命だったと思う。僕はえっちゃんの一番にはなれなかったし、えっちゃんはいつも誰かが迎えに来ることを望んでいたから。篠原さんは、多分誰のことも見ていなかった。篠原さんのこと、詳しくは分からなかったけれど、数回会った限りでは、空っぽの人だと思った」
「お父さんは誰にも何も、求めていなかったと思います。お母さんはいつまでもお父さんに執着していたけれど」
「えっちゃんは、自分に向いている愛情には無頓着だった。篠原さんは、お父さんは決してお母さんに振り向かなかったから、だから夢中になったんじゃないかな」
分かる気がした。母が佐々木さんとの結婚生活を打ち切ったのは、佐々木さんがあまりに愛情深かったからだ。
「私はお母さんに引き取られたんですね」
「本当は、僕が引き取りたかったんだ」
佐々木さんの目元に影が落ちる。
「あの時ののりちゃんは人見知りがひどくて、お母さん以外は手がつけられなかったんだ。僕自身、勉強だの仕事にかまけて全然世話を見ていなかったから、当然だね。ただ、えっちゃんの精神状況からして、僕が引き取ったほうがいいと思ったんだ。経済的にも、篠原さんのほうが不安定だったから。もともとえっちゃんのパート先の取引業者で、それを辞めたばかりって聞いてたからね」
「じゃあ、どうしてお母さんが引き取ることになったんですか」
「僕が気弱だったからだ。あるいは責任を放棄したと思ってくれて構わない。のりちゃんはお父さんが嫌いだってお母さんが言うのを、僕は真に受けたんだ。どんなに引き取りたくても、子どもが僕を嫌いだと言うなら引き取る資格はないと思って引き下がってしまった。のりちゃんが僕を嫌いだと思うと、自信をなくしてしまったんだ」
「お母さんは、自分の意思で私を引き取ったんですか」
「うん。お母さんは、誰よりものりちゃんのことを大事にしていたよ。最後のほうはえっちゃんは僕の目も見てくれなくなっていたけど、のりちゃんの話の時だけは別だった。それくらい、真剣だったんだよ」
「お母さんは、私のこと嫌っていました」
「僕と別れてからのことは申し訳ないけど分からない。でも、お母さんは後悔していたと思うよ。そうでなければ、僕に遺言を頼もうなんて思わなかったんじゃないかな」
「遺言って、どういう内容なんですか」
「そうだね、それを言わないといけないね」
佐々木さんは鞄の中から書類を取り出した。
「相続人はのりちゃんだけだから、今ここで話してもいいかな」
「構いません」
「遺言の内容は、相続を放棄してほしい、それだけなんだ」
「どういうことですか」
「お母さんには、それなりの借金がある。のりちゃんの学費とか、そういうのは僕から援助していたんだけれど、生活費は受け取ってくれなかったんだ。パートには出ていたみたいだけれど、篠原さんのこともあったしお金には苦労していたんじゃないかな。お母さんは、一回目の脳梗塞のあと、のりちゃんに迷惑をかけないように生前にすべてを整理しておきたいと言って僕のところに連絡をよこしたんだ」
だから家の中があんなに殺風景になっていたのか。そもそも、学費を佐々木さんが援助してくれていたことも知らなかった。母は私に何も言ってくれなかった。どうしてそんなに最後まで頑なだったのだろう。
「お母さんは、のりちゃんを嫌いなんかじゃなかったと僕は思う。愛情の受け取り方を知らない人だったんだよ。だから、どう注いでいいかも分からないし、本当に自分を愛してくれる人を見つけられなかった。そばにいるのりちゃんが、誰よりもお母さんを愛していることに気づけなかった。でも、お母さん自身はのりちゃんを愛していたよ。僕のことを最後まで口にしなかったのも、のりちゃんが僕にとられてしまうと思ったからじゃないかな」
「そうでしょうか」
「僕にはえっちゃんは最後まで理解できなかった。でも、心から愛していたよ。僕は、えっちゃんはそういう人だと思っている」
私は、佐々木さんをお父さんとは呼べなかった。目の前の人は、私の父親とは思えないくらいまっすぐ前を見ている。ぐちゃぐちゃとした私の心の中は、佐々木さんには分からないに違いない。
「のりちゃんに、渡したいものがある」
佐々木さんは鞄の中から茶封筒を取り出した。
「僕は、中身を見ていない。お母さんからだよ」
心臓が跳ねる音がする。
「ここで開ける必要はない。またゆっくり見返してくれたらいいと思う」
「ありがとうございます」
「僕は、お母さんから生前に依頼されていた諸々の整理を進める。のりちゃんは、まだ心の整理がつかないとは思うけど、困ったらいつでも連絡してほしい」
佐々木さんの言葉を聞きながら、ベンチから立ち上がろうとすると目の前が急に暗くなった。立ち眩みだ。いつもと違ってしゃがみこんでも治らない。長い時間座ったままだったからだろうか。佐々木さんの声が段々と遠くなる。
 目を覚ますと見慣れた天井がそこにあった。自分のベッドから身体を起こすと軽い吐き気がした。居間には原田さんと佐々木さんが差し向かいに座っている。
「あれ、会社は」
私の声に気づいて原田さんが思い切りよく立ち上がる。
「早退してきたんだよ、具合はどうなの」
「今は大丈夫」
「すみません、僕が長々としゃべっていたせいで、のりちゃんに無理をさせてしまって」
佐々木さんが原田さんに頭を下げる。
「のりちゃん、妊娠していたなんて知らなかったよ。どうして言ってくれなかったの」
「だって、堕ろさないといけないから」
佐々木さんの顔をまともに見れない。原田さんは、何も言わずじっと立ったままだ。
「のりちゃん」
「はい」
「もう一度、近いうちに会うことはできるかな」
「はい」
「今日はとにかくゆっくり休んで。それから、堕ろすかどうかは別にして、早めに病院に行きなさい」
「ごめんなさい」
佐々木さんは原田さんと私にそれぞれ頭を下げて、家をあとにした。原田さんは、所在なげに居間の隅に立ったままだったが、しばらくしてぎこちなく私のほうを向いた。
「今のが、本当のお父さん」
「うん」
「会うのは」
「はじめて」
「そっか」
原田さんはその日の夕飯を作ってくれた。温かいものが食べられない私に、果物をいくつか買ってきてくれた。私は食べるのもそこそこに眠ってしまった。今日、佐々木さんが言ってくれたことを考える余裕はなかった。気づいたら次の日の昼前で、原田さんはとうに出勤したのか姿は見えなかった。

 すでに妊娠三ヶ月、十一週目に入っていた。内診が終わって手渡されたエコー写真には、二頭身の雪だるまのような姿が映っていた。
 佐々木さんとは、原田さんのいない日中に家で会うことにした。午前中に病院を済ませ、佐々木さんが訪ねてくるのを待つ。正直なところ、もう一度佐々木さんに会うのは気が重かった。私が公園で倒れた後、原田さんとどんな話をしたのだろう。すでに破綻しているこの関係をどう説明したらいいのか。そして、今まさに子どもを堕ろそうとしている娘を、父親としてどう思うだろうか。
 うとうとしていたら、いつの間にか時間になっていた。インターホンが鳴り、前と同じ背広姿の佐々木さんが待っていた。
「すみません、寝てしまっていて」
「気にしないで。体調は大丈夫なの」
「今は平気です」
「病院には?」
「今朝行ってきました」
「よし」
佐々木さんが急に父親じみて見えて驚く。もう誰からも子ども扱いされないと思っていたのに、それとも、佐々木さんも父親であったことを今さら取り戻したいと思うのだろうか。
「しんどくなったら、すぐ言ってほしい」
「はい」
「時間もないと思うから単刀直入に聞くけど、堕ろすってどういうことなの」
「原田さんの、夫との子どもではないからです」
佐々木さんが天を仰ぐ。
「私は、原田さんではない男性と関係しました。それで妊娠したんです。この子は誰からも望まれていないから、堕ろさないといけないんです」
「相手の人は、妊娠したことを知っているの」
「知りません。私もその人も、そんなつもりは微塵もありませんでした。だから、迷惑をかける前に何とかしないと」
「原田さんとは、相談したの」
「原田さんではない人の子どもを妊娠していることは説明しています。いつまでなら中絶できるかも」
「そもそも、どうしてそんなことになったの」
佐々木さんは、私のことを責めようとしているのではなかった。淡々としていたけれど、佐々木さんの目はどこまでも優しかった。悪いことをしたのがばれて謝る子どもを、あやしているような目だった。
 今までの経緯を説明するのには骨が折れた。できるだけ簡潔に伝えようとするのだけれど、端折るべき箇所が分からずにだらだらと私の人生を語るようなふうになってしまう。振り返ってみれば、こうなることは必然だったのかもしれない。原田さんに愛想をつかされたのも、私が秋山さんと関係を持ったのも、皆みんな私のどうしようもなさが原因だ。誰からも見向きもされず、愛情をかけられずに育ち、少しの親切心を勘違いして、それを当然のように思ってあぐらをかいた。少しでもそれが揺らいだなら、同情だの何だのと文句を言って、気まぐれに周りを振り回す。これでは、自分で自分を振り回していた母と何ら変わらない。結果、何の罪もない子どもを堕ろさなければならなくなっている。同情にすら値しないのが私だ。
 佐々木さんは黙って聞いていた。いつの間にか泣いていた私に、佐々木さんはハンカチを差し出した。私に似ず紳士な振る舞いをする佐々木さんが面映ゆく、思わず笑ってしまう。私が笑ったのを見て、佐々木さんはほっとしたような表情を浮かべた。
「のりちゃん」
「はい」
「のりちゃんは、本当にそう思っているの」
「どういう意味ですか」
「のりちゃんは、自分は価値がない人間だと思うの?」
「だって、迷惑をかけるばかりで、どうしようもない人間です。いじけてばかりで、みじめで、嫌い」
「僕は、のりちゃんが価値のない人間だとは思わない。のりちゃんがそう思っていることが、僕は辛い」
「佐々木さんを責めたいんじゃないんです、そういう意味じゃなくて」
「のりちゃん、あのね、のりちゃんはずっと、自分で思いこんでいることがある。自分は愛される価値がないって、そう思っている。でも、それは違うよ。お母さんも、僕も、のりちゃんが産まれた時、本当に幸せだった。のりちゃんと会えなくなっても、僕はのりちゃんを忘れた日はない。お母さんも、上手くはいかなかったかもしれないけど、のりちゃんのことを大事に思っていたはずだよ。そしてそれは、原田さんも同じだよ」
「でも、原田さんは私を好きかどうか分からないって」
「それは、今の話でしょう?原田さんがのりちゃんにプロポーズした時、原田さんは確かにのりちゃんを一生大切にするって思ったはずだよ」
「でも、もう原田さんは」
「今は違っても、その時は本当だったんだ。過去を否定する必要はない。のりちゃんはその瞬間、確かに愛されていたんだよ。今、お母さんはここにいないけど、確かにのりちゃんを愛していた。その事実は、絶対なんだよ」
なかったことになってしまうと思っていた。原田さんが、私をかばってくれたことも、連絡先を交換するためのありふれたやりとりも、プロポーズの言葉も。皆嘘になってしまったと思っていた。その瞬間は、確かに原田さんは私を愛していたのだろうか。それは、なかったことにはならないのだろうか。
「だから、のりちゃんは、自分が価値のない人間だなんて決めつけないで。自分を嫌いになんかならないで。それじゃあ、自分がかわいそうだよ」
そうだ。私はいつも自分の中のわたしを押し殺してきた。いい子にして、決して目立ってはいけない。そうすれば、ぶたれることも、怒られることもない。私はわたしを出してはいけない。わたしは、顧みられる価値がないのだから。そう思っていた。でも、私がわたしを愛さずに、誰がわたしを愛するのだろう。
「秋山さんとのことは、のりちゃんにも責任がある。だから、原田さんともよく話し合って決めなさい。手術が必要なら、費用のことにも相談に乗る。身体がいちばん大事だから、無理のないように早めに結論は出しなさい」
佐々木さんはそう言って、もう一度無理しないように、と念を押して帰っていった。佐々木さんは、誰よりもお父さんだった。
 原田さんと話し合わなければならない。あの日、井上さんとの関係を知った日から、私は原田さんに向き合うことができなくなっていた。妊娠が分かってからも、原田さんが何を考えているか、知ろうとはしなかった。自分の身体のことしか、子どものことしか考えていなかった。母が死んで、実の父親と会って、私の周りが急に動き出している。そればかりに気を取られて、私自身がどうしたいのか考えられなくなっている。原田さんは、私が出す結論を、きっと待っているはずなのだ。だから、もう少しだけ、私に勇気がほしい。

 土曜日の朝、玉子が焼ける匂いで目が覚めた。気持ち悪くない。つわりが、落ち着いてきたのだろうか。もう少ししたら、普通に出勤できるようになるかもしれない。それは、中絶できる期限が迫っていることも意味する。
「のりちゃん、目が覚めた?」
久しぶりに、原田さんの目を見た。もう、会話をすることはないかもしれないと思っていた、私の夫。
「今日は少し顔色がいいね。朝ご飯、食べられそう?」
ダイニングテーブルには簡単な朝食が用意されていた。寝間着のまま、原田さんと向かい合う。サラダとヨーグルトなら食べられそうだ。
「のりちゃん」
「うん」
「ごめんね」
「うん」
「僕、ずっと考えてたんだ」
「うん」
「のりちゃんのこと、好きかどうか分からなくなったって言ったけど、僕は、今でものりちゃんが必要なんだよ」
ちぎられたサラダ菜をフォークでさしながら、原田さんの次の言葉を待つ。
「僕は、すべてを壊してしまった側だから、これからのことはのりちゃんに決めてほしい。だけど、僕にとって、のりちゃんはこれからも家族だと思ってる。だから、のりちゃんの選択を尊重したい」
サラダを飲みこんで、原田さんの顔をもう一度見る。原田さんは、穏やかな顔をしていた。佐々木さんと同じくらい、あるいはそれ以上に、お父さんのようだと思った。
「子どものことは、どうしたらいいのか正直分からなかった。だから、何も決められずに話し合いもできなかった。でも、そのあいだのりちゃんは不安だったよね。ごめん。お腹の中に子どもがいるって知って、誰よりも戸惑っていたはずなのに、寄り添えなくてごめんなさい」
「それは、私が悪いから。原田さんが謝ることじゃない。私こそ、ごめんなさい」
「のりちゃんは、子どもがほしいと思うの?」
「でも、この子は原田さんの子どもじゃないから」
「誰の子かどうかは、今はもう関係ないと思ってる。もし、のりちゃんがその子を産みたいと思うなら、僕はその子を認知するつもりだし、自分の子どもとして接したいと思う」
「そんなこと、できるの」
「本当の父親が誰かなんて、関係ない。確かに、子どもにはいずれ事実を伝えるべき日が来るかもしれないし、他の子どもより少し酷な運命を背負わせてしまうかもしれないけれど、それが吹き飛ぶくらい、僕はその子に愛情をかけて育てたいと思ってる」
そんな選択肢があるとは思わなかった。許されないと思っていた。産みたいと思うのは、自分の手を汚したくないというエゴだろうか。それとも、私は子どもを望んでいるのだろうか。本当に自分の手でこの子を抱いて、いいのだろうか。この子は、生まれてきて幸せだろうか。
「のりちゃんは、どうしたいかな」
「私は、できるなら産んであげたい。それが、この子にとって幸せなら」
「僕は、絶対幸せにする。信用なんかもうないかもしれないけど、僕はもう一度、のりちゃんと家族になりたい」
「うん」
人前で泣くのは何度目だろう。自分を押し殺して、嗚咽が出るのを必死に止めていた過去のわたしが、今原田さんの前で泣いている。そうだ、原田さんが私の身元保証人になった時から、私は原田さんの前では泣いていたのだ。佐々木さんの前でも、お母さんの前でも、私はちゃんと泣いている。私は、今までもわたしを受けとめてもらっていた。気づかなかっただけで、私は愛されていた。好きだとか嫌いという感情を超えて、私は家族を持っていたのだ。
「のりちゃんは、これからも僕と一緒にいてくれる?」
「うん」

 翌週、原田さんと秋山さんとで話し合いの機会を持った。秋山さんは、妊娠の事実にも驚いていたけれど、夫婦の子どもとして産むことに何よりも驚いていたそうだ。はじめは渋っていた秋山さんも、原田さんと私の決断に最終的には賛同してくれた。ようやく、原田さんも私も前を向けると思った。
 秋山さんは終始謝り通しで、自分が父親であることをどう詫びたらいいか分からないと頭を抱えていたらしい。それは、今も私の中でしこりとして残っているし、私と秋山さんが背負っていくものだと思う。
 原田さんはエコー写真を見てとても喜んだ。原田さんとの子どもだったならどんなによかったか、後悔せずにはいられないが、原田さんはそれは自分の責任だから、と私を咎めなかった。その代わりに、自分に負けないくらいこの子に愛情をかけてやってほしいと言った。
 しばらく会社を休んでいたから、久しぶりの出勤は緊張した。妊娠を報告し、周りから祝福される。それも束の間、私自身が日常に戻っていく。何も以前から変わっていなかったことに気づく。わたしが私に戻っていくだけだ。以前とひとつだけ違うのは、私がわたしを愛する努力をはじめたこと。私自身が自分を大事にできなければ、他人を、生まれてくる子どもを愛することはできないだろうから。
 しばらく経って、自分の鞄にしまいこんでいた茶封筒を見つけた。はじめて佐々木さんと公園で会った日、母からだと手渡されたものだ。公園で倒れてしまってから、自分のことにかかりきりですっかり忘れてしまっていた。中を開けると、母子手帳が入っていた。私の母子手帳だ。今の母子手帳とは違う、簡素な作り。几帳面な母の字でびっしりと埋まっている。妊娠から出産、健診、予防接種まで、体調の変化が事細かく書き留められ、母が何を考えていたのかがあふれていた。何度も現れる、ごめんの文字。私の体調が優れないたびにうろたえている母の姿が目に浮かぶ。私こそ、ごめんなさい。母はこんなに私を愛していたのに、気づかなくてごめん。ずっと私に謝っていたのに、父が死んだ日、謝ってほしいなんて言ってごめん。今、母に会えたなら私は心から謝りたい。母はそっぽを向いたまま、聞いているのか分からないような態度をとるだろう。それでも、ちゃんと抱きしめて、言ってあげたい。自分を、嫌いになんかならないで。あなたのことを愛している人は、きっといるのだから。

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