あらすじ 父にはぶたれ、母には平然と無視される。父母と確執を抱えたまま社会に出た宣子は、結婚によりようやく月並みな幸せを手に入れたと思っていた。しかし、その幸せは突然に終わりを迎え、今まで押し殺していた自分自身と向き合わざるを得なくなる。 本文 頬がじんじんと痛む。ぶたれた理由が分からず、動作が緩慢になる。 父が部屋を出ていったあとで、とっさに歯を食いしばっていたことに気づく。強張りがほどけるのと同時に痛みが広がる。思わず両手で顎骨を覆い、繰り返す痛みの波が遠ざかる
父は、勤め人ではなかった。 周りの家庭の多くが、電車で都心の会社に通勤するのに対し、父親は小さなトラックに部品を詰めこんで毎朝作業場に向かった。新興のニュータウンでは、個人事業主は少数派に違いなかった。 幼稚園には母が自家用車で送り迎えしてくれたが、車検だとか何らかの都合で車が出せない時、父のトラックで迎えに来てくれることがあった。 みんなは格好いいセダンで迎えに来てもらえるのに、どうしてうちだけが泥のはねたトラックなのか。トラックの屋根が見えると、誰にも見つか
私が子どものころ、母はしょっちゅうバターケーキを焼いた。 母は決して料理が得意なほうではなく、最近は嫌いだとまで公言しているから、それは子どもに手づくりのものを食べさせたいという愛情だったのだと思う。 洋菓子店の主役は、何といってもショートケーキである。一方で、バターケーキは日持ちがするからショーケースにも入れられず、明らかに脇役である。 子どもごころに、なぜショートケーキではなくバターケーキなのかを尋ねたことがある。 「要は、バターがいちばん美味しい
どこにでもエリはいる。 エリはいつの間にか近くにいて、こちらの背後をとる。私の不意をつくことができたと知って、訳知り顔で微笑むエリ。 エリは増殖する。おかっぱのエリ、おさげのエリ、少女のエリ、喪に服すエリ。どこにでもいるから、かえって気づくことができない。 こちらを覗きこむエリには、少なくともあからさまな敵意はない。反論の余地を許さない眼差し。自分が強者であることに無自覚な、多数派のエリ。 逃げても逃げても追いかけてくるのに、そばにいて欲しい時にはい
家人から聞かされるまで、そんな言葉があるとは知らなかった。はじめて聞いた時には、何かの部品だと思ったぐらいである。 エコーチェンバーとは、特定の考え方が増幅されてしまうような状況を指すという。自分にとって耳の痛い意見を排除し、居心地のよい環境にのみ身を置けば、あたかもそれが正解であると錯覚することは容易いだろう。 身に覚えがないと言っては嘘になるし、今もなお私はエコーチェンバーの中にいると思う。そう思わなければならないという、使命感にも似た認識に立っている。 そ
自らをカテゴライズすることは気恥ずかしい。 自己紹介はもちろん、自分が手がけた何かを自分で評するのはもっと恥ずかしい。他人からどう映るのか分からないまま、先んじて自分にとっての位置づけを宣言するなんて、身のほど知らずだ。 そもそも、他人からどう映るのかを気にしている時点で不埒である。目的が、承認欲求を満たすための手段に成り下がっているからだ。純粋に、何かを作ることの喜びはそこにあるのか。 かと言って、見出しがなければ誰にも見出されない。誰の目にも触れなければ、そ