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#1 カテゴライズ
自らをカテゴライズすることは気恥ずかしい。
自己紹介はもちろん、自分が手がけた何かを自分で評するのはもっと恥ずかしい。他人からどう映るのか分からないまま、先んじて自分にとっての位置づけを宣言するなんて、身のほど知らずだ。
そもそも、他人からどう映るのかを気にしている時点で不埒である。目的が、承認欲求を満たすための手段に成り下がっているからだ。純粋に、何かを作ることの喜びはそこにあるのか。
かと言って、見出しがなければ誰にも見出されない。誰の目にも触れなければ、それは机の引き出しにしまった日記帳と同じで、何らかの捌け口として気持ちを整理するうえでは役に立つだろう。それだけでは済まない何か、他人に見つけてもらうことがなぜ重要なのか。
単に、嬉しいからである。自分の手から離れて、他人の中を自由にかけめぐること。他人によって咀嚼され、消費されること。消費されること自体は悪いことではない。嫌ならば日記帳に戻ればよいことだ。
日常生活においても、一挙手一投足がプレゼンテーションである。意図せずともそれはその人を表し、各々がそれを消化する。結果として、その人を好きになったり嫌いになったりする。コミュニケーションすることが、消費活動なのだ。
そのためには、自分をカテゴライズして適切な見出しを設定する必要がある。恥ずかしいと思う気持ちをかなぐり捨てて、むしろ顔が赤くなるような見出しを積極的に活用しなければ、他人との接触機会は確保できない。
見出しがいくら目を引くものでも、中身が伴わなければ切り捨てられるだろう。場合によってはしっぺ返しをくらうかもしれない。だから、過度に見出しに期待するのではなく、実際の内容を適切にカテゴライズすることが肝要である。過大評価することなく、謙遜することもない。泰然自若とした態度が好ましい。
一方で、自分をまっすぐに見つめることが、果たしてどれだけの人間にできるだろうか。自分の中を覗きこんでも、例えば石を投げこんでみて何らかの反響が返ってくるだろうか。何もない、空虚であることが怖くて、実際に自分の中を覗きこむことなど到底できない。その日が否応なしにやって来るまでは、外見を取り繕うのが関の山である。
今の器では、何を言っても空論である。他人の評価を気にして言い訳するよりも、たとえ幼稚であったとしても何らかを提示しているほうがずっと前進している。恥ずかしくても、間違っていても、何かを作って、実際に他人の目に触れること。それが今の自分に欠けていることである。
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